どんな人にも生きる意味があると説かれた親鸞の教えとは

『有無同然』と説く仏説を証する実例は事欠かない

2019/03/31
 
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菊谷隆太
こんにちは、菊谷隆太です。 東京、大阪、名古屋を中心に仏教講座を主催する仏教講師です。 専門は浄土真宗で、「教行信証」「歎異抄」を学び、皆さんにもお伝えしています。 このサイトは「どんな人にでも生きる意味がある」と宣言された親鸞という方の教えを知っていただきたいと思い、開設いたしました。

苦悩の根源を知らず、有無同然がわからぬ人類

 

「あなたはなぜ苦しいのか」と人に聞けば、返ってくる答えは十人十色です。
「金がないからだ」「病気だからだ」「こんな人と結婚したからだ」「才能がないからだ」「こんな性格だからだ」・・・
皆、それぞれの人が、他人には分からぬそれぞれの憂苦をかかえて生きているものです。
なんとかこの苦しみを無くせないか、せめて軽減できないかと、日夜努力をしているのが、私たちの生活といえましょう。

 

ところが仏教では今挙がったような苦しみは「苦しみの枝葉」であり、「苦しみの根元」ではない、と説かれています。
枝葉は切り取っても、また次々と枝葉が生えてくるように、人生の苦しみも、一つ解決すれば、「一難去ってまた一難」で、また違う苦しみが生じると説かれています。

 

たとえばここに夫の暴力に苦しんでいた女性がいます。
「いっそのこと別れなさい、まだあなたは若いのだから」
心配した周りの忠告に
「はい・・そうなんですが・・・」
と言うものの、女性は煮え切らない態度でなかなか一歩が踏み切れないでいる、そんなケースはよく耳にします。
夫の暴力が原因で苦しんでいるなら、別れればいいじゃないか、と思いますが、なぜ奥さんは躊躇するのでしょうか。
それは離婚すれば、夫の暴力という苦しみはなくなりますが、今度は、女手一つで二人の子供をどうやって育てていけばいいか、という違った苦しみがのしかかってくるのがわかるので、ためらうのでしょう。

 

たとえ思い切って離婚し、昼も夜も働き、経済的になんとかなる目処が立ったとしても、今度は仕事の無理がたたり、病気になってしまう、という苦しみがやってくることもあります。

 

苦しみの枝葉をやっとの思いで切ると、今度は思わぬところから生えてくる。
その枝を切ると、また違うところが生えてくる。
枝葉を切るのも一苦労だし、どうせまた生えるのなら、このまま目をつぶって生えたままにしとこうか、と投げやりにもなります。
切っても生え、切っても生え、色や形を変えて次々と現れる苦しみをあれこれ対処しているうちに、やがて力尽きて死んでいく、それが人間だとしたら、まるで人間は苦しむために生まれ、苦しむために生きるようなものになってしまいます。

 

親鸞聖人は、苦しみの枝葉をどれだけ切っても、人は苦しみから逃れられないことを明かし、「苦しみの元を早く断ち切りなさいよ、苦悩の元を絶ち切る教えが仏教なのだから」と、生涯かけて勧められました。

 

苦悩の根源を勘違いして、有無同然から離れられない人類

 

ここでたいていの人は、苦しみの原因をこのように思います。
「お金がないからこんなにみじめなんだ」
「有名になれば満足できるんだ」
「もっときれいだったらこんな苦しむことないのに」
もし大方の人が思うように、これら富や名声や美貌がないことが苦しみの根源ならば、それらに恵まれた人生は喜びに輝いているに違いないはずです。
しかし、現実はどうでしょう。いくつかの事例を見てみましょう。

 

世界遺産の五箇山合掌造り集落は、私の家から車で2時間足らずなこともあって、何度か行ったことがありますが、私としては、富山で一番の観光スポットだと思っています。
あの一つ屋根の下に家長を中心に30人!近く住んでいたそうです。
部屋はふすまで区切られているだけで、食事、団らんは1階の囲炉裏のある大広間で一緒だったというのですから、人間関係が相当大変だったのではないでしょうか。
そんな家に嫁いだら、そこはすでに舅、姑、小舅、小姑、甥、姪など勢揃いしていて、寝起きを共にしなければならず、そのストレスや如何ほどか、お嫁さんの苦労がしのばれます。

 

そんなお嫁さんが、夫婦水入らずの生活が一般的である現代の暮らしを聞いたら、どんなにこそうらやましく思うことでしょう。
夢の暮らしだ、なんて幸せな時代なんだ、と思うかも知れません。

 

今でも親と同居したために、嫁姑問題が勃発し、苦しむ嫁、同じく悩む姑、そしてその両者から「なんで私がこんな思いをしなければならないの」と責められる夫、三者三様で苦しむ家庭もあります。

 

じゃあ別居したら問題解消かといえば、また違った問題が起きます。
夫婦共働きだと、子供の幼稚園の送り迎えに困りますし、夫婦げんかがほどほどで止まらずエスカレートしてしまうとか、同居の時にはなかった問題が多々起きて、やはり悩んでいます。

 

合掌造りのような大所帯の暮らしでは、親が子供を虐待死させる事件とか、引きこもりで親に暴力を振るう子供とか、出会い系サイトで寂しさを紛らわせる、なども起きにくいですし、親族が仕事の斡旋をしてくれたり、縁組みの世話をしてくれたりして、孤独な若者も今よりも少なかったようにも思いますし、独居老人の孤独死という悲哀も少なかったでしょう。

 

どっちもどっち、「隣の芝は青く見える」で、苦しむ姿は変わりません。
これを仏教では「有無同然」といいます。
“有っても、無くても、苦しみ悩みは変わらないですよ”と教えられたお釈迦さまの教えです。

 

 

時代も国も違っても、有無同然

 

江戸時代は幸せだった、という歴史観の根拠としてよく用いられるのが、幕末や明治初期に日本に訪れた外国人たちの証言です。

「私は質素と正直の黄金時代を、いずれの国におけるよりも多く日本において見出す」(ハリス)
「人々の暮らしの光景すべてが陽気で美しい。だれもかれも心浮き浮きとうれしそうだ」(米国の女性旅行家イライザ)
「江戸上陸当日、不機嫌でむっつりした顔にはひとつとて出会わなかった」(オズボーン)

しかしこれらの声を聞いても私は、諸手を挙げて「江戸時代は幸せだった」とはちょっと言えません。
これは多くの現代日本人が、南の島国の原住民の屈託のない笑顔や人なつっこさに感動して、「日本より幸せだ」「最後の楽園だ」とはやし立てるのと同じ現象ではないかと思うからです。

 

日本人が「楽園」とレッテルを貼る原住民は「ああ、俺たちは幸せだ」と身の幸をかみしめているか、というとそうでもなく、「毎日毎日、魚獲って一日が終わる。オレのじいちゃんも、オレの父ちゃんも魚獲って、一生が終わっていった。オレもこのままではそうなるのか。。。ああ、うんざりだ。こんな国、嫌だな。日本の秋葉原とか行きたいな、もっと自由に生きたいな」などと、思っているのではないでしょうか。
幕末の外国人も、遠い異国の地で、見るもの聞くものすべて新鮮で、感傷的な気分にもなっていたのだろうと、私は思います。

 

江戸時代は江戸時代で、こんな世界嫌だなと、尻込みする陰鬱な部分もたくさんありました。
完全なる階級社会、長兄のみ世襲で次男以下は結婚も出来ない、抗生物質やワクチンがなく、虫歯も治せない、飢饉が多く餓死者が多い、これも江戸時代の一つの側面です。

 

徳川家康は、戦国の世を終わらせ、太平の世を築くために江戸幕府を開き、幕末の志士は、日本が欧米列強の植民地にならぬよう、明治維新を成し遂げました。
確かに日本の変革に彼らの活躍があったことは事実ですが、ではそれで人は幸福になったか、と問われると、答えを失います。

 

大化の改新、建武の新政、天保の改革、明治維新、何とか苦しみの重荷を下ろそうと「刷新」「改革」「新政」「維新」と理想を実現したものの、重荷を右肩から左肩に移し変えただけで、「変わった」が「幸せになった」感がありません。
数え切れないほどの武士が斬られ、社会が変わろうと、人類の根本的な問題は何も変わらず、真の幸福には、近づいてさえもいません。
懸命に幸福を追い求めて変化してきた歴史の変遷は、“有っても無くても苦しみは変わらない”と説く『有無同然』の仏説まことを証しているかのようです。

 

有無同然についてさらに知りたい方はこちらです。

マンガで学ぶ仏教(9)【有無同然】

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