どんな人にも生きる意味があると説かれた親鸞の教えとは

食欲という煩悩の恐ろしさを知る

2020/11/19
 
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菊谷隆太
こんにちは、菊谷隆太です。 東京、大阪、名古屋を中心に仏教講座を主催する仏教講師です。 専門は浄土真宗で、「教行信証」「歎異抄」を学び、皆さんにもお伝えしています。 このサイトは「どんな人にでも生きる意味がある」と宣言された親鸞という方の教えを知っていただきたいと思い、開設いたしました。

仏教で教えられる『十悪』のうち、心で造る罪悪が三つあり、その筆頭が『貪欲』です。
欲しい、欲しいと求める心のことです。
貪欲の中でも代表的な五つを『五欲』といい、その最初に挙げられるのが『食欲』です。
今回、「食欲」についてお話いたします。

 

食欲で作る罪悪

 

「食欲」を罪悪だと説かれる釈迦の教えに、「食欲がなぜ悪なんだ?」と首をかしげる人も多いと思います。
「食欲の秋」と聞いて「悪を造る秋」と思う人もありませんし、「私、お腹空いちゃった」と発言する人に「なんて悪いことを口にするんだ」と眉をひそめる人もありません。
「食欲が旺盛なのは健康的でいいことであり、咎められることではなかろう、何が悪いことあるか」と言っています。
しかしそれは類いまれな飽食な時代に私たちが生きているから、そんなことが言っておれるのです。

 

人類史は何千年も前から「飢饉」を最悪の敵としていました。
つい100~200年前には世界のほとんどの人が、生物学的貧困線のギリギリのところで暮らしており、この線を下回ると栄養失調となり、飢え死にしました。
わずかなミスや不運、たとえば豪雨で田んぼの稲がやられたり、といった出来事で、一家全員、あるいは村全体が、いとも簡単に餓死に追いやられたのです。

 

江戸時代には全国各地で、大小合わせ35回も飢饉に見舞われました。
天明の大飢饉による餓死者は30万人とも50万人ともいわれ、特に東北地方での被害は甚大で、弘前藩では人口の3分の1が餓死しました。
越後の国では、親が衰弱した子供達を柱にくくりつけ、兄弟同士、食べ物を巡って殺し合いを始めるのを防いだといいます。

 

飢饉を生き延びてきた当時の人たちは、生き延びるその過程の中で、とても人には言えない、いや自分でも思い出したくもない、そんな罪をどれだけ犯したことでしょう。
本来は兄弟や子供に分かち合うべき食物を、ひそかに自分一人で食べてしまい、その結果、兄弟や子供を栄養失調で死なせてしまった、そんな事例もいくらでもあったはずです。
食欲の引き起こす罪悪の恐ろしさは、じゅうぶん骨身にしみていたことでしょう。

 

食欲で煩い悩んでいるのは今も昔も同じ

 

仏教で説かれる『食欲』は、『貪欲』という煩悩の一つに数えられています。
食欲は私たちを悩ませ煩わせるものだと、釈迦は説かれているということです。
これはお釈迦様に言われるまでもなく、人類にとって何千年にわたって最大の敵は「飢饉」だったので、人間は、自らの持つ「食欲」が強いものであるか、その欲のためにどれだけ苦しみ悩んでいるか、骨身にしみて理解していました。
いつでも食べたい時に食べられ、飲みたい時に飲めたら、どんなに幸せだろう、そうなれば食欲に煩わされることなく生きられるのに、とどんなにこそあこがれたことでしょう。
しかしそれは叶わぬ夢でした。

 

ところがこの100~200年の間に劇的に事態は改善し、現在では、世界の一部の地域を除いては、飢餓による死亡はほとんど無くなりました。
冷蔵庫を開ければ、お湯を注げば、缶詰開ければ、ビニールの封を開ければ、お手軽に空腹を満たすことができます。

 

では現代社会に生きる私たちは『食欲』という煩悩から解放されたでしょうか。
実はそれは今も変わりません。
「飢餓」で苦しむことはなくなっても、代わりに「過食」が深刻な問題になって私たちを苦しませているからです。
2014年、世界で太りすぎは、21億人です。
2010年、飢饉と栄養不良で亡くなった人が約100万人に対して、肥満が原因で亡くなった人300万人以上いました。
食べ物が足りなくて死ぬ人の数を、食べ過ぎで死ぬ人の数が史上初めて上回ったのです。
ケーキ、アイス、スナック菓子、ハンバーガー コーラなど毎日のように口に詰め込み、その結果、生活習慣病を患い、それでもなお食べたいと執着し、自分で自分の首を絞めていってしまう人がいかに多いことか。
これも『食欲』のなせるわざです。

 

現代世界では戦争による12万人、犯罪犠牲者が50万人に対して、糖尿病で亡くなった人は150万人です。
今や砂糖の方が火薬よりも危険、なのです。

 

食欲によっておびただしい悪を造る人間

 

食欲によって作る罪悪の最たるものは、動物を殺す「殺生罪」です。
ところが今日私たちは、窃盗やウソや不倫は、法律でも、道徳的にも罪悪とされますし、犯してしまえば発覚を恐れ、びくびくしますが、殺生の場合、そもそも罪悪だと受け止めている人は少ないようです。
「弱い者が強い者に食べられる、それは自然界の摂理だから殺生は悪くない」と言う人もあります。
しかしその主張が通るなら、権力や武力を持つ強い者が弱い立場の人間を虐殺するのも、自然界の摂理だから悪いことではない、と民族浄化や大虐殺を肯定することになってしまいます。

 

「生きていくには殺生は仕方ないではないか」という意見もあります。
しかし「仕方ない」と「罪ではない」は違います。
殺されていく動物たちは、自分や自分の家族が殺されていくのを、「人間たちはそうしなければ生きられないのだから仕方ない、許そう」とは思えないでしょう。
人間の都合で「悪くない」と勝手に判断しているだけです。

 

「遊びや面白半分でする無益な殺生はよくないが、自分たちが食べる分をいただいているのだから」と言う人もありますが、これとて「だから悪くない」とはいえませんよと、釈迦は説かれているのです。

 

「命をいただいているという感謝を忘れず、ありがたくいただくのが大事」という人もあります。
感謝して食べれば、罪が精算されるとでも思うのでしょうか。
これも釈迦は、殺生罪には違いありませんよ、と言い切られます。

 

いかなる理由をくっつけようとも、死にたくない命を、こちらの都合で一方的に殺める殺生の罪は恐ろしい罪ですよ、と釈迦は明言されています。

 

ある大学生のゼミのグループが鳥を卵から孵して、雛から育て、やがて食す、という実体験をする研究をしました。
調理する日が近づいたある日のこと。
A君から「今はまだ鳥を殺すべきではない」という意見が出て、ゼミ生全員が研究室で話し合いました。
A君は、鳥を一番可愛がり、誰よりも率先して小屋の掃除をしていたので、気持ちはよく分かります。
「いま卵を育てているから、卵を産み終わってから‥‥」
「ペットとして飼っていたんではないんだぞ」
「自然死してからでは」
「自然死を待っていたら、病気が怖いから、食べられなくなる」
そんな意見の応酬があって、最後は多数決となりました。
「屠る(殺す)べきではない」が2人で、残りのゼミ生全員が屠る方に手をあげました。

 

私たちが普段目にする肉は、すでにブロックで切りそろえられたものですから、 殺生をしているという自覚がありません。
ゼミ生たちは実習で、鶏がまな板の上で鳴き叫ぶ姿、首を絞められ、ばたばたもがく姿を目の当たりにして、肉を食べるということはこういうことなんだ、と強く自覚したことでしょう。

 

この研究ゼミで学んだこととしてゼミ生たちは「命をいただいているという感謝を忘れてはいけないと思った」「無益な殺生はあってはいけない」などの感想を出しました。
しかしそれは表向きの回答で、やはり彼らは、たとえ法律や道徳では咎められなくても「これが罪でないはずがない」と心の中でつぶやいたのではないでしょうか。

 

殺生の罪の厳粛な重さを実感する機会が現代人にはなくなってきていますが、目の当たりにすれば、誰しも「殺生罪を犯している恐ろしい自己」を痛感します。
釈迦は殺生罪を「人間の、どうにもならない、恐ろしく、悲しい業」と説かれています。

 

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