「諸行無常」の世にあって変わらぬ幸せがあると説くブッダの教え

仏教に『諸行無常』という言葉があります。
『諸行』とは「すべてのもの」。
『無常』とは「常が無い」「続かない」こと。
すべてのものは移ろい変わる、これだけは変わらないというものは世の中にない、という真理を、仏教では漢字4字で『諸行無常』というのです。
今回は『諸行無常』の実相を、数々の事例を通してお話しします。
諸行無常の世に涙するスキピオ
いま私は自分の家でパソコン使ってこの文章を書いていますが、このパソコンも5年目だし、そろそろ壊れるかもしれません。このパソコンを置いている机もやがて壊れます。
この家自体、やがて崩れるのだし、こう話している自分自身の肉体もいずれ失うのだし、地球だって、太陽だって滅びる、一切は無常です。
大切にしているもの、支えにしているものも例外ではありません。
周りを見渡せば、子供を失って悲嘆に暮れる人、妻を亡くして虚脱の人、事業に失敗して絶望する人、みな大切な明かりを失って、諸行無常の現実を前に苦しんでいる人たちです。
しかも私たちは崩れた時に、はじめて苦しむのではありません。
崩れる前から、やがて失うかもしれないという予感が心に暗い影を落とし、苦しむのです。
彼氏の一挙手一投足に「あの一言は何だったんだろう、気持ちが冷めたんだろうか」と動揺し、朝起きたときに感じた鈍痛に「この痛みは、ひょっとして病気の再発では」と怯え、取引会社の意味深な言葉に「もしかしたら他の会社に乗り換えようとしているのでは」と心がざわついています。
古代ローマ共和国の英雄スキピオの言い遺した言葉で、西洋で2000年以上にわたって語り継がれる有名な言葉があります。その言葉が有名なのは、諸行無常の悲哀がこもっており、時代を超えて人の心を打ってきたからです。
700年にわたって地中海の覇者だった都市国家カルタゴがスキピオに滅ぼされ、カルタゴの都が火に包まれるのを見つめていたスキピオがはらはらと涙を流して言った言葉です。
今われわれは、かつて栄華を誇った国の滅亡という、偉大なる瞬間に立ち合っている。
だが、この今、わたしの胸に占めているのは、勝利の喜びではない。
いつかわがローマも、これと同じときを迎えるであろうという哀感なのだ
スキピオが感じた哀感を、仏教では「無常観」といいます。
「無常を観ずるは菩提心の一なり」
今手にしている支えや明かりも、やがて失うことがあるのを予感して感じる不安、虚しさ、寂しさにまじめに目を向けるのが仏教です。
司馬遼太郎『坂の上の雲』のあとがきに諸行無常の仏説をおもう
司馬遼太郎の『坂の上の雲』は私の好きな小説の一つですが、あの小説は日本の誇りを謳い上げたものでもなければ、英雄たちの武勇伝でもない、あの作品の底に流れる司馬遼太郎の視点は、仏教の教えに相通じる『無常観』だと私は感じています。
それが色濃く出ているのは『坂の上の雲』最終巻のあとがきにある司馬遼太郎の文章です。
そこで司馬氏は、日露戦争後、日本の国民と国家が勝利を絶対化し、神国日本は負けないと慢心し、太平洋戦争に突入していく過程を述べた上でこう綴って筆を置いています。
敗戦が国民に理性を与え、勝利が国民を狂気にするとすれば、長い民族の歴史からみれば、戦争の勝敗などというものは、誠に不思議なものである
戦争はその国とその民族の興廃をかけた真剣な総力戦で、双方ともに正真正銘命懸けですが、その勝ち負けさえも、長い民族の歴史から見れば、どちらが良かったと言えるだろうか、“誠に不思議なもの”と記しています。
人生もまた然り。
挫折や失敗などの逆境もあれば、成功や賞賛などの順境もあります。
挫折したときは、これでもう自分は終わりだと悲観しますし、賞賛を浴びたときは、有頂天にもなります。
しかし屈辱や敗北も、いつの日か「あれがあったればこそ」と喜びに転じることもあれば、成功や栄光も、いつしか「あれは何だったんだろう」と失意に変じてしまうこともあります。
勝った負けたと狂騒したのも「夏草や 兵どもが 夢の跡」ではないか、と語りかけてくるような、印象的な締めくくりでした。
諸行無常は無情なり
友人と二人、駐車場脇の花壇に咲くあじさいの前を通ったときのこと。
ついこないだまできれいに咲き誇っていたあじさいの花が夏の日差しでか、さび色に朽ち果てているのを見て「無常だよな」と私がぼそっと言ったところ、横にいる彼は、私が「無情だよな」と言ったと誤解したことがありました。
連日の猛暑でぐったりしたあじさいを私が「かわいそうだ」「哀れだ」という意味で、「無情」という言葉を使ったと思ったそうです。
その後の会話のやりとりで「無常」を「無情」と受け止めていたのが分かったのですが、読み方が一緒なのと、一般的には「無常」より「無情」をよく使うので、確かに誤解しやすいですね。
ただ意味自体を考えれば、あながちに間違いともいえません。
確かに「無常」は「無情」だからです。
かつてはその業界で「○○にその人あり」と辣腕でならした人が、脳梗塞や難病で体が思うように動かず、病床で呻吟する姿に、「無常」を見せつけられますが、まさにその姿は「無情」でもあります。20代の看護師におむつの交換をしてもらい、介助なしでは食事も取れない有り様に「あれがあの辣腕でならした△△さんか」と、見舞いに訪れたかつての部下も言葉を失うそうです。
十何年ぶりにテレビで懐かしの女優を見かけたりすると、「老けたなぁ」と驚くことがあります。
無常の世ですから老いるのは当然とはいえ、それが美しい人だとなおさら、その「無常」は「無情」、残酷なものです。
高齢化が進む日本で深刻化しているのは、介護問題です。
私の知り合いにもご本人も65歳以上なのに、さらに高齢の親を介護している方があります。
これを「老老介護」というそうですが、さらに深刻なのは「認認介護」です。
「認認介護」とは、認知症の夫を、同じく認知症が進んできた妻が介護することです。
今日、在宅介護の世帯の約10パーセントが「認認介護」状態だといわれ、その割合は増加する一方です。
無常の世の中、やがて我が身にも訪れる現実とはいえ、痛々しいばかりで、あまりに「無情」です。
病院でも無常の嵐が吹き荒れています。
末期医療を施す病棟では、入院して一ヶ月足らずでベッドが空き、また次の人、次の人と入れ替わり、恒例の事務処理手続きのように、医師も看護士も慣れていくそうで、その姿にも「無情」を感じます。
無常の風の吹きすさぶ、無情の世にあって、真に変わらない幸せはないか、人は心の底で渇望しています。
諸行無常の世に真の幸福はあるか
育児日記には「できるようになったこと」チェックシートがあります。
「首がすわった」「寝返りができた」「歯が生えた」「お座りができた」「初めて離乳食を食べた」「バイバイができた」など、初めてできた日にちを記入できるスペースがあり、これを埋めていくことにパパとママは喜びを感じるそうです。
こうして毎週、目に見えて成長していく子供の将来は、前途明るく楽しみですが、その対極にあるのが、高齢者です。高齢者はどんどんできないことが増えていきます。
育児日記ならぬ、老人日記があれば、そこには「できないようになったこと」チェックシートがあり、「歯が抜ける」「免許証を返す」「人の名前を思い出せなくなる」「立てなくなる」「固形食がのみこめなくなる」など、だんだんチェック事項を埋めていくことになります。
育児成長日記は書き込んでいくのも楽しみで、売れていくでしょうが、高齢者衰退日記の方は書き込みたくもないし、見たくもない、制作しても売れないのではないかと思いますが、これも、人生の黄昏時、人生の下り坂、といわれる、私たちの確実な行く先には違いありません。
どんどん老いていき、やがて死ぬ、この無常の人生に何の意味があるのか、そこをごまかさず直視し、老と病と死を超えた本当の幸福を求めて、シッダルタ太子(のちのお釈迦さま)が出家されたのは、29歳の時でした。
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