仏教が暴露する、人間の慈悲の三つの欠点とは

仏教に『慈悲』という言葉があります。
今日では日本語になっており、「あの人は慈悲深いよ」「あのやり方は慈悲のかけらもない」などと、いろいろな場面で使われます。
本来仏教で『慈悲』とはどんな意味なのでしょうか。
また仏教で説かれる慈悲には三つの欠点があると釈迦は説かれていますが、それはどんなことなのでしょうか。
今回は『慈悲』についてお話ししてまいります。
目次
仏教で「慈」の心、「悲」の心とは
『慈悲』とは、『慈』の心、『悲』の心、ということです。
漢字の造りから見ても、両方とも「心」という字がついていますよね。
『慈』も『悲』も共に「心」のことです。
ではどんな心なのか、といいますと、『慈』とは、「抜苦(ばっく)の心」、『悲』とは、「与楽(よらく)の心」です。
『慈』とは、苦しんでいる人の、その苦しみを抜いてあげたい、という心です。
苦しんでいる人をほおっておけない、という心です。
この慈悲の心のない人、慈悲の心の薄い人を「無慈悲な人」といいます。
苦しんでいる人がいても「あいつの自業自得じゃないか。オレには関係ない。It’s not my business.知ったことか」と見て見ぬ振りができる人が無慈悲な人です。
『慈』の心のない人です。
たとえその苦しみが自業自得であっても、その苦しみを何とか和らげられないものか、とじっとしておれなくて、何かせずにおれなくなるのが『慈』の心です。
たとえ自分はどんなひどい目にあっても、どんな苦難を受けようとも、この人を絶対に不幸にさせてはならないと『慈』の心に動かされたとき、人は強くなります。
『悲』とは、相手に喜んでもらいたい、笑顔にしたい、楽しませたいという心です。
自分さえ喜んでおればいい、とは思えない心です。
あなたも美味しいラーメン屋に感激したら、あの人にも食べさせたい、という気持ちになるでしょう。
他の者はまずいラーメンを食べてろ、この店は俺だけが楽しむんだ、という人は、無慈悲な人です。
自分さえ評価されればいい、自分さえ儲かればいい、自分さえ好かれたらいい、この忙しいのに、あとの人の幸せまで考えておれるか、と思っている人は無慈悲です。
この人を笑顔にしたい、幸せな人生を送って欲しい、どうすればこの人に貢献できるか、どうすれば喜んでもらえるか、この「どうすれば」は崇高な悩みといえましょう。
たいていの人は、どうすれば認められるか、どうすれば儲かるかと自分のことでクヨクヨ悩むものです。
周りから取ることを考えるのではなく、周りに与えることだけを考える、この『悲』の心に動かされたとき、人は強くなります。
人を強くさせるのは、実にこの慈悲の心なのです。
仏教の説く慈悲の三つの欠点
ところが仏教では人間の慈悲を『小慈悲』といわれ、欠点のある慈悲だと説かれています。
お釈迦さまは3つの欠点を指摘されています。
以下の3つです。
1.続かない
2.盲目である
3.差別がある
これはそれぞれどんな欠点なのか、見ていきましょう。
大好きな彼女が苦しんでいたら「君の苦しみを半分背負わせてくれ」「君の笑顔を守りたいんだ」と男性なら力強く宣言するでしょう。
「ホントなの?信じていいの?」と女性が言えば「これがウソを言っている目だと思うか」と間髪入れずに返します。
瞳をのぞけば、「うん、確かに目線は泳いでいない」「確かに目力もあって真剣だ」と女性も思う。
確かにその心はウソではなく、本気なのでしょう。
(中にはその表情や目力まで演技する不逞な輩もいますから女性は気をつけてくださいね)
しかし【本気】ではあっても、それが【ずっと続く】かというと話は別です。
結婚して4年もすると、その男性は職場にいる薄幸のOLの苦しみを半分背負いたくなってくる。
家庭にいる妻の苦しみを背負うより、美しいあの人の苦しみこそ、何とかしてやりたいと心が変わる。そして、その女性こそ笑顔にしなければ、と意気を感じるようになる。
奥さんとしては完全に裏切られた気持ちです。
「あなた、結婚の時に言ってたよね!“君の苦しみを半分背負わせてくれ。”って、あれ、ウソだったの!」
「“君の笑顔を守りたいんだ。”って言ったよね!あれもウソ!?」
過去を持ち出されると、夫は困ってしまいます。
ウソかというと、ウソではなかった、当時は本当だったのだから。ただ続かなかったのです、その心が。
だから夫はこう言ったらどうでしょう。
「ウソじゃない。ただ、続かなかったんだ」
・・・言わない方がいいでしょう。よけい収拾がつかないケンカになりそうです。
優しくしても、それが続かず、途中で優しくなくなった場合、残酷です。
当然、相手からしたら「だまされた、裏切られた」と思うでしょうから。
確かに心は無常です。
心はころころと変わり続けている、と仏教では説かれます。
しかしだからといって「続かなかったからしょうがないじゃん」で済む問題ではありません。
何かの挨拶のように「君の苦しみをとってあげたい」「君の笑顔を守りたい」と言う人は、信用できる人とはいえません。
今そういう気持ちだからと、すぐ口にしていいかどうか、考えなければなりません。
本気で「この人」と覚悟したここ一番のときでなければ、こういうことを口にしてはならない、と慎むのが節度ある大人です。
「君の苦しみを半分背負わせてくれ」
躊躇せず、世間話をするようにこういうこといえる人は、相手が傷つくことになるかどうかまで関心を払わない無責任な人か、あるいは己の心の無常を知らない子供か、いずれかではないでしょうか。
仏教では人間の慈悲には差別があると説く
仏教で説かれる人間の慈悲の三つの欠点の一つが『差別がある』という欠点です。
これも一つの事例を通してお話しましょう。
アフリカで飢餓に苦しむ子供の映像がテレビに映ると、慈悲深いお母さんなら「うちの子と同じくらいの歳なのに、どうしてこんなかわいそうな目に」とハンカチで涙をぬぐうでしょう。
ところがテレビを見てるときに自分の子供が「コンコン」とセキをすると、すぐテレビ消して「どうしたの?」と心配そうに額に手を当てて、熱でもあろうものなら血相変えて、すぐ病院行かなきゃ、とせわしくなる。
テレビに映っていた飢餓で死にそうな子供よりも、自分の子供の「コンコン」のセキの方がずっと気になるのです。
慈悲の心はあっても、平等に降り注がれることはありません。
えこひいきする慈悲、が人間の実態でしょう。
アフリカでは毎年500万人近い子どもたちが5歳になる前に命を落としています。
基礎的な保健サービスさえあれば、失われずにすむ命だそうです。
私達が一食20円安く食べ、その分をアフリカに回せば、アフリカの子供達の一回分の給食費となり、多くの人命が餓死から救われるようです。
「無関心による大量虐殺」といわれるアフリカの惨状が調べるほどに知らされてまいります。
たとえば、チョコレート。
原料カカオの世界最大の輸出国、コートジボワールの農園では、1万5千人の子どもが奴隷として働き、生産コストを下げています。
だから先進国では簡単に手に入るチョコレートには、アフリカの子どもたちの汗と血と涙が混じっている、といわれます。
私達が自分の子供を休日に東京ディズニーランドに連れていき、フリーチケットでいろいろな乗り物に乗せ、ポップコーンやチョコアイスを買ってやり、ミッキーのぬいぐるみも買ってやると、子供はすっかりご満悦で、それを見て両親も喜び、父親はそんな子供の笑顔を一生懸命ビデオに収めています。
よく見かける風景です。
幼児虐待だの、育児放棄などが問題になる中、ほほえましい家庭風景の一ページですし、両親の愛情の深さが伝わってまいります。
しかしもしアフリカで飢餓に苦しむ子供達が、その映像を見たらどう思うでしょう。
なんて自分本位の、無慈悲な人たちなんだろうと恨むかもしれません。
ただ実情は、アフリカの子供達が、そんな世界の経済格差の背景を知ることもないので、恨むこともできないのですが。
仏教では、人間の慈悲は盲目であると説く
仏教で説かれる人間の慈悲の三つの欠点の一つが『盲目の慈悲』ということです。
ある事例を通して、考えてみていただきたいと思います。
「エニグマ」という映画があります。
映画のタイトルは、解読不可能とされたナチスドイツの暗号の名前です
イギリスはエニグマ解読に約1万人を投入し、ついに解読に成功します。
その結果、ドイツはコベントリーという町を11月14日に空襲すると判明しました。
情報はチャーチルのもとに伝えられ、暗号研究所のメンバーは、イギリス軍がドイツ軍を返り討ちするニュースを心待ちにしました。
ところが、チャーチルはこの情報を無視します。
コベントリーは無防備のまま空襲を受け、街は壊滅的な被害を受けました。
このとき、チャーチルはコベントリーを失うことよりも、イギリスの暗号解読能力を知られることを恐れたのです。
この難しい政治的決断を後にチャーチルは『第2次世界大戦回顧録』で告白しました。
『回顧録』はノーベル文学賞を受賞し、思慮深き勇断であった、と評価されています。
「大の虫を生かすには、小の虫を殺さねばならぬ」ということわざもあり、「小善は大悪に至り、大善は非情なり」という格言もあります。
チャーチルの判断はナチスドイツとの戦争を勝利に導くのに、やむを得ぬものであったのかもしれません。
しかし、もし空襲された町にあなたの家族が住んでいて、殺されてしまったとしたら、チャーチルにあなたはどんな気持ちを抱くでしょうか。
コベントリーの町の中心広場には、第2次世界大戦時に爆撃を受けた建物が、今でも当時のまま残されています。
市民はいつまでも、この空襲を忘れずにいます。
智恵のない慈悲の実態を暴く仏教
「人間の慈悲は盲目の慈悲である」と喝破された仏説まことを示す事例には、枚挙に暇がありません。
ある名女優が高校生の息子に月50万ものお小遣いを与え、自宅の広い地下室を子供部屋にし、その地下室で友人と覚せい剤パーティーを開いていたところを逮捕された、という事件がありました。
このニュースを聞いたときには、まだ常識も知らず、自制心もない高校時代に月50万円ももらっていたら、そりゃ誰でも金銭感覚はどうかなってしまうよ、と思ったものです。
・買えないので我慢する、
・買おうと思ってバイトする、
・バイトすれば理不尽な理由で店長や客に叱られながら、 一生懸命頭下げる、
・くたくたになってやっともらえた1万円
こういった、高校時代くらいに初めて経験する『金をうる』ということの重みが、やがて大学時代上京して仕送りを送ってくれる両親への感謝になり、額に汗して働く人たちへの尊重にもなっていくと思うのですが、そういうことが何もわからなくなってしまうのは不幸だと思います。
『溺愛し 子供をだめに 育ておる』の歌を思い出します。
さればといって、甘えさせてはいけない、厳しくしつけなければ、と叱ってばかりいると、意固地でいじけた自己評価の低い子供になるとも言われます。
「赤ちゃん時代」の「だっこ」「おんぶ」「添い寝」に始まり、幼児期の間に繰り返し「甘えさせて」もらっていく中で、親に対する安心感、確かな信頼感を形成していきます。
そして、「信頼」という絆がしっかりと結ばれていればこそ、子どもは親の言葉に心を開き、たとえ厳しく叱責された場合でも、素直に耳を傾けることができるようです。
親は子供を苦しませてやろう、不幸にしてやろうと思って育てることはありません。
親はみな、自分の子に幸せになってほしい、という慈悲心であふれています。
なのに、育て方が上手くいかず、悩んでいる人がどれだけ多いことでしょう。
「長男はこの育て方でうまくいった。 同じように育てているのに、次男はなぜこうなってしまったの」といった事もあります。
先を見通す智恵のない、慈悲の実態を知らされます。
慈悲は要らないのか、仏教の見解
人間の慈悲の欠点を回数を重ねて話をしてきましたが、この回の最後に言っておきたいことがあります。
慈悲には欠点はありますが、これは決して「こんな私達は慈悲の心は要らなくていい」「無慈悲であっても仕方ない」「冷淡であっても構わない」と主張しているのではありません。
むしろその逆です。
お釈迦様は慈悲の実践の大切さを重ねて教えてくださった方です。
その上で、人間の慈悲の欠点を示され、「心せよ」と教えてくださっているのです。
・続かない慈悲で人を傷つけてしまうからこそ、気をつけなければなりません。
・慈悲に差別があって、そのために誰かを寂しい気持ちにさせているのだから、配慮していかなければなりません。
・盲目の慈悲で失敗する者だからこそ、よく考慮して事を起こさなければなりません。
だからといって慈悲の心を失ったら、人から信頼され、愛されることもありません。
蒔かぬ種は生えません、から。
天下人、秀吉にも懐の深さを感じ取ることのできる、こんなエピソードがあります。
秀吉が、天下を取ってからのことです。
京都の東山に、松茸がたくさん生えていると聞き「松茸狩りをして遊ぼうではないか」と秀吉が言い出した。
家臣たちが下見に行くと、すでに京の人々がほとんど採ってしまい、わずかしか残っていない。
落胆する秀吉の顔が浮かぶ。
そこで、彼らは、あちこちから松茸を取り寄せて、こっそりと山に植えることにした。
夜を徹して作業を続け、なんとか間に合わせたのである。
秀吉は、お祭り騒ぎのように、やってきた。
見ると、そこら中が松茸だらけ。
「これは見事」と、非常に機嫌がよい。
子供のように、はしゃぎながら松茸を採っていた。
すると、側にいた女性が、秀吉の袖を引いて「これは自然に生えたものではありません。誰かが植えたものでございます。殿下には、それがお分かりになりませんか」と小賢しく言った。
秀吉は、手を振って、さえぎり「こら、言うな、言うな。俺たちを喜ばせようとして、皆がやったことだ。これだけ植えるには、相当の苦労があったはずじゃ。その気持ちを、ありがたく受けとってやらねばならぬ」とニッコリ笑ったといいます。
秀吉は自ら才能がある人であったことはもちろんですが、戦国の世、優秀な人材が「この人のためならば」と群参したのも、このエピソードに見られるような秀吉の人柄があったからでしょう。
確かに人間の慈悲には欠点があります。
今回の内容はその欠点を浮き彫りにしたものですが、だからといって「慈悲の心は要らない」などと釈迦は決して言われていないことを確認しておきたく思います。
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