どんな人にも生きる意味があると説かれた親鸞の教えとは

相手の立場に立つ「布施」の精神がどんなに大切か

2020/11/19
 
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菊谷隆太
こんにちは、菊谷隆太です。 東京、大阪、名古屋を中心に仏教講座を主催する仏教講師です。 専門は浄土真宗で、「教行信証」「歎異抄」を学び、皆さんにもお伝えしています。 このサイトは「どんな人にでも生きる意味がある」と宣言された親鸞という方の教えを知っていただきたいと思い、開設いたしました。

仏教で教えられる善行の一つに「布施」があります。
今日の言葉でいうと「親切」のことです。
布施する時の大事な心得が「相手の立場に立つ」ことです。
今回「相手の立場に立つ」とはどういうことか、学びます。

 

子供の文章と大人の文章

 

「布施」をインドの言葉で「ダーナ」、それが転じて「檀那(だんな)」となりました。
「うちのダンナときたら~」と奥さんにぼやかれる「ダンナさん」ですが、元々の意味は「相手の立場に立って行動できる人」ですから、世のお父さんは(何を言われようとも)ダンナの自覚を持って妻子を守っていかねばなりません。

 

一方仏教で「餓鬼(がき)」とは「相手の立場に立てない人」のことです。
子供のことを「がき」と言われるのは、子供はまだ相手の立場に立った言動ができないからです。
「あいつも大人になったよな」と言う時に使う「大人」とは、18歳以上ということではなく、相手の立場に立って言動を考えられるようになったことを「大人になった」と、私たちは使います。
逆に、相手の立場に立つことができない人は、年齢は重ねても「子供」「がき」だといえましょう。

 

今、私は専ら文章を書く仕事をしていますが、「子供の文章」から「大人の文章」に脱皮しなければという切実な思いがあり、今日はそのことについて書きます。

 

子供はよく「さっきね、さっちゃんがね、おもちゃ持って行っちゃったの」と大人に訴えます。
聞く方は「さっちゃん、って誰?」「さっき、っていつ?」とわからないことだらけですが、子供は聞く人がどう思うかまで考えての発言はできません。
「さっちゃんといえば、あの子に決まっているでしょ」「さっき、というのは、2時間前に公園で遊んでいた時のこと」と子供の中ではハッキリしていることなので、相手も同じように分かってくれると思ってしゃべるのです。

 

文章を書いている時も、気をつけなければならないのは実にここで、相手の立場に立っていないことが多いのです。
読み直してみると、自分しか分からないことを書いてしまっていることに気付きます。
何度も推敲が必要なのは、相手の立場に立って書き直さねばならないからです。
・スッと理解できるだろうか
・読みづらくないだろうか
・理由を提示せずに断言していないだろうか
・前の文との流れはスムーズだろうか
常に相手のことを考えながら、読み直します。

 

また様々な読者を想定して、自分の文章を読み返すのも勉強になります。
ボーッと読み流す人になってみたり、ケチをつけようと思って読んでみたり、この人ならどう読むだろうと、想定して読んでみたりします。
こういうことを重ねて気付くのは、いかに自分の文章が自己本位で子供っぽい文章か、ということです。

 

もう一つ、相手を配慮できない子供のエピソードを一つ。
夏休みにお祖母ちゃんの家に、孫の6歳の子供が一週間遊びに来た時のこと。
その家には失業中の叔父さんも一緒に住んでいるのですが、夕食の団欒時の「ねえ、おじちゃんは何で昼間からいつも家にいるの」という子供の一言が「その場を凍らせた」そうです。
こんな時、言ってはいけない言葉は何なのか、相手の気持ちを考えて選別するということも、子供はできません。

 

文章執筆でもまた同じです。
こういうことを書けば、読む人はどんな気持ちになるか、常に読者の心を意識して書かねばならないのですが、なかなかこれもできていないことが知らされます。
文章に関する本を読むと、どの人も共通して強調しているのは、「相手の立場に立つ」ことの重要性です。
文章技術の向上と聞くと、「語彙を増やす」とか「流麗な文学表現」とかを学ぶのかと思いきや、そんなことよりもずっと大事なのが、「相手の立場に立つ」ことだと知らされます。

 

赤ちゃん目線も布施の精神

 

「赤ちゃんがはいはいを始めたら、親もはいはいをしてみましょう」
これを『赤ちゃん目線』というそうで、やってみると、いろいろなことがわかるもんですね。
この置き時計、落ちてきたらちょうど頭に当たっちゃうな、とわかります。
テーブルクロスを使うのも怖いな、と思います。
赤ちゃんが引っ張って、テーブルの上の物をひっくり返してしまうことがあるからです。

 

考えてみれば、これって赤ちゃんに限らず、相手の目線に立つのは、どの道にも通じるでしょう。
仏教を人に語る際も、相手の目線に立って話をしていないために失敗することが多いのです。
自分がわかっていることを話すときは、これくらいはわかるだろう、と話が乱暴になる。
自分がそのこと一つわかるのに、どれだけ手間ひまかかったか、忘れてしまっているのです。
言いたいことをどんどん言って相手を混乱させている。
自分にとっては日常会話のように使っている仏教用語も専門用語なので、聞かれる方は難しく感じて、やがて心を閉ざしてしまいます。

 

言いたいこと言ってる本人さんは気持ちよくても、相手は受け取っていないのです。
いや、本人が気持ちいいということは、自分本位になっている表れといってもいい。
どうしたら相手が受け取れるか、それ一つに集中して話をしなければならないし、文章も書かなければならない、と反省させられます。

 

相手に応じて言葉を選ぶ

 

新任教師が初めて赴任した小学校で、最初に担当したのが6年生のクラス、次の年に担当したのが1年生のクラスだったそうです。
1年生のクラスの最初のホームルームの時間に「分かった人は挙手して下さい」というと、誰一人反応がない。
どうしてかと戸惑い、ハッと気付いたその教師「分かった人は手を上げて下さい」と言い直すと、今度は皆、手を上げたとのこと。
6年生に分かる言葉でも、1年生には分からないことをわきまえていなかった失敗です。

 

私はホームページや動画を作成する際、わからないところをネット上のマニュアルを読んで勉強することがありますが、何しろ説明の文章に特殊用語が次々と出てきて、よく分からず、イライラします。
これ、わざと読むの諦めさせるために書いているのかな、と邪推したくなるほどです。
おそらくそれらの専門用語も、書いている人には、日常的に使っている一般用語なので、なじみすぎてしまって、分かりにくい思いは全くないのでしょう。

 

私も仏教の教えを伝える際、それが説法であれ、こうしたブログやメルマガの文章であれ、よくよく気を付けねばならないことは、このことだと自戒しています。
ついこちらが知っている仏教の言葉や教えを、皆知っているかのように錯覚して、話を進めてしまうのです。
相手の立場に立てば、この言葉は適当か、ここまで話して大丈夫か、配慮が及ぶのでしょうが、ついつい自分本位の話をしてしまうのです。
仏法を伝える時は、相手が受取りやすいように、常に相手に慮り、話していく『布施』の精神に心がけていけるよう、反省していきたいと思います。

 

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