「愛」と「慈悲」の違いを解説

仏教は『慈悲の教え』といわれます。
そこで「慈悲」と「愛」の違いをお話します。
世間一般では、仏教で「慈悲」といわれるものを、キリスト教では「愛」というのだろう、と思っています。
しかし両者は本質的に違います。
どう違うのか、明らかにいたします。
愛は惜しみなく奪うもの
まず『愛』とは何か。
「慈悲」という言葉よりも、「愛」という言葉のほうが、歌の歌詞にも使われますし、今日ではよく使いますね。
一番好きな言葉は?の問いに、「愛」と答える人も多いことでしょう。
さて、この『愛』の本質に迫ってみます。
【愛は惜しみなく与えるもの】といいます。
愛する人になら、何でもあげたい、惜しいとは思わない、愛する人が望むものは何でもしてあげたい、愛する人の役に立ちたい、それを苦労とも思わない。
いやいや、何でも、というわけにはいかないでしょう、と躊躇するのは、そこまで愛が深くないから、といえます。
たとえ命でも、と一時の感情であれ、そういう気持ちになります。
こういうところから【愛は惜しみなく与えるもの】といわれるのでしょう。
しかし同時に【愛は惜しみなく奪うもの】ともいえるのです。
あなたは愛する人が違う異性と親しそうに話をしていると、どんな気持ちになりますか?
とても穏やかではいられないのではないでしょうか。
「他の異性と親しく話をするな」と要求するのは、相手の自由を奪おうとしているのです。
旅行に行くのも、誰と一緒に行くのか詮索するようになったり、誰と携帯のメールのやり取りをしているのか、干渉したくなります。
中にはケータイの異性のアドレスを全部消せ、と強要する人もあります。
愛するものを自分が独占したい、他の人に渡したくない、と束縛しようとします。
これは愛する相手の自由を奪おうとする行為です。
しかし心までは束縛できません。
心の自由を奪うことはできず、自分から心が離れていくのが受け止められない。
ならばいっそのこと相手を殺して自分も死のうか、と思いつめたりもします。
心中事件やストーカー殺人など、愛情のもつれに端を発した事件は枚挙に暇がありません。
『愛憎一如』の意味とは
仏教には『愛憎一如』という言葉があります。
愛したが故に、相手のことを支えようと心をかけたが故に、相手が感謝もせず、自分に心ない態度をとると、憎しみや怒りが出てくるので、仏教では「愛と憎しみは一つの如し」と説かれているのです。
【夫婦喧嘩は犬も食わない】と言われるほど凄惨を極めるのも、この「愛憎一如」といえます。
お互い好きあって、「この人とだったら」と一緒になったはずなのに、首を傾げたくなるような、ひどい状況になっている夫婦は、珍しくありません。
どうしてそうなってしまったのか?
それはお互いがお互いのために、いろいろしてきたことがあったからでしょう。
相手のためにがんばってきたからです。
それなのに、なんでこんなことを言われなければならないのか、という悲しみ、なんてこんなことをされなければならないのか、という怒りがあるのです。
夫は妻から「能無しだ」「稼ぎが少ない」「ダメ夫だ」と言われると、激怒します。
「オレがどれだけお前たちのために働いてきたと思っているんだ!そのオレに対して、なんだ、今の言い方は!」と顔を真っ赤にします。
よくわかります。
奥さんのために相当心を砕いてきたから腹が立つのでしょう。
借金作ったり、愛人作ったりして奥さんを傷つけ、迷惑ばかりかけてきたのなら、たとえひどくののしられたとしても、そこまで腹は立たないでしょう。
家族のためだ、妻と子供を養わなければと、残業で疲れた身体にムチ打って、働き続けてきたのです。
奥さんと子供の笑顔を守らねば、と下げられない頭も下げて、長年にわたって外で戦ってきたのです。
その自分に対して「なんだ、今の言い草は!」となるのもわかります。
奥さんは奥さんで、夫から無視されたり、邪険にされたり、「使えない女だ」と悪態をつかれた日には「私は今まであなたのためにどれだけのことをしてきたと思っているんですか!」「お風呂も炊いて、ご飯も作って、仕事の邪魔しないように我慢してきた!その私に対してその態度はなんですか!」とヒステリックに怒ります。
これも夫のため、と思って、掃除、洗濯、炊事、夫の健康管理にも気遣って、栄養のことも考えて料理してきたことでしょうし、10年も20年も相手のことを考えてきたのです。
「それなのに、なんでその私がこんなこと言われなかればならないの!」という怒りと悲しみです。
赤の他人から無視されたり、見下げられるよりずっと腹が立つのは当然でしょう。
「愛」の実態を見てきましたが、次に『慈悲』について話をします。
衆生苦悩我苦悩 衆生安楽我安楽
仏教に『慈悲』という言葉があります。
今日では日本語になっており、いろいろな場面で使われます。
「あの人は慈悲深いよ」
「あのやり方は慈悲のかけらもない」
と使ったりしますね。
では元来仏教で『慈悲』とは、いかなる意味を成すのでしょうか。
『慈悲』とは『慈』の心、『悲』の心、ということです。
漢字の造りから見ても、「心」という字がついていますよね。
『慈』も『悲』も共に心のことで、『慈』とは、「抜苦(ばっく)の心」、『悲』とは、「与楽(よらく)の心」です。
『慈』とは、苦しんでいる人の、その苦しみを抜いてあげたい、という心です。
苦しんでいる人がいると、こちらまで切なくなってくる時ありますよね。
苦しんでいる人をほおっておけない、という心です。
「あいつの自業自得じゃないか。オレには関係ない。it’s not my business.知ったことか」とは思えないのが「慈」の心です。
苦しんでいる人がいても、見て見ぬ振りができる人があれば、それは無慈悲な人です。
『慈』の心のない人です。
たとえその苦しみが自業自得であっても、その苦しみを何とか和らげられないものか、と心がせわしくなるのが「慈」の心です。
自然災害が起きると、何か自分にできることないだろうか、と多くの人がボランティアに立ち上がるのも、この心です。
苦しんでいる人を見て、じっとしておれなくて、何かせずにおれなくなる、これが『慈』の心です。
たとえ自分はどんなひどい目にあっても、どんな苦難の中で命終わろうとも、この人を絶対に不幸にさせてはならない、と『慈』の心に動かされたとき、人は強くなります。
一方『悲』とはどんな心かというと、相手に喜んでもらいたい、笑顔にしたい、楽しませたいという心です。
自分さえ喜んでおればいい、とは思えない心です。
あなたも美味しいラーメン屋に感激したら、あの人にも食べさせたい、という気持ちになるでしょう。他の者はまずいラーメン食べてろ、この店は俺だけが楽しむんだ、という人がもしあれば、これまた無慈悲でしょう。
自分さえ評価されればいい、自分さえ儲かればいい、自分さえ好かれたらいい、この忙しいのに、あとの人の幸せまで考えておれるか。
これでは無慈悲な人になってしまいます。
この人を笑顔にしたい、幸せな人生を送って欲しい、どうすればこの人に貢献できるか、どうすれば喜んでもらえるか。
この「どうすれば」は、崇高な悩みといえましょう。
たいていの人は、どうすれば認められるか、どうすれば儲かるか、と自分のことでクヨクヨ悩むものです。
周りから取ることを考えるのではなく、周りに与えることだけを考える、この『悲』の心に動かされたとき、人は強くなります。
仏教では、仏の慈悲について『衆生苦悩我苦悩 衆生安楽我安楽』と説かれています。
(衆生(人々)の苦しみが、私の苦しみである。衆生(人々)の幸せが、私の幸せである)
この大慈大悲で言わずにおれないのが、仏の説法です。
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