自分のパートナーになぜ腹が立つのか【愛憎一如】

恋人に腹が立つのはなぜでしょうか。
「他の人にはそんなに腹が立たないのに、恋人にはなぜかイライラして怒りをぶつけてしまうんです」
そんな人は少なくありません。
「好きな人だからいつまでも仲良くしたいのに、どうしてかいつも怒りをぶつけてしまい、相手に嫌な思いをさせてしまう」と悩んでいる人は、ことのほか多いと思います。
なぜ恋人やパートナーに腹が立ってくるのか、仏教の視点からお話しします。
愛しているから、怒りも出てくる
「嫌いな人に腹が立つのなら分かる。でもそうじゃない、好きな人なのに、愛しているのに、どうしてこんなに腹が立つのだろう」と首をかしげるのでしょうが、これは何もおかしなことではありません。
【愛しているからこそ怒りも出てくる】のです。
仏教ではこれを『愛憎一如』といいます。
“愛と憎しみは一つの如し”愛と憎しみは紙の表と裏のような関係だと、ブッダは説かれています。
愛し、信じ、たよりにし、支えにしているからこそ、分かってくれないとショックを受けるのだし、裏切られたら腹も立つし、悲しくて仕方なくもなるのです。
愛する気持ちが弱ければ、裏切られた怒りも小さいです。
支えにし、たよる気持ちが少なければ、相手の気持ちや言動にもさして傷つきません。
立ち直れます。
立ち直れないのは、ぞっこん好きになった相手に裏切られたときです。
「この人なら」と自分の気持ちを寄せると、とたんに相手の言動に敏感になります。
「自分はこんなにあなたのことを考えているのに」
「そのために相当、他のことを犠牲にしているのに」
それなのに「こんなことをされた」「こんなことを言われた」と苦しくなるのです。
これは恋人だけではありません。
「この子のためなら」と愛して育てた子供が、自分に対して暴言を吐いたり、無視したりすると、腹が立って仕方なくなるのも『愛憎一如』です。
会社、上司に腹を立てたり、組織の体制に憤りを覚えるのも、同じです。
上司や組織に過剰に依存しているからです。
あまり一人の人を強く依存すると、相手の言動にいちいち一喜一憂したり、怒ったり、泣いたりして気持ちが保てないので、一人の人を愛さず、他の人ともつきあって、気持ちにバランスを取るようにしています、という人も少なくありません。
この『愛憎一如』の人間の実態を知ると、「愛」は私たちに喜びを与え、幸福を支える、大切なものですが、同時にそれは「憎」を引き起こし、不幸や涙の元となりうるものだとわかります。
理想の男は最低の男に変じる「愛憎一如」
ある女流作家が自身の半生を書き綴った手記を読んだときも、この「愛憎一如」の釈迦の教えが思い返されました。
最初の結婚は3年で終わった。
周りに流されず自由に生きているその男の姿にあこがれ、あのように自由に生きたいと結婚したが、生活を共にしてみると、理想の男が、最低の男に変じるのに時間はかからなかった。
自分の自由を押し通すために、周りの人の気持ちを踏みにじっているだけの、ただのわがまま男だった。
自由に生きたいと思っていた彼女にとって、結婚した男のためにどんどん不自由になっていく状況は耐えられなかったのでしょう。
「恋は盲目」「惚れて眺めりゃあばたもえくぼ」とはよく言ったもので、恋をしているときは、相手の全てがキラキラと輝いて見えます。
それが一転、恋の魔法が解けると、「優しい男」はただの「優柔不断男」に、「リードしてくれる男」は「わがまま男」に思えてくる。
今までえくぼに見えていたあばたは、なんだ、あばただったのか、とわかり、そのうち相手のえくぼまでもが、あばたに見えてくる、そうなったら二人の関係は末期症状です。
大好きになった理由は、いつしか大嫌いな理由に変わる。
これも「愛憎一如」の実態です。
「愛憎一如」なら、愛さない方がいいのか
愛憎一如を話すと「では人を愛さない方がいいということでしょうか」と訊かれます。
確かに人を愛し、信じ、たよりにし、支えにするから、分かってくれないことにショックを受け、裏切られれば憎くなり、悲しくなってくるのなら、愛さないのがいい、ということになります。
「愛するから傷つくんだ。愛さないこと、期待しないこと、依存してはダメ、自立しなければ」と自らにも言い聞かせ、人にもそう勧める人があります。
しかし誰にも依存しない生き方が、自由で幸福に満ちているかというと、それはそれでまた違う苦しみがあるものです。
誰にも依存せず、自立した女性を目指して頑張ってきたら、皮肉にも買い物依存症になった、という女性の実体験を聞いたことがあります。
「依存はダメ」「依存はダメ」と気負いすぎて、結局違う何かに依存してしまうケースも少なくありません。
薬物やアルコールなどの依存症が取りざたされる機会が多くあるので、「依存」という言葉には、相当マイナスな響きがありますが、依存症と呼ばれる病的な状態が問題なのであって、依存することそのものは、否定されるべきものではありません。
そもそも私たちは 何かに「依存」しなければ生きていけない存在だからです。
依存するとは、言い方を変えれば、たよりにする、支えにする、力にすることです。
夫は妻にいろいろな面で依存しています。
奥さんがいなければ、靴下がどこにあるかも知らない、アイロンのかけ方も知らない、そういう男性は多いと思いますが、奥さんにあらゆることで依存しているといえます。
妻も夫に依存しています。
苦しい時に相談する存在であり、一緒に対処法を考えてくれる人です。
夫婦はお互い支え、支えられている仲であり、言い方を変えれば、依存し、依存される仲です。
夫婦でありながら、お互い少しも相手に頼らない、支えにもしない、全く依存しない関係のというのもどうでしょう。
親は子供をたよりにし、子供は親をたよりにしています。
子供が成長して少しも自分を頼らなくなると、頼もしく感じる反面、親からすると寂しくもあります。
子供にしても、親が全然自分に依存してくれないと寂しく思うものです。
面倒をかけたくないからと、年をとっても一人暮らししている方はいますが、もっと子供に頼ったらいいのにと思いますし、またそれを子供も期待してるというケースもあります。
何もかも「依存してはだめだ」「たよったら負け」と生きてきた結果、いつしか自立は孤立になり、誰にも弱音一つ言えず、孤独に震える人もあります。
以前の心理学では、依存心の少ない人=自立している人、というように、自立と依存は反対概念のように扱われていました。
ところが最近はそうではなく、依存すべき時に依存し、そのことを認識し、感謝することによって自立する、と言われます。
依存の大切さを忘れて自立しようとしても、自立できるはずがないのです。
相手に支えられて今の自分があることを感謝し、そんな相手を自分もまた支えようと向上する関係でありたいものです。
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