「あきらめる」とは仏教の「諦観」が由来だった

「あきらめる」は仏教由来の『諦観』からくる言葉だった。その本当の意味とは。
『あきらめる』という言葉があります。
オリンピック出場という子供の時からの夢があと一歩及ばず、日本代表の人選からもれて意気消沈、あと4年間、気力体力が続くだろうか、と思ったときに「もうあきらめよっかな・・」と使ったり、あるいはダイエットしようとがんばるものの、一向に変わる兆しもなく、むしろ体重が増えてきて「もうあきらめたら」と周りの友人に言われたり(私のことです)、今日では「ユメをあきらめる」「目標達成をあきらめる」など、ネガティブな意味に使われます。
スラムダンクの安西先生の数々の名言に「あきらめたらそこで試合終了ですよ」とあるように、「あきらめない」姿こそポジティブであり、すぐあきらめる人は成功できない、消極的な人だと言われます。
しかし「あきらめる」の本来の意味を知ると、そこにはネガティブな響きはありません。
実はこの言葉、仏教由来です。
漢字で「諦観」と書き、諦はインドの原語「サットヤ」で真理、明理ということです。
観はミルということですから、諦観というのは「アキラカニ真理ヲミル」ということなのです。
この「アキラカニミル」の仏語が次第に変化して「アキラメル」になりました。
ところが言葉がこのように変わっただけならよかったのですが、
その表す意味までが変わってしまったのです。
本来「諦める」とは、【なぜそんな結果になってしまったのか、その原因を明らかに見なさい】ということです。
先ほどの例でいうなら、【オリンピックの人選に漏れた】のは結果ですから、それには必ず原因があったのです。その原因を正しく分析し、その原因克服に努めれば結果は変わります。
どうしてあと一歩で選ばれなかったのか、その原因をごまかさずに、やつあたりせずに、しっかり目を向けていくことが、本来の「あきらめる」ということです。
【ダイエットできない】のも結果ですから、必ず原因があります。
私ならさしづめ、夜食べるのが遅くなるから、でしょうか。
悪い結果が起きた時【なぜこうなってしまったのか】を反省するのは痛みの伴うことですが、そこから目をそむけず、人のせいにせず、あきらかにみていこう、というのが「諦める」という意味ですから、実はネガティブなどころか、大変ポジティブな言葉であり、人生を切り開く言葉なのです。
「あきらめる(諦観)」が成功の元。
犬は叩かれたらキャンと鳴いて逃げるだけですが、人間は、なぜ叩かれたのか、どうすれば叩かれずに済むのか、考えます。
雷が落ちるとサルはあわててそこから逃げるだけですが、人間は雷の原因を知り、避雷するシステムを考え、雷の脅威を克服します。
なぜそういう結果になったのか、その原因を探求する点において、他の動物とは桁違いに優れているのが人間です。
万物の霊長たる所以でありましょう。
誰しも「どうしておれだけがこんな病気に」「なんでこんな目に会わねばならないのか」「なぜ認めてくれないのか」と、自分だけが不幸の主役のように思えて、全てを投げだしてどこかへ逃げ出したくなることは誰しもあります。
しかし【一切は自分の蒔いたもの】と諦観し、【蒔かぬタネは生えぬ】とあきらかにみる。そして原因となっていることを一つ一つ誠心誠意、できることから着実に対応してゆけば、思わぬ道が開けていきます。
そのように人生行路を進むのが『諦観』を学んだ者の姿です。
幸福の源か、現実逃避か
高校時代、定期試験の一週間前になると、試験週間なるものがありました。
そのときは部活も早めに終わり、 学校からも、勉強するよういわれます。
当時の私は、ふだんは部活の練習でバテバテで、家に帰って夕食済ますとひどく眠くなって、宿題もやらずにベッドにもぐりこむ日々でした。
当然、成績もよいはずもないのですが、過酷な部活の練習やっているんだから仕方ない、と言い訳にしていました。
試験週間は練習疲れもないので、このときばかりは、と勉強に専念しなければならないのですが、 なぜか試験週間前になると、家にあった横山光輝のマンガ「三国志」全何十巻を繰り返し読みふけってしまうのでした。
勉強前にまず一巻だけ読もうかと読んでいくと、なぜか続きの巻が気になって仕方なくなって、さらに読み進めてしまう。
よっぽどその三国志、面白いのかというと、普段は読もうという気にもなれないのです、もう読み古したものですし。
ラッセルは「趣味や道楽は、たいていの場合、根本的な幸福の源ではなく、むしろ現実からの逃避である」と言っています。
今、考えると三国志のマンガは“根本的な幸福の源”ではなく、試験勉強しなければならないという“現実からの逃避”でした。
しかし現実逃避の喜びは続きません。
だんだん虚しくなってきます。
『歓楽尽きて哀情多し』(漢の武帝)
趣味に没頭し、道楽に夢中になっていても、やがて終わりが来て、つまらない現実に逆戻りしてしまうのです。
寂しくてつまらない息苦しい現実をごまかしても、解決にはなりません。
依然として現実は憂鬱な影に覆われています。
苦悩多き人生に染めてしまう元凶を諦かに観て(あきらめて)、それを抜き取ってこそ、安楽無上の人生が開かれるのです。
依存症の克服には「あきらめる(諦観)」ことが大事
試験前のマンガで源逸逃避するくらいなら一つの気分転換でまだいいですが、依存症となると、深刻です。
一日一回はパチンコせずにおれない「パチンコ依存症」。
高価な服やバッグを買ってしまう「買い物依存症」。
食べては吐いて自己嫌悪を繰り返す「過食症」。
不特的多数と性的関係に走る「性依存症」など、いろいろ聞きます。
それら依存症に共通していることを一句で表現すると「わかっちゃいるけどやめられない」といえましょう。
「わかっちゃいる」とは、何がわかっているのか?
「これが人生において【本当になすべきこと】ではない」とわかっている、ということです。
「わかっているのだったら止めればいいじゃないか。わかっているのに、なんでオマエはやってしまうのか?」と問えば「あまりに今が苦しいから」と返ってくるのではないでしょうか。
さびしいから、むなしいから、やりきれないから、刹那的でも救われるならとそれらに走ってしまうのです。
幸せな人、満ち足りている人は依存症になりません。
新婚ホヤホヤで満ち足りている人が、「うれしくてうれしくてしょうがないから覚せい剤を打とう」ということがあるでしょうか。
忘れたいことがあって、一時的でも息苦しさから逃れたくて、わかっちゃいるけどやめられず、手を出してしまうのでしょう。
そして手を出してしまうと、それが原因で余計苦しみが増す。
苦しみが依存症を生み、依存症がまた苦しみを生む。
タイガーウッズは性依存症だったとか、マイケルジャクソンも睡眠薬依存で死因も薬物疑惑が大きいですが、名声、お金の飛び交う、華やかな世界の裏には、底知れない空虚感が広がっているような気さえします。
何かでごまかさなくては生きられない、金や名声でも埋められない、この人間苦悩の根源はどこにあるのか。そこにこそ、諦観(あきらかに見る)していかなければならない最たるものがあります。
その人間苦悩の根源を徹底して明らかにされたのが親鸞聖人です。
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