どんな人にも生きる意味があると説かれた親鸞の教えとは

悪口(あっこう)を言う人とどう接したらいいか、仏教の智恵

2020/11/19
 
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菊谷隆太
こんにちは、菊谷隆太です。 東京、大阪、名古屋を中心に仏教講座を主催する仏教講師です。 専門は浄土真宗で、「教行信証」「歎異抄」を学び、皆さんにもお伝えしています。 このサイトは「どんな人にでも生きる意味がある」と宣言された親鸞という方の教えを知っていただきたいと思い、開設いたしました。

仏教の『十悪』とは、お釈迦さまが教えられた十の罪悪ですが、その一つが『悪口(あっこう)』です。
『悪口(あっこう)』とはどんな罪なのか。
なぜ恐ろしいと釈迦は説かれているのか。
そして悪口を受けたときは、どんな心で対処すればいいのか、お話ししてまいります。

 

悪口は報いを受けると説く仏教

 

先日、ファミレスで妻と食事していたところ、隣の30代くらいの2人の女性の会話が漏れ聞こえてきました。
2人の共通の知人の誰かのことを「あの人、サイコパスだと思う」「やっぱりそうだよね」と言い合っているのです。
「いや、その呼称は軽々しく人の評価に使っちゃダメでしょう」と思わず横から言いそうになってしまいました。

 

サイコパスとは猟奇殺人、大量殺人鬼に見られる人格障害であり、そうでなくてもその予備軍とされ、良心や善意のない人、人を人と思わない人格です。
脳科学者が書いた『サイコパス』という本がベストセラーにもなり、最近は世の中に認知される言葉になりました。
本を手に取って「あ~、あの人のことだ」と勝手に、自分の嫌いな人に当てはめて読んだ人が多いと思います。
そして人に「あの人、サイコパスかも」とまた言うものだから、サイコパス疑惑、サイコパスの嫌疑をかけられている人が、職場でも、家庭でも、クラスでもいる、という現状です。

 

私たちは、自分をいらつかせる人を指して「あれはエゴイストだ」「あの人は自己中だ」「冷たい人」「自分のことしか考えてない」と悪く言いますが、その新たな悪口の形に「あれはサイコパスだ」が登場しているように思います。
自己中だ、冷たい人だと言われても嫌ですが、それならまだその人の主観による評価ですが、サイコパスだと言われたら、先天的な人格障害ですから、そんなレッテルを安易に人につけていいものではありません。

 

私も人と接する仕事ですから、中に本当に常識では理解できない人がいるのは理解していますし、身を守るためには、誰でも彼でも気を許してはならないのはわかります。
しかしあまりに安易に人をサイコパス呼ばわりする危険性を憂慮しています。

 

人を評価するとき、褒め言葉よりも悪口の方が強力に伝播していきます。
「あの人が○○さんのことをこう言っている」と、どんどん広まっていく。
また聞く人も褒め言葉より悪口の方が、信じやすく、影響を受けやすいのです。
だからたいてい悪口は、本人まで伝わります。
少々のタイムラグはあっても、まず伝わります。

 

またその悪口は、本人に伝わるだけでなく、その人の子供や奥さん、親に伝わります。
それを聞かされた子供や親はどう思うだろうか、そこまで考えて、悪口は慎まなければなりません。

 

最近は「サイコパス疑惑のある芸能人」とサイトに紹介されたりしてますが、そのサイトをその芸能人の友人も、子供も見るんですよ。
ほんの一面の言葉尻やエピソードで、人にそんなレッテル貼っていいのか、と思います。

 

つまり言いたいのは、サイコパスという言葉が多くの人に認知された結果、全国各地でこういう会話が繰り広げられるようになり、言われた方にとって、サイコパスという言葉がいかにひどい侮辱なのか、分かって使っているんだろうか、言われた人の気持ちを考えてみろ、と思ったのです。

 

仏教では『悪口(あっこう)』は、口で作る四つの罪悪の一つに数えられ、口にした本人は悪い報いを受けますよ、と説かれています。
自戒したいと思います。

 

悪口がストレスとなり、老化につながる

 

脳科学者・中野信子さんが「悪口は老化を促進する」と書いていました。
嫌いな人の悪口はつい言いたくなりますが、言った分だけ老化が進んでいるようです。
そのメカニズムは「悪口を言い続けていると、主語が認識できない脳は、自分自身に悪口を言っていると勘違いして気分が悪くなり、ストレスが発生し、脳や身体にダメージを与え、老化につながってしまう」とのこと。
よって悪口は、言う人も、聞く人も、聞かされる人も悪影響を及ぼすということです。

 

悪口は喫煙のようなものとも言えます。
喫煙は、吸っている本人が健康を害するだけでなく、その人の吐いた煙草の煙(副流煙)を吸い込む人にも害を与えます。
悪口も、言った本人にストレスを与え、聞かされる人にもストレスを与えるからです。

 

あなたが現在悪口を言っている人、あるいは言いたくなる人は、あなたにストレスを与えている人ですが、もしあなたがその人の悪口を止めて、その人の長所を伸ばすために自分ができることはないか、その人に感謝すべきことが自分にないか、その人の苦しみを軽くすることが自分にできないか、敢えてそういう問いを発してみると、ただそれだけでストレスはさっと軽くなります。
実はストレスはその人が原因ではなく、自らが口にしている悪口と、その人を悪く思う心が原因であったことに気付くでしょう。

 

悪口から学ぶことができると説く仏教

 

悪口を言われると、つらいですよね。
ちょっとなんか言われても、すぐクヨクヨしてしまいます。
食欲も落ちますし、夜も寝付けなくなるし・・・。
職場や、家庭や、学校で悪口を言い触らされ、苦しんだ経験は皆お持ちかと思います。
悪口を言われてつらい時、その心が軽くなる2つの仏の智恵を紹介いたします。

 

その1つは「向上のご縁とする」こと。
2つ目は「受け取らない」こと。

 

今回は1つ目の「向上のご縁とする」についてお話しいたします。
「私がAさんに悪口を言われた」ということは、「私の短所をAさんが指摘してくれた」といえます。
どんな人にも長所と短所がありますが、自分の短所、欠点を、人にはよく見えても、自分自身は気付かないことが往々にしてあります。
気付いていたとしても、軽視しがちです。
相当痛い目に遭って初めて気付くことが多いのですが、痛い目に遭わないうちに、転ばぬ先の杖とばかりに自分には気付かない短所を、ご親切にAさんは教えてくれる存在ともいえます。

 

もちろんAさんが自分に悪意を持っていて、だから短所をめざとく見つけ出し、人にもそれを針小棒大に言い触らしていることも考えられます。
しかし指摘していること自体は、確かに一理ある、と思ったら、そこを直して、より向上できるということです。
誰からの言葉であろうが、「改むるにはばかることなかれ」で、直して向上した方が、自分にとって得なのですから。

 

親鸞聖人の教えを正確に、日本全国に伝えられた方が蓮如上人ですが、その蓮如上人が悪口についてこう言われています。

自分の前では言わず、陰でこそこそと自分の悪口を言う人があれば、腹を立てるのが普通だ。しかし、私はそうは思わない。私に面と向かって言いにくい批判があれば、陰でもよいから言ってくれ、それが回り回って自分の耳に入ったら反省して直すから

普通なら悪口が回り回って聞えてきたら「ふざけるな!陰でこそこそ悪口言いやがって!言いたいことあったら堂々とおれの前で言え」という気持ちになって当然です。
ところが蓮如上人は「批判というのは、その人の前ではいえない。まして年齢も重ねて、立場もある私に言ってくれる人はいない。だから私は自分の悪いところにも気づけない。言いにくかったら陰ででも批判してくれれば、それが回り回ってやがて私の耳にも入ってくるだろう、それを聞いて直すから」と言われています。

 

この言葉で思うのは、蓮如上人という方は、向上心の塊のような方だったんだなということです。
日本中の人から「上人さま」と尊敬され、何百人という弟子を持ち、普通なら完璧な人間のように自惚れてもおかしくないですが、上人は「少しでも足りないところを改めていこう」と常に前進された方だったんだな、と深い感銘を受けました。
こんな蓮如上人だったからこそ、人々はさらに慕い、尊敬していったのでしょう。

 

蓮如上人だけではありません。
頭角を現す多くの成功者は「批判する人たちの意見には、価値のある重要な暗示を含んでいる可能性がある」と語ります。

 

「バッドニュース・イズ・ファースト」鈴木 敏文(セブン-イレブン・ジャパン初代会長)

 

「悪い情報はゴシップでも上げてこい」奥田 碩 (第8代トヨタ自動車社長)

 

たとえ悪口が誤解によるものであってでも、向上のご縁にはできます。
こういうことを言ったり、やったりすると、誤解を招くんだな、不審を抱く人がいるんだな、ならば今後はこうしてみよう、と学習できます。

 

ではまったく向上のご縁にできない、ガラクタのような悪口はどうするか。
それについては、「受け取らない」という、もう一つの解決法があります。

 

悪口を受け流す、受け取らないと教える仏教

 

悪口を言われたとき、どうすれば心が穏やかになれるか、先ほど「向上のご縁とする」とお話ししました。
的を得た批判ならありがたく反省するご縁とできます。
またそう受け止めることで、心は前向きに、穏やかになります。
しかしこれは悪口が「的を得た批判」であった時の対処です。
的外れな非難中傷だった場合は、どうしたらいいでしょう。
それが今日お話しするもう一つの方法、「受け取らない」という対処です。

 

悪口を受け取らないとはどういうことか、一つのエピソードをまず紹介しましょう、

 

白隠の寺の門前に酒屋があった。
そこに器量で評判の娘がおり、結婚もしないのに孕んだのである。
目だつにつれ悪事千里、噂は世間に広まり父親は強く娘を責めた。

真実を告白すれば大変だと思った娘は、
白隠さんは生き仏といわれるお方、白隠さんの御子だと言えば、
なんとか事態は収まるだろうと、
苦しまぎれに、そっと母親に打ちあけた。

「白隠さんのお種です」

それをきいて激怒した父親は、早速土足のままで寺へ踏み込んだ。

「和尚いるか」と面会を強要し、
口から出まかせの悪口雑言を喚いても尚腹立ちは収まらず、
生まれてくる子供の養育費を催促した。

さすが白隠。
「ああ、そうであったか」といいながら、若干の養育費を与えた。

まさかとそれまで信じていた人達も、
これをきいてやっぱりニセ坊主であったのかと、
噂はパッと世間に広まった。

聞くに耐えぬ世間の罵詈讒謗をききながら白隠は、
「謗る者をして謗らしめよ、言う者をして言わしめよ。
言うことは他のことである。受ける受けざるは我のことである」
と、少しも心にとどめない。

思いもよらぬ反響に酒屋の娘は苦しんだ。
遂に真実を親に白状せずにおれなくなった。
親はことの真相を知って二度びっくり。
早速、娘を連れて寺へ行き平身低頭、
土下座して、重ね重ねの無礼を深く詫びた。

その時も白隠は「ああ、そうであったか」と頷いただけ、という。

 

ここで白隠は「私は悪口を受け取らない」と言っているのですが、これは白隠が悪口を言われたときにどうあるべきか、お釈迦さまの教えをよく知っていたからこそ、こういう言葉になったのでしょう。

 

ではお釈迦さまの教えられる「悪口を受け取る」とは、どういうことなのでしょうか。
こういうエピソードがあります。

 

あるとき、外教徒の若い男がお釈迦様の所にきて、さんざん、悪口を言った。
黙って聞いておられた釈尊は、彼が言い終わると、静かにたずねられた。
「おまえは祝日に肉親や親類の人たちを招待し、歓待することがあるか」
「そりゃ、あるさ」
「親族がそのとき、おまえの出した食べ物を食べなかったらどうするか」
「食わなければ、残るだけさ」
「私の前で悪口雑言ののしっても、私がそれを受けとらなければ、その悪口雑言は、だれのものになるのか」
「いや、いくら受けとらなくとも、与えた以上は与えたのだ」
「いや、そういうのは与えたとは言えない」
「それなら、どういうのを受けとったといい、どういうのを受けとらないというのか」
「ののしられたとき、ののしり返し、怒りには怒りで報い、打てば打ち返す。 闘いを挑めば闘い返す。それらは与えたものを受けとったというのだ。しかし、その反対に、なんとも思わないものは、与えたといっても受けとったのではないのだ」
「それじゃあなたは、いくらののしられても、腹は立たないのか」
釈尊は、おごそかに、偈(うた)で答えられた。
「智恵ある者に怒りなし。よし吹く風荒くとも、心の中に波たたず。怒りに怒りをもって報いるは、げに愚かもののしわざなり」
「私は、ばか者でありました。どうぞ、お許しください」
外道の若者は、落涙平伏し帰順した。

 

悪口を言われて、悪口で返すのが、「受け取った」ということだと釈迦は説かれています。
悪口を言うか、言わないかは、向こうさんが決めること。
その悪口を受け取るか、受け取らないかは、こちらが決めさせてもらう。
向こうさんが決めることではありません。

 

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