どんな人にも生きる意味があると説かれた親鸞の教えとは

仏教を学びたい人必見。誤解された仏教の言葉あれこれ

2019/02/16
 
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菊谷隆太
こんにちは、菊谷隆太です。 東京、大阪、名古屋を中心に仏教講座を主催する仏教講師です。 専門は浄土真宗で、「教行信証」「歎異抄」を学び、皆さんにもお伝えしています。 このサイトは「どんな人にでも生きる意味がある」と宣言された親鸞という方の教えを知っていただきたいと思い、開設いたしました。

仏教を学びたい人のために、ここでは「仏さま」「菩薩さま」「お経」「僧侶」「お布施」の意味を学びます。
「仏」「菩薩」「経」「僧」「布施」といった言葉は仏教を学ぶ際の基本的な語句なのですが、かなり誤解もされています。
ここがよくわからないと、仏教を学びたくてもわからなくなってしまいます。

 

そこでこのたび、
○仏さまとは、どんな方をいうのか
○仏の悟りとは、どんな悟りなのか。
○菩薩さまとは、どんな方なのか。
○葬式に読まれるお経とは、どんなものなのか
○僧侶とは、どんな人をいうのか
○坊主につつむお布施とは、大事なのか
これら一つ一つ、説明していきます。

 

「仏」とは、どういう人を指すのか

 

仏教とは仏の教え、仏の説かれた教え、ということですから、まず「仏」とはどういう方なのか、よく知らなければ、仏教を学びたいと思っても学べるものではありませんし、学んでも誤解曲解しか出てきません。
特に今日の日本では、死んだ人のことを『仏』と思っている人が多く、半ば常識になってしまっているので、正しい「仏」の意味から、まずお話いたします。

 

仏教で「仏」とは、最高の悟りを開かれた方をいうのです。
悟りと聞くと、悟った人と悟っていない人と、二通りのように思っている人が多いですが、実は一口に悟りといっても、低い悟りから高い悟りまで全部で52の位があるのです。
これは華厳経、その他多くの経典でお釈迦様が説かれており、これを「さとりの52位」といいます。
52の悟りの位にはそれぞれ名前がついております。
「初地」とか「五回向」とか、聞かれたことはないでしょうか。これらは悟りの位の名前です。

 

この52の位の最高の悟り、下から数えて52段目、これを『仏覚』「仏のさとり」といいます。
これ以上の悟りはありませんから「無上覚」ともいわれます。
この仏のさとりをひらかれた方を『仏』あるいは『仏様』といわれるのです。
では仏の悟りとは、いかなる境地なのでしょうか。

 

仏の悟りとは、どんな境地なのか

 

仏のさとりとは

「自覚・覚他・覚行・窮満」
(じかく・かくた・かくぎょう・ぐうまん)

と説かれています。
「自覚・覚他・覚行・窮満」とは、自分が幸せになり(自覚)、他人の幸せを念ぜずにおれなくなる(覚他)
そして人の幸せのために、行動せずにおれない(覚行)
「いくら言っても聞かないなら勝手にしろ、苦しむのは自業自得だ」という気持ちにはとてもなれない。
助けたいという心に極まりがない(窮満)ということです。

 

仏は「俺が幸せならいい」という気持ちにはなれない方です。
なぜなら仏のさとりとは、幸せにせずにおれないという願いに燃える心だからです。
「自分だけ幸せになれればいい」というのは、仏の心ではありません。
「自分が喜んでいればいい、人のことまで考えておれるか」という心には、もうなれないのが仏の心です。

 

自分さえよければいい、との思いは、仏教の聞き間違いです。
自分の幸せを、人に分かち合えずにおれなくなる。
これが自覚・覚他です。
仏教は常に、自分が幸せになり、人にもその幸せを伝える教えです。
本当の幸せなら、必ずそういう働きになってきます。
「覚他」のない「自覚」はない、自分さえ幸せならいい、と思っている人の幸せは、本当の幸せではない、と釈迦は説かれています。
本当の幸せは、必ず人を幸せにせずにおれない働きになってくるのです。

 

「あの蕎麦の美味しさが忘れられない」と感動した人は、誰かにその蕎麦のことを伝えます。
本当に美味しいと思ったら、言わずにおれないでしょう。
世間のことでもそうです。
蕎麦屋だとあまり繁盛すると、並ばなければならなくなるので、教えたくないということも中にはあるかも知れませんが、仏法はどれだけ与えても減りません。
仏教はそういうものです。説いても説いても減りません。
無尽蔵だからです。
どれだけ人に分けても減らない、いやむしろこちらの幸せが増えてくる。
秀吉が、天下獲ったといっても、我が身とその一族が栄耀栄華になっただけで、限られた者だけの贅沢でした。
与え続けたら減っていくのだから、ほんの限られた者しか楽しませられない、いや、それだってどれだけ楽しめたことだろう。
むしろ本人も周りも不安にさいなまされることもあったでしょう。

 

仏教は違います。
与えると、受け取った相手も喜ぶ。こちらも減らない。
与えたら自分が寂しい思いをするようなものではありません。
自利がそのまま利他になります。
「仏」とは自利利他円満、自分も本当の幸福の境地となり、人にもその幸福を伝えずにおれない境地なのです。
では次に『菩薩』とは、どんな方なのか、見てみましょう。

 

菩薩とは仏教を学びたい人のこと

 

寺院などに安置されている観音菩薩の像、あるいは道ばたの石の地蔵菩薩の像などを、「仏さま」「仏像」と呼ぶ人も多いので、「菩薩」も「仏」の一種なのだろうと思っている人が多いようですが、これは誤解です。
菩薩と仏は違います。

 

京都や奈良の各寺院を回ると、菩薩といっても、観音菩薩、勢至菩薩、弥勒菩薩、地蔵菩薩、文殊菩薩、普賢菩薩など、いろいろな名前の菩薩があることがわかります。
それぞれどんな菩薩なんだろうと関心を持つ人もありますが、総じて、今日の日本人が「菩薩」と聞くと、寒い冬でも黙然と路傍にたたずむ石像を思い出すのか、腹も立てなければ、牛乳も飲まない、おだやかで、優しい方というイメージを持たれる方が多いようです。
しかし決してそんな高潔な人格者だけを「菩薩」と呼ぶのではありません。

 

本来「菩薩」とは「菩提・薩た」(ぼだいさった)の略です。
(「薩た」の「た」は「土偏に垂」と書く字です)
「菩提」とは「仏のさとり」、「薩た」とは「求める人」ということですから、仏の悟りを目指して努力している人を「菩薩」というのです。

 

悟りといっても、高い悟りから低い悟りまで全部で52の位があるのは先ほど話しをしましたが、その最高位の52段目が仏覚、仏の悟り、その仏覚を目指して修行している人を「菩薩」というのです。

 

菩薩の中には弥勒菩薩のように、すでに「等覚」という51段目の悟り、あと一歩で仏という高い悟りを開いている菩薩もいますし、まだ一段も悟りを開いていない菩薩もいます。
しかしどんな人であっても、その人が仏の悟りを目指している人なら、みな菩薩です。

 

このブログを読んでおられる方も、仏教を学びたいお気持ちで読んでおられるのですから、菩薩といえます。
「何のために生まれてきたんだろう」
「必ず死ぬのに、なぜ生きるんだろう」
「死んだらどうなるか」
この答えを求めて仏教を学びたいと聞き求める人は「菩薩」です。

 

お経には何が書かれているのか

 

仏教とは仏の教えと書きます。
『仏』とは今から約2600年前、インドに現れたお釈迦様のことです。
今日では、「ブッダ」としての呼称が馴染みがある方も多いかもしれません。
そのお釈迦様が35歳で仏の悟りを開かれてから80歳2月15日亡くなられるまでの45年間、仏として説かれた釈迦の教え、これを今日仏教というのです。

 

45年間のお釈迦様のご説法はお弟子の手によって今日に書き残され、これを『一切経』といいます。私達が普段、お経と呼んでいるもので、葬や法事の際に僧侶の読む「お経」です。
元々一切経はインドの言葉で書かれたのですが、三蔵法師の手によって中国にわたり、漢文に翻訳されたものが、今私たちが耳にする「お経」です。
それが朝鮮半島を経て日本に伝わったのが、ちょうど聖徳太子のころでした。

 

釈迦45年の教えがすべて書き残されているのですから、10冊や20冊でないことは容易に分かりますが、どれくらいあると思われますか。
なんと全部で7千余巻という膨大な数のお経が現存します。
一切経のことを別名『七駄片馬』と呼ばれるのも、インドから中国に三蔵法師が経典を運んだ際に、7頭の馬に積んでも積みきれなかったところからきています。

 

仏教を学びたいと思ったらこの一切経と取組まねばならないのですが、何しろ7千冊ですし、その一冊一冊も難しい意味を含んだ漢字で書かれていますから、とても我々凡人の読めるものではありません。
では仏教を学びたい人はどうしたらいいのか。
断念する必要はありません。
一切経を何度も読み、そこに書かれている内容をよく分かった方から聞かせていただけばよいのです。
仏教をよく知り、人に分かるようにお伝えする人を、仏教では「僧」といいます。
「僧」とはどんな方なのか、次にお話ししましょう。

 

僧侶(坊主)が自覚すべきこと

 

今日は「僧」といえば、葬式や法事を執り行う人というのが常識になっています。
手次の寺、檀家寺、○○寺の門徒と、地方によっていろいろ言われ方がありますが、いずれも親族の不幸があったときに葬式や法事を頼む寺の事であり、先祖代々の墓を番している寺のことだと思われています。
本来は手を次いで浄土までお連れする、という意味で「手次の寺」なのですが、導くべき立場の者もそんな自覚はなく、よって導かれる人たちも仏教は死んだ人に用事があるものと思っています。
しかし本来、仏教でいわれる「僧」という言葉には、葬式、法事を生業にする人という意味は少しもありませんでした。

 

ではお釈迦様は、どんな人を「僧」「坊主」と言われたのでしょうか。
釈迦は常に、仏弟子の自覚に燃え、仏の教えを説く人のことを『僧たちよ』と呼びかけられています。
「僧」とは、仏の代官として、大衆に仏の教えをお伝えする使命を持つ人のことなのです。

 

聖徳太子は17条憲法に「篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり」と言われています。
仏宝、法宝、僧宝の三つの宝を敬いなさい、と憲法に定められたのです。
○仏の悟りを開かれた方を敬いなさい。
○仏の悟りを開かれた方の説かれた教えを敬いなさい。
○仏の説かれた教えを伝える人を敬いなさい、
ということです。
仏の教えを正しく説き明かされる方を、本来『僧』というのです。

 

だから僧侶は、常に「釈迦の代官」としての誇りと責任を胸に持たねばなりません。
自分の勝手な思いをしゃべるのではない。
あくまでも「釈迦の代官」として、釈迦の教えをそのまま伝えるのが僧侶の仕事なのです。
ならば僧たる者、仏教の教えを正確に知ることがまず何より大事です。
正確に知らずして、正確に伝えることはできっこないのですから。

 

仏教の教えを正しく体得しても、その仏法をわかるように人に話すのは、また並大抵のことではありません。
だから僧侶、寺の坊主は仏法を伝えること一つに専念し、他のことをする時間はありません。
僧侶、坊主の使命はただ一つ、「説法」なのです。

 

僧侶に包む「お布施」の意味とは

 

僧侶に包むお布施、御法礼は何のためですか、とよく聞かれますのでお話ししておきますと、それは「財施」(仏法を聞かせていただいたお礼)です。
仏法を聞かせていただいた門徒(聞法する人)が、説法してくだされた僧侶への感謝の気持ちから、財や物を施すのが「財施」です。
財施は、仏教を学びたいと思う門徒の尊い気持ちから出されるものですから、財施を受ける僧侶は「浄財」(仏さまからお預かりした浄らかな財)と、有り難くいただきます。
そしていただいた財を、僧侶は門徒に仏法を伝える使命を果たすために使わせていただきます。
これが法施(説法)と財施でつながっている本来の僧侶と門徒の関係であり、お釈迦さま以来変わらぬ、あるべき姿です。

 

では本堂の壁や瓦の修繕に、門徒がお金を出すのはどうでしょうか。
寺の本堂は、仏法を心静かに聞かせていただく大切な場所ですから、聞かせていただく者が用意して当然です。
お釈迦さまの説法された祇園精舎や竹林精舎などは、いずれも聞かせていただきたいという人たちの尊い志によって建立されています。
仏法が説かれる本堂の建築や修繕のために財を出すのは、財施のご縁ですから、仏縁を深める素晴しい行いです。

 

では「本堂の壁や瓦の修繕に財施されませんか」と勧める坊主に「また出せと言ってきた」と門徒が顔をしかめるのは、なぜなのでしょうか。
それはひとえに坊主が門徒に説法するのを怠ってきたからです。
法を説かない僧侶に、人々が財施する気になれないのは当然です。
財施が少ないのは、法施が少ないから。あくまでも法施があっての財施です。

 

精一杯、仏法を伝える僧なら、必ず影の形に添うように財施に恵まれます。
そんな僧が説法する寺の本堂なら、屋根が崩れたのを門徒が放っておくはずがありません。
本堂の修復費用を各家で負担するよう「割り当て」を迫る寺に「なぜこんな高い負担金を出さにゃならんのか」と各地で不満の声が聞かれるのも、説法しないからです。

 

それでも門徒がしぶしぶでも寺にお金を出してきたのは、「葬式の時、困るから」「先祖代々の墓も寺にあるから」でしょう。
ところがここ数年、葬式や法要を財源のあてにあぐらをかいてきた寺の泰平を破る黒船が登場しました。
流通大手イオンです。
「お葬式・葬儀はイオンにおまかせください。明瞭で納得のいく価格をご提示します。受付・ご相談は24時間」
寺院が独占してきた葬儀事業にイオンが進出し、仏教界に深刻な波紋を広げています。
額が不透明といわれてきた葬儀のお布施に、安心・明瞭の料金体系を提示し、都会を中心に人気だそうです。
門徒と寺とをつなぐ最後の砦であった葬式まで民間企業に奪われつつある、この事態に多くの寺院は死活問題と受け止め、対策に大わらわです。

 

今にして寺院は気付かねばならない、と思います。
門徒と寺をつなぐのは葬式なんかではない、「教え」こそ両者をつなぐただ一本の絆であることを。
さっさと葬儀などイオンに任せて、寺の坊主は皆「説法」に生きる本来の姿に立ち返ったらいかがでしょう。
その方がずっと今より寺の坊主は大切にされるはずです。

 

今回よく誤解されている仏教の言葉、「仏さま」「菩薩さま」「お経」「僧侶」「お布施」の意味を学びました。
せっかく仏教を学びたいと思っても、誤解された意味で聞いていては、よくわからなくなります。
逆に仏教の基本的な語句の意味、また基本的な教義を学ばれた上で、仏教の教えを聞かれれば、とてもわかりやすく、学びやすいものだと感じられることと思います。

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