どんな人にも生きる意味があると説かれた親鸞の教えとは

仏教と日本神道とは、どこがどう違うのか、教義の本質的な違いを徹底解説

2020/11/19
 
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菊谷隆太
こんにちは、菊谷隆太です。 東京、大阪、名古屋を中心に仏教講座を主催する仏教講師です。 専門は浄土真宗で、「教行信証」「歎異抄」を学び、皆さんにもお伝えしています。 このサイトは「どんな人にでも生きる意味がある」と宣言された親鸞という方の教えを知っていただきたいと思い、開設いたしました。

 

日本人の一般的な宗教観

 

多くの日本人は「あなたは何か宗教を信じていますか」と問われると、「無宗教です」と答えます。
ところが日本に生まれ育っていれば、すでに大きな影響を受けている宗教があるのです。
それが「日本神道」です。
日本神道の信仰は、日本人の心に深く根を張っているといえましょう。

 

たとえば誰しもこんな話は何度となく聞いたことがあると思います。
「悲惨な死に方をした人が、生きている人を祟って不幸にする」
「その供養をしたら、不幸が収まり、幸福になった」
これら恨みを抱いて死んだ人が幽霊になって呪うという信仰が、日本神道の信仰です。

 

キリスト教圏でも、イスラム教圏でも、運命は神が決めることであり、驚くべき運命に遭遇すると、キリスト教徒は「オーマイガッ」だし、イスラム教徒は、運も不運も「イッシュ・アッラー(神の思し召し)」が口癖です。
先祖が祟るとか、死んだ人の呪いで不幸になる、と考える人は日本と比べると圧倒的に少ないです。
もしあなたが何か悪いことが重なった時、
「霊が碍りになっているのではないか」
「お祓いしてもらおうか」
「家の向きが先祖を悲しませているのではないか」
「守護霊が弱いのではないか」
などとふと思うことがあるとしたら、それが日本神道の信仰です。

 

日本神道の信仰の本質は【死んだ人間や動物が、生きている人間の禍福を決める力がある】というものです。
特に生前、高貴な血統の人、影響力のあった人、非業な死を遂げた人などが死ぬと、強い霊力があるとされ、恐れられ、その供養に社を建て、そこへ行って祈ると、運気が上がるとされ、皆、参拝にいくのです。
こういう信仰は、世界の他民族にも幾つも見られますが、仏教ではこれらの信仰を総じて「鬼神信仰」と呼びます。
無宗教と口では言っていても、生まれ育った処の宗教思想の信仰は、根深く私たちの中にあるといえるでしょう。

 

悪い運命が来ると、人は迷う

 

私も仏教に出会うまでは、当時は自覚していなかったにせよ、人並みに日本神道の信仰を持っていました。
中学生の時、友人に勧められ、霊について書かれている本を読んで影響を受けたせいもあります。
そこには、守護霊だの、地縛霊だのいろいろあって、先祖が守護霊になっていて、その霊に力があれば、幸運に恵まれ、守護霊に力がないと、不運に見舞われる、と書かれてあり、しかも守護霊は人生の中でも、変わることもあるとありました。
私は中学2年から3年にかけて、嫌なことが続いていたので「これはオレの守護霊、最近変わったんじゃないの」と読みながらふと思ったものです。
そのままいつの間にか守護霊のことも忘れ、大学生となり、仏法を聞くご縁に恵まれ、先祖の霊が幸運や不運をもたらすという信仰を、仏教では鬼神信仰といわれ、迷信と釈迦が断定されていることを知りました。

 

私が中学の時、そんな本を読んでものめり込まず、守護霊がそんなに気にならなかったのは、そこそこ私の人生が順風満帆だったからだと思います。
もし不幸な運命が次々とやってきて「なんでオレばかりこんな目に」と苦しんでいたなら、真剣に「地縛霊かも」と恐れたり、守護霊と仲良くする呪文をひそかにつぶやいていたかも知れません。

 

「溺れる者はワラをもすがる」ということわざの通り、人は不幸な運命に陥ると、何の根拠もないつまらぬ迷信にもすがってしまいます。
そんな弱い存在が人間だから、迷信の犠牲者も後を絶たないのです。
またそんな弱い心をつけこむように「あなたの運が悪いのは、実はかくかくしかじかで・・・・・・」とまことしやかにすり寄って、悪霊退散の祈祷だとかなんとかと、金を取っていく輩がいるので気を付けなければなりません。

 

仏教は日本神道の信仰を否定する

 

では仏教ではわたしたちにやってくる不幸や災難はどうして起きると教えられているのでしょうか。
決して不幸や災難は霊の祟りだとは教えません。

 

一切の運命は、己の業(行為)によって生じると一貫して説かれています。
これを「因果の道理」といいます。
「まかぬタネは生えぬ。まいたタネは必ず生える。刈り取らねばならぬ一切は自分のまいたものばかり」と説きます。
我が身に起きた良いことも悪いことも一切は、自業自得であることを徹底して明らかにされています。

 

幸福な運命が来たときには、この仏教の教えに共感できる人も多いでしょう。
成功したのは、日ごろ頑張っているからだ、と頷けますし、「まいたタネは生えるなぁ」と因果の道理を納得し、自分の腕を誇ります。

 

ところが不幸な運命がやってきたときに、とたんに今度は仏教をはねつける心が出てきます。
失敗したときに、己の日ごろの行為を反省できる人は、なかなかいないものです。
「上司のせいだ」「部下のせいだ」「親のせいだ」「夫のせいだ」「妻のせいだ」「子供のせいだ」「社会のせいだ」「政治のせいだ」と恨んでしまいます。

 

誰が悪くてこんな運命が自分に来たのか、よく分からないときは、犯人捜しをはじめます。
それでも犯人らしきものが見つからないと「なんでオレだけがこんな目に。おかしい、おかしい」と思い詰め、そんな時に「霊のたたりだ」「先祖が泣いているからだ」と断言する者がいると「そうだったのか」と飛びつくように信じ込んでしまうのです。

 

悪い運命が来たとき、どうしても自分の行為を反省できず、己の姿を見つめられず、自分以外の誰かに苦しめられているとしか思えない、その心が迷信の温床だと、お釈迦様は説かれています。

 

仏教と先祖供養の関係

 

仏教と先祖供養とは、切っても切り離せない関係のように思っている人が多いですが、実は何の関係もありません。
本来、先祖供養の信仰は、日本神道からくるものです。
「先祖を供養しないから不幸になる」「先祖を敬い、先祖が喜ぶことをすると、幸福になれる」という信仰は、亡くなった先祖には、私たちに福をもたらし、禍をなす力がある、という信仰であり、これを仏教では「鬼神信仰」といい、釈迦は迷信だと教えられているのです。

 

もちろん先祖を敬うこと自体、悪いと説かれているのではありません。
それは仏教では勧められこそすれ、決して否定されるものではありません。

 

しかし先祖を敬うのは、先祖が人格的に優れていて、尊敬せずにおれない徳を備えているから、ではありません。
ましてや、先祖を敬わなければ、不幸がやってくるからでもありません。

 

私たちにとって最も近い先祖は「親」であり、その次は、親の親である「祖父母」です。
親の親のそのまた親と、ずっと先祖は広がっていきますが、6代さかのぼれば32人、時代は幕末ですね。
私の先祖は幕末に32人いたということになります。
32人の先祖の中には、今の私と面影が似ている人はあったろうか、などと想像を巡らすのもおもしろいですが、ここで言いたいのは、顔ではなくて、人格です。
32人もいれば、人格者だと言われる人もあったかもしれませんが、嫌われ者、犯罪者もいたかも知れません。
今の私が接してみて、尊敬できる人もあったでしょうが、どうにも尊敬できない、嫌な人もあったと思います。
ただ先祖だからとやみくもに尊敬の対象とするのはおかしいのは、こういうことからも分かります。

 

では仏教で「先祖を敬いなさい」と教えられるのはどうしてか、それは、その32人の誰か一人でも、親になる前に死んでいたら、その下には子どもがいないわけだから、私は生まれることができなかったからです。

 

現代に生きる私は、先祖から連綿と命をつないできた結果です。
32人が、誰も欠けることなく、子供を生んで、愛情を注いで、苦労して育ててくれて、命のバトンをつないでもらって、今の私になっている。
このことを思えば、感謝の心があふれますし、先祖は大切にしなければならない存在だと分かります。

 

仏教の教えを聞いて「人間に生まれたのはこの幸せになるためだったのか」と、人間に生まれてきた尊さが知らされたときに、同時に親の恩、先祖のご恩に感泣するのです。

 

一切の迷妄を破られ、行いを見つめよと説かれたブッダ

 

ある40代の女性から聞いた話です。
家庭の悩みを寺院に相談したところ、「7代までの先祖を供養すれば、幸せになれる」と言われ、「1人の先祖に1万円の供養料」と金額も示されたそうです。
自分たち夫婦両家の先祖なので、508名になる。
その供養を途中までして「どうしてこんなにお金がかかるのか」と思うようになり、悩んでおられたそうです。

 

とんでもない話だなと思います。

 

寺の僧侶の本来の任務は、仏教をお伝えすること。
先祖供養すれば幸福になれる、という鬼神信仰の迷信を打ち破り、一切の運命は、自分の行為によって生み出される、仏教の根幹、因果の道理を明らかにしなければならないのに、こともあろうに供養料目当てに、釈迦が排斥された、先祖供養の迷信に便乗しているのですからあきれるばかりです。

「如来の法衣をつねにきて 一切鬼神をあがむめり」(親鸞聖人)
袈裟をかけて、形こそ僧侶の格好をしているが、鬼神を崇めている者ばかりではないか
                         

親鸞聖人が嘆かれた当時の世相と、今も変わりません。

 

先祖の祟りだの、先祖の霊の仕業だなどと聞かされると、気にしてしまう人が多いのは、先祖と聞くと、運命を引き寄せる、恐ろしい力があると、思ってしまうからでしょうか。
しかし先ほども話しましたように、先祖といっても、一番近い先祖は「親」です。
親が子供の不幸を願うことがあるでしょうか。
親は子供に幸せになってほしいと、そればかりを思い続けてくださる、有難い存在です。
子孫をタタるとか、苦しませてやろうと思うはずがありません。

 

自分のことを考えてみても分かります。
自分が亡くなった後、残された子や孫やひ孫に苦しませようという気持ちが起きますか。
幸せに、笑顔多い人生であってほしいと切に念じるばかりでしょう。

 

さらに言えば、だいたい死んだ後、自分が人の運命をどうこうできる存在になれる、と思われますか。
自分の運命でさえ、思った通りにいかずに悶々としているのに、自分のことでも精一杯なのに、そんな自分が、人の運命を左右できるような存在になれるものでしょうか。

 

釈迦はこれら世の迷妄を破り、徹頭徹尾、己の運命の原因は己の行為による、と教えられているのです。

 

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