運命は誰が決めたのか、なんでそうなったのか、仏教の教えられたこと

「運が悪かったんだ」「運がなかった」「運がいい」「運気を上げる」「運勢が悪い」など、よく私たちは「運」という言葉を使いますが、そもそも「運」とはどんなことなのでしょうか。いったい「運」は誰が決めたんでしょうか。
仏教では「運」とはどういうことだと教えられているか、お話ししてまいります。
神の力でそうなったのか
人間は何千年にもわたって、あらゆる自然現象を「神の力」と説明してきました。
雷を落とすのは「神」、雨を降らせるのは「神」、地球に生命を誕生させたのも「神」。
ところが過去数世紀の間で、科学者たちは落雷や降雨や生命の起源について「神の力」よりも、はるかに説得力のある詳細な説明をやってのけました。
その結果、今日では、専門家の査読がある科学雑誌に載る論文に、神の存在を真剣に受け止めている者は一つもありません。
これは科学だけでなく、学問の発展と共に、かつて「神」の影響下だったあらゆるフィールドは確実に狭まっていきました。
卑弥呼の時代は政策を決定するとき、亀の甲羅を焼いてひびが入った角度から「ご神託」として国の方向を決めていましたが、今日もし首相が、「亀の甲羅のご神託があったから消費税を上げます」などと言ったら大変なことになります。
モンゴル帝国に日本が侵略されなかったのは、神が味方に付いていたからだと論ずる歴史学者はいませんし、バブル崩壊を神のせいにする経済学者もないし、神を怒らせたから火山が爆発したと主張する地質学者もありません。
ところが学問が発達した今日でも、「神の力でそうなった」と主張して通用する分野があるのです。
それは何か。
ズバリ「運命」についてです。
政治学も歴史学も地質学も神を持ち出しませんが、こと「運命」に関しては、今も神の領域です。
驚くべき運命に遭遇すると、キリスト教徒は「オーマイガッ」だし、イスラム教徒は、運も不運も「イッシュ・アッラー(神の思し召し)」が口癖です。
日本人も悪いことが重なると「お祓いしてもらおうか」「家の向きが先祖を悲しませているのではないか」「守護霊が弱いのではないか」など思う人はあるのではないでしょうか。
第二次世界大戦の敗戦は神のせいにはしませんが、その戦争でなぜ我が子は死んだのか、となると、神や祟りを持ちだしてきます。
地震を神の力とはいいませんが、瓦礫の下から九死に一生を得たのは神の恩寵といいます。
いわゆる「運がよかった」あるいは「運が悪かった」と使われる「運命」の分野は、人智で計算の立たないフィールドであり、そういうことになると、今も「神」「霊気」「悪魔」「方角」「日の善し悪し」など、まことしやかに語られ、聞く方も真剣に受け止めてしまっています。
では仏教を説かれたお釈迦様、運命の原因をどう説かれているのでしょうか。
釈迦は、「私たちの運命」を引き起こすのは、「神の力」でも「霊のタタリ」でも「悪魔の呪い」でも「方角」でも「日の善し悪し」でもない、一切は自己の行い(カルマ)が自己の運命を引き起こすのだ、と一貫して教えられています。
そこに万に一つも例外を認めません。
「運が悪い」「運がなかった」その「運」とはなんだ?
イスラム国から解放された市民たちの声から、イスラム国統治下での蛮行が次々と明るみになっています。
異教徒の大量虐殺、奴隷としての人身売買、見せしめの公開死刑と拷問、子供たちは銃器の使い方を学校で学び、住民を人間の盾として最前線に立たせる、など、人権を無視する壮絶な惨状に世界中が息をのんでいます。
今も心に深い傷を負っておびえている少年少女の顔は痛々しいばかりです。
その年頃の日本の子供なら、音楽が好きなら親が塾に通わせたり、サッカーが得意なら少年チームに入れさせたりして、やがて才能が開花し「努力は裏切らない」と胸を張って言えるように育ちます。
しかしイスラム国統治下だったその子たちは、処刑映像で脅され、子供も扱える銃で最前線に送られる、あるいは一方的に囚われ、人身売買されたのです。
「なんでこの子たちはこんなひどい目に遭わねばならなかったのか」
世の理不尽さを考えさせられます。
その子たちの中には、プロ選手になれるような才能の人、世界に影響を与える研究をするような優秀な頭脳の人もあるに違いないのですが、生まれたところがそこだったので、一生文字も書けず、才能を発揮する機会なく人生を終えていきます。
「どうしてこの国に生まれたんだろう」
「どうしてこの時代に生を受けたんだろう」
「なんでこんな親の元に生まれたんだろう」
「なんでこんな容姿で生まれたんだろう」
そんなこと考えても仕方ないよと言われても、生まれ落ちた人生のスタートからあまりにも不平等で、それは本人の努力ではもう埋め合わせることができないほどの差ですから、考えずにおれないのです。
「運が無かったね」「運が悪かったんだよ」と言いますが、「運」って何ですか?「運」って誰が決めたのでしょうか。
「いつ、どこに、どの両親の元に生まれたか」という決定的な出来事が「運」の一言で「考えても仕方ないよ」と片付けられていくのです。
確かに考えても仕方ないことかもしれない。
しかしそう言われてこの問いを忘れられる人は、恵まれた人です。
ハンディを背負った人生のスタートだった人は、「どうして」と自問自答せずにおれません。
私たちの運命のシステムはどうなっているのか、この不可解さに答えを示そうと、さまざまな思想宗教が教えを説いています。
「神が試練として与えた」と説く人、「まったくの偶然」と説く人、「業(カルマ)が生み出した」と説く人。
自己の人生問題の根本であるがゆえに「たしかにそれも一つの考え方だね」で済まされる問題ではなく、「どれも正しい」といった無責任な態度であっていいものでもありません。
では、仏教では運命のシステムについてどう説かれているか、
釈迦は、一切は自己の行い(カルマ)が自己の運命を引き起こすのだ、と一貫して教えられており、これを『因果の道理』といいます。
仏教の根幹をなす教えです。
=======================
仏教を分かりやすく体系的に学べる全20回の無料メール講座です。
おもしろそうだなと思われた方はこちらから登録できます。
登録解除もいつでも自由なので、一度お試しに覗いてみてください。