親鸞聖人は流刑の地・越後で何を思われたか

親鸞聖人は35歳の時、越後に流刑にあわれました。
この時、聖人は僧籍を権力者によって剥奪されています。
親鸞聖人は越後の地で何を思われたのでしょうか。
流刑を喜ばれた親鸞聖人
流刑になられたことを聖人は、まったく恥じておられません。
それどころか、当時、権力者の保護の元、僧侶とあがめられる者たちへどんなお気持ちでおられたか、こんなお言葉があります。
この世の本寺・本山の、いみじき僧ともうすも、法師ともうすも、うきことなり
(この世で名門とされる、大きな寺の名僧高僧などといわれるものは、私にはイヤでたまらぬ連中である)
当時の僧侶の実態に辟易した思いでいらしたのでしょう。
公家や貴族の歓心を買おうと、元来仏教の教えにない加持祈祷に奔走し、庶民からは税金を搾り取るのみで相手にせず、道理の通らぬ強訴を繰り返し、 金堂宝塔は見栄えがいいが、中では派閥争いが繰り返され、難行苦行を掲げながら形だけで、僧たちの個人生活には無数の醜が隠されている。
隠されて行われているのが、余計に醜い。
そんな有様を比叡山で20年間過ごされた親鸞聖人は、よく知られていました。
それだけではない、当時の比叡山や興福寺の高僧といわれた連中が、お師匠さま、法然上人にしたことは、親鸞聖人にとって終生許せることではなかったのです。
当時、「仏道修行の器に非ず」と見捨てられていた一般庶民は、「どんな人でも救う」阿弥陀仏の本願を説かれる吉水の法然上人を明かりとしました。
そんな吉水の隆盛を恐れた大寺院は朝廷を動かし、世に「承元の法難」といわれる、仏教史上かつてない大弾圧をおこしたのでした。
法然一門は解散、法然・親鸞両聖人以下八人が流刑、 住蓮・安楽ら四人の弟子は死刑に処せられています。
親鸞聖人が「イヤでたまらぬ連中である」と直言してはばかられないのは、こういった背景からです。
そんな僧侶らと同じ枠でくくられるのは真っ平ごめんだ、というお気持ちですから、権力者によって僧籍を剥奪され、越後に流刑になられたことを意気消沈されるどころか、こう仰っています。
もしわれ配所におもむかずんば、何によりてか辺鄙の群類を化せん。これなお師教の恩致なり
(もし流刑にあわなければ、越後の人々に仏法を伝えられなかったに違いない。なんとありがたいことだったのか。すべては法然上人のおかげである)
越後の人が待っておられる、と意気盛んな聖人のお姿がここにあります。
親鸞聖人が越後で布教を始められるや、春の訪れと共に野に色とりどりの花が咲くが如く、越後の各地に仏縁を喜ぶ人が現れたのを、昔から伝わる『親鸞聖人のお歌』には
「流罪の身をば方便と 都に散りし法の花 厳寒深雪の越後路に 御法の春をぞ迎いける」
とあります。
越後流刑も、「かの地の人々に仏法を広めよ」との如来のご方便と受け止められた親鸞聖人は、寒さ厳しく雪深い新潟の地で、阿弥陀仏の本願を説き続けられました。
すると「こんな教えが聞きたかった」と随喜する人が各地に現れ、法の花が咲き誇り、越後は仏法の春を迎えたのでした。
親鸞聖人が去られればそこは花が散り、寂しくなり、親鸞聖人が行かれるところに法の花が咲き、賑わい、明るくなる。
そういう方が親鸞聖人でした。
この里に親をなくした子はなきか
こう聞くと、親鸞聖人が越後に到着されるや、待ってましたとばかりに、越後の人々が聖人の元に参詣されたかのように思われるかもしれませんが、実際はそうではありませんでした。
最初から喜んで聞く人はいなかったようです。
よそ者を警戒する、閉鎖的な田舎のこと。
まして親鸞聖人は流罪人ですから、誰一人、耳を貸す人がいなかったのでしょう。
こんな聖人の歌が越後に残されています。
この里に 親をなくした 子はなきか み法の風に なびく人なし
(この越後の地に、親を亡くした子供はいないのだろうか。仏法を聞く人が現れない)
この歌からは、一軒一軒、戸別に訪ねて回られるも、いぶかしげに顔をしかめてピシャリと戸を閉める、取りつく島もない応対に、なお忍耐強く、また次の家、隣の村へと歩みを運ばれる親鸞聖人のお姿が彷彿としてまいります。
「この里に 親をなくした 子はなきか」
“この越後の地に、親を亡くした子供はいないのだろうか”
と、親鸞聖人が言われているのは、聖人ご自身が4才でお父さんを、8才でお母さんを亡くされ、今度死ぬのは俺の番だ、死んだらどうなるかと、我が身の後生に驚きが立って、仏門に入られた方だから、このように言われたのでしょう。
「私と同じように、親を亡くしたことが縁となって、仏法を聞きたいと思う人はこの里にはいないのだろうか」
と親鸞聖人はここで歌われています。
昔から「親の葬儀で、親の骨壺を抱える時、人はもっとも人間らしい気持ちになる」といわれます。
みなさんの中には、親を亡くしたことをきっかけに、仏教を聞きたいという気持ちになられた方もあるかも知れません。
私の仏教講座を受講される方でも、ご両親の死をご縁とされ、聞法心をおこされた方は少なくありません。
働いて働いてそれでも一生貧乏で、最後は病院で枯れ木のようになって死んでいった母親の姿を見て、
「なぜ苦しくても生きるんだろう」
「生きる意味って、何だろう」
と考えさせられた、という人もあります。
小学生の時、お母さんを突然の事故で亡くし、
「お母さん、どこへ行ったんだろう、今どこにいるんだろう」
と気になって、それがきっかけで死を深く考えるようになり、仏教に死の不安を解決する何かがあるのでは、と思われるようになり、聞き始められた方もあります。
このように親の姿から、人生を考えさせられ、仏縁を結ぶことはよくあるようですが、「そういう人はこの地にいないのか」と、親鸞聖人は仏教を聞く人が現れないのを悲しんでおられます。
親鸞聖人の越後でのご苦労と喜び
「この里に 親をなくした 子はなきか み法の風に なびく人なし」
“この越後の地に、親を亡くした子供はいないのだろうか。仏法を聞く人が現れない”
一軒一軒家々を回られ、仏法を伝えようとされるも、門前払いが続く日々、なかなか仏法を聞きたいという人がいないのを「み法の風に なびく人なし」と歌われています。
親鸞聖人が流刑の地、越後にて、大変なご苦労をされて仏法をこの地に伝えてくだされたと地元の人が感謝して、この歌が刻まれた石碑が、彼の地には今も残っています。
しかし同時にこの歌は、親鸞聖人の喜びの歌でもあります。
どうしてこの歌が喜びの歌なのでしょうか。
歌の中に「この里に 親をなくした 子はなきか」とあります。
これは“この越後の地に、親を亡くした子供はいないのだろうか”という意味です。
このように親鸞聖人が詠まれたのは、聖人ご自身が、仏法を聞きたいと思われたきっかけが、ご両親の死だったからです。
4才でお父さんを亡くされ、8才でお母さんを亡くされ、今度死ぬのは俺の番だ、死んだらどうなるか、と自分の後生に驚きを立って仏門に入られたのが、親鸞聖人です。
「仏法を聞きたいという人がいないのは、私のように親を亡くしたことがない人ばかりだろうか」
とご自身の経験から照らし合わせて、詠まれた歌なのですが、もちろん越後の地に、親を亡くした子がたくさんいるのは、親鸞聖人はよく分かっておられたはずです。
いつまでも死なない親がいるはずがないのですから、いたるところに親を亡くした子がいる。
ならば自分がそうだったように、仏法を聞きたい人は、いたるところにいなければならない。
しかし、仏法を聞こうという人がいない。
どうしてなのだろう。
「自分は親の死を機縁に、仏法を聞きたいという心が起きた。
ではみな親が死ぬと、仏法を聞きたくなるかといえば、そうではない。
同じように親の死に目にあっても、仏法を聞きたいという心にならない人ばかりだ。
何で自分は仏法を聞きたいという心があの時、起きたのか。
あの時、仏法を聞きたいという心が起きなければ、今の私の仏縁はなかった。
仏法を聞けなかったら、この広大無辺な幸せを知らずに、人生は虚しく終わっていた。
どうして聞きたい心が起きたのだろう、不思議だ、有り難いことだ」
と身の幸を感謝せずにおれない、喜びをかみしめて詠まれた歌なのです。
これは仏法を伝えようとしてわかることですが、仏法を人に話してみて分かるのは「いやあ、聞く人がいないなぁ」ということです。
同時に思います。
「考えてみれば無理もない、儲け話でもない、人から好かれる秘訣でもない。欲をかき立てる話ではないのだから」
さらに思うのは、
「どうして自分は聞けたのかな。こんなに聞く人はいないのに、何の間違いで自分は聞けたのかな。聞く身になれたのか」
と自分の幸せを感じるのです。
「この里に親をなくした子はなきは、み法の風になびく人なし」
この歌には、そういう喜びがこめられています。
その喜びが、話しても話しても聞いてくれなくても、その中、この里を一軒一軒を伝えていかれた原動力となったのです。
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