後生の一大事とはどんな意味か。なぜ死後は一大事なのか。

仏教に「後生の一大事」という言葉があります。
「後生」とは、「死後」のことです。
たいていの人は「死後の世界」「死んだらどうなるか」と言われても、現実ばなれしたおとぎ話のように思う人がほとんどではないでしょうか。
みなが思う「現実」といえば、老後の貯金とか、株価の変動とか、会社の人事とかです。
そんな話は人生に直結した関心事項として、青くなったり、赤くなったりして聞きますが、「死んだらどうなるか」の話となると、とたんに現実ばなれした、実感わかない話をして、ボーッと聞き流してしまいます。
しかし実は「死んだらどうなるか」の問いこそ、誰にとっても正真正銘、現実にふりかかる問題であり、おとぎ話だと笑っておれる人は1人もないことなのです。
なぜなら「生ある者は必ず死に帰す」。死は万人の100%確実な将来だからです。
今回は仏教に説かれる「後生の一大事」とはどんなことか、お話しします。
目次
「死んだらどうなるか」を後生の一大事といわれる
美空ひばりは「生きるとは旅すること」と歌いました。
「生きる」とは、昨日から今日、今日から明日、去年から今年、今年から来年へとどんどんどこかに向かって進んでいるということ。
その旅の道中は人それぞれの景色です。
平成31年をあんのんとした気分で迎えた人、悲壮な思いで迎えた人、旅の景色は人によって違います。
しかし、すべての人の旅に共通していることが一点あります。
それは「やがて必ず死の壁にぶつかる」という事実です。
ではその壁の向こうはどうなっているのか、これは誰一人として知りません。
信念を持って「こうなる」と思い込んでいる人はあっても、「知っている」人はありません。
確実な将来なのに、【誰一人として】ハッキリしていないのです。
万人がわけの分からないところに向かって一方通行で進んでいるのですから、これは一大事です。
それで「死んだらどうなるか」の問題を「後生の一大事」と仏教ではいうのです。
死ぬまで死なないと思い込んでいる後生の一大事
子供のころ、死ぬのが不安で、「死がこわい」「死にたくない」「死んだらどうなるんだろう」とそんなことを止めどもなく考えてしまう夜が怖く、眠れなかった、という人はけっこうあります。
それが大人になると、仕事の悩み、お金の心配、人間関係の問題に追われているうちに、いつしか死の怖さは記憶のかたすみに追いやられ、「死」は誰でもやってくるのだし、たいした問題ではない、と考えるようになります。
年齢を重ねるほど、死が近づくのだから、子供の時より死が切実な問題と感じられていいはずですが、じっさいはその逆で「死んだら、死んだときだよ」「ぽっくり死ねたらそれでいい」と死を軽く考えるようになります。
なぜ大人になると子供の時より、死を軽視するようになるのでしょうか。
理由の一つとして考えられるのは「今まで生きてこれたのだから、これからも生きられる」と経験からくる自信です。
昨年の夏、あいつぐ自然災害に襲われた日本列島でした。
西日本の豪雨では、何十人の人が亡くなり、その多くは高齢者でした。
緊急避難勧告が出されていたものの、「たかが雨」でないかと、まさか家が流されてしまう事態は想像できず、その油断がじんだいな被害を招きました。
もしこれが、「大地震で津波がくる可能性があります。みなさん高台に逃げましょう」という緊急避難勧告なら、脳裏に大震災の映像がよびおこされ、従った人も多かったのではないかと思います。
あるいは北朝鮮との有事が勃発し、ミサイル警報が出たとか、何百年ぶりの火山爆発で何々村の人は全員避難してくださいと言われれば
大惨事だとあわてて避難した人が多かったでしょうが、今回の場合は、いつも見慣れているただの「雨」です。
雨足がいつもより強く、長く降っている、というだけで、この雨の災害で死ぬ、とはちょっと想像できなかったのかもしれません。
「今までもこんな豪雨で、緊急避難速報が出て避難したことあったけど、何にもなかったじゃないか」という過去の経験から来る油断もあったでしょう。
これは高齢者だけの油断とはいえず、マスコミも、集中豪雨の前にあった大阪地震の度重なる注意勧告の報道に比べると明らかに災害当時の呼びかけは少ないものでした。
豪雨の次に日本列島を襲ったのが30年ぶりという酷暑でした。
40度を超える暑さに多くの高齢者が熱中症で亡くなりました。
家の中にいながら熱中症で亡くなっている高齢者も多くありました。
熱中症対策にマスコミや行政から、こまめに水分を取るように、部屋のクーラーを入れるように、と忠告されていたのですが、「クーラーは嫌いだから」「家の中に入れば大丈夫だろう」とそれに順わず、今までの経験からいつものようにし、熱中症で亡くなりました。
これも「ただの夏の暑さでないか」という油断があったのだと思います。
年齢とともに免疫機能も低下し、体力も低下しているのですが、今まで大丈夫だったんだ、これぐらいは今までもやってきた、という思いから、不安にはならなかったのでしょう。
人間は必ず死ぬ。
誰しも分かりきっていることですが、今までも生きてこれた、数々の事故や災難にあったけれども死ななかった、これからだって、まだまだ生きられるだろう、と自分の経験から「まだまだ死なない」と思い込んでしまうのです。
豪雨で水に流されて亡くなった方、酷暑で熱中症でそのまま気を失って亡くなった方、台風で亡くなった方、土砂崩れで亡くなった方、それら亡くなる人は皆、災害が起きるその時まで、「まだまだ生きておれる」と思っていた人ばかりでした。
それが思わぬ最後の瞬間に「まさか今日が死ぬ日だとは」と唖然として死を迎えたのです。
人は死ぬときになって初めて、まだまだ生きておれるという思いは間違いだった、と骨身にしみて己の誤りを知らされ、その時に子供の頃ぼんやり感じていた「死がこわい」「死にたくない」「死んだらどうなってしまうんだろう」の恐怖が明確なものとなって、その人の眼前に突きつけられます。
これを仏教では「後生の一大事」といいます。
後生の一大事が仏教の目的
「死」は「いずれ迎えること」と誰もが容認はしていますが、「それはまだまだ先のこと」としか、思っていません。
そんな私たちの頑とした思い込みにブッダは「吸う息吐く息と触れ合っているのが【死】ですよ」と警告されています。
「出息入息 不待命終」(しゅっそくにゅうそく ふたいみょうじゅう)
「出る息は入る息を待たず、命終わる」
吸った息が吐き出せなければ、吐いた息が吸えなければ、その時が、死ぬ時だという意味です。
吐いたら吸う、吸ったら吐く、そんな当たり前の、ふだん何の意識もせぬことが、「もう吐けない」「もう吸えない」という現実に直面する時が、私にも、あなたにも、必ずありますよ、と教えられているのです。
この「出息入息 不待命終」を以前メルマガに書いた際、いただいた感想が心に残っており、紹介させていただきます。
感想を下された方は、おそらく医療関係の方ではないかなと思いますが、そんな場面に触れる機会がある方だからこそ、「死」を厳粛に受け止められているのかもしれません。
いつも真剣に読ませて頂いております。
(この時期は忙しくて)まとめ読みの事もありますが、今回のお話は…いろんな現実と思いがよぎりました。
昨日まで、さっきまで息をしていたのに…
もう二度と吸うことが出来なかった人
止まった呼吸を見つめて見つめて…見つめて見つめて…グワッっと胸が膨らんだ瞬間。
筋ジスの方が最後に発するあの言葉
『苦しいよ~、息が出来ないよ~』
そして、ホントに吸えなくなる。
仏教とは冷酷なまでに真実を見つめてるんですね。
でもアタシはそれでいいと思います。
人間の命は甘くない。
真実を告げるのに、見つめるために必要な冷静さだと感じます。
仏法は死を真面目に見つめる教えですが、ここに話が及ぶと、「今、死ぬこと考えても仕方ない」「ピンと来ない。当たり前じゃん」「生を充実させることが大事なので、死は関係ない」という声も多く、聞かれる方の反応が分かれるところの一つです。
儲ける方法、健康の秘訣、円滑な人間関係、などを学ぶ時に【死】はどっちでもいいと放置しておれますが、「己とは何か」「なぜ生きる」「本当の幸福とは」本質に迫れば、どうしても【死】と向き合わざるをえません。
モンテーニュは「哲学とは【死】を学ぶことだ」といっています。
20世紀ドイツの哲学者ハイデガーは「人間とは死へ向かう存在だ」と言い、ショーペンハウエルは「死こそ、哲学にインスピレーションを吹き込む」と言いました。
「無常(死)を観ずるは菩提心の一なり」
この人間存在をまじめに見つめることは、真の幸せを獲得するのに大事なことだからこそ、お釈迦さまはていねいに説き明かされたのです。
現生は一瞬にして後生になる、後生の一大事
仏教ではこんな私たちの命の実態を「薄氷の上を歩いているようなもの」とたとえられます。
中学生の頃、凍っている北海道の冬の湖に行ったことがあります。
「人も歩けますよ」と地元の人が言いますし、実際歩いている人もいるので、大丈夫だろうと思うものの、なんとも頼りなく、一歩一歩おそるおそる歩いたのを思い出します。
なにしろ何かの拍子で足下の氷が割れたら、身体全部冷たい湖にドボンと投げ出されるのですから。
薄氷の上で視界に広がる世界が、私たちが現実と思っている「現在世(現世)」です。
薄氷の下が後生、死後の世界。視界には入らず、おとぎ話のように思っている「未来世(来世)」です。
今立っている足下の薄い氷がパリンと割れたら、その時、その場で、後生に飛び込んでいかねばなりません。
その瞬間に今まで現実の世と思っていた「現在世」は、二度と戻れぬ「過去世(前世)」と変じ、あったかどうかも確かめようのない、夢の中の出来事になります。
一方、今の今まで空想話のように受け止めていた「未来世(来世)」が瞬時に、現実そのものの世界「現在世(現世)」となるのです。
以下は40代でステージ4の膵臓がんを診察室で宣告されたがん患者の手記の一部です。
世の中が真っ暗になり、全ての人生設計が破壊されてしまった。
深い谷底に突き落とされた感じ。
診察室は死刑の宣告場だった。
言葉に言い尽くせぬショックで、私は思わず両手で顔を覆った。
あれ以来、今までの自分が一変して、何もかも自分から遠くなってしまった
毎日報道される病気、事故、災害、事件で人が亡くなるニュースは、ここかしこで氷が割れて、人が落ちていっている姿です。
私もあなたも、いつ割れるかわからない薄い氷の上に立っているという点で、今日死亡して報道されている人と同じです。
なのに私たちはその己の実態を忘れて、3年後にはあれをして、5年後にはこうなって、と氷の上で何をするか、しか考えていません。
他の人よりも相当先を見て計画性を持って生きていると自負している人も、氷の上でのことです。
今晩にでも割れるかもしれない氷の下はどうなっているのか、何の準備も対策も立てず、少しも関心を払いません。
「あわれというもおろかなり」と、蓮如上人はこの人間の実態を喝破されています。
後生の一大事は我が身の一大事
支援学校で教員をされている方から聞いた話です。
その先生が通う学校の分教室には白血病の子がいて一年に何人か亡くなるのですが、子供たちは、死が意識されてくると「死んだらどうなるの?」と訊いてくるそうです。
その子供たちの真剣な問いかけに、医師も教員も親も、「天国よ」「星になるのよ」としか言えません。
しかし怖い未来を直感しているのか、小さな子でも「いい加減なこというな!」と言うそうで、周囲は絶句する、とのことでした。
卒業が近づくと卒業後の進路のことが気になるように、結婚が間近に迫ると結婚生活の不安が出てくるように、退職が近づくと老後に関心を持つように、死が身近に迫ると、「死んだらどうなるか」考えるのは自然なことです。
卒業後の進路や老後のことは、強い関心を持ち、よく検討し、熟慮を重ねるのに、【死】については、かたくなに見ようとしません。
考えたところでどうにもなることではないとあきらめているのか。
しかし子供は、気になることを率直に、しかも己の問題として、真摯に尋ねてきます。
「こんな子供の質問に困りますね」と他人事のように思っていてはいけない。この質問こそ、あなた自身が生涯かけて答えを出さなければならない大問題なのだよと仏教では説かれています。
死んだらどうなるか。
この「後生の一大事」を知るところから仏教は始まり、後生の一大事の解決で仏教は終わります。
その解決ができたときに、この身になるための人生だったのか、と本当の人生のよろこびを満喫できるのです。
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