どんな人にも生きる意味があると説かれた親鸞の教えとは

仏教の「愚痴」とはどんな意味か

 
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菊谷隆太
こんにちは、菊谷隆太です。 東京、大阪、名古屋を中心に仏教講座を主催する仏教講師です。 専門は浄土真宗で、「教行信証」「歎異抄」を学び、皆さんにもお伝えしています。 このサイトは「どんな人にでも生きる意味がある」と宣言された親鸞という方の教えを知っていただきたいと思い、開設いたしました。

仏教に『愚痴』という言葉があります。
今日、一般会話の中でよく使われます。
「あの人は愚痴ばかり言ってる」「愚痴っぽい人だなあ」というように、口でしゃべる行為の一つのように思われていますが、本来『愚痴』とは心の行いです。
『愚痴』とはうらみ、妬み、嫉み、憎しみの心で、仏教で説かれる108の煩悩の一つです。
今回は『愚痴』とはどんな心か、お話ししてまいります。

 

人を恨む愚痴の心がなければどんなにいいか

 

私たちを煩わせ、悩ませるものと書いて『煩悩』
この言葉の通り、私たちはこの煩悩に日々悩まされています。
その煩悩の中でも特に大きなものが三つあり、三大煩悩といい、その一つに数えられるのが『愚痴』です。
『愚痴』とは勝るをねたむ心、自分を思い通りにさせない人へのうらみ、憎しみの心です。
釈尊のおっしゃる通り、愚痴の心で私たちはどれだけ心はかき回され、振り回されていることでしょう。

 

先日、勉強会に来られた女性は三人姉妹の長女なのですが、昨年秋に次女が都内にマイホームを建てたそうです。
次女の結婚したご主人が大企業に勤めているので給料もいいそうで、30代で都内にマイホームを持ったのです。
ちなみにそのご本人、長女の女性は派遣社員で独身、三女の妹さんはやはり独身で生活保護だそうです。
次女だけが世田谷区にマイホーム。
その三人姉妹がこの正月に実家に集まったそうなんですが、よせばいいのにその次女がマイホームの話ばかりするのだそうです。
そうなると、その女性は正月早々気分良くない。
「もう帰れ!!なんでここでそんな話するんだ。妹のこと考えないんか。私たちのこと、少しは気遣え!」腹が立ってきたと言っていました。
次女の無神経さにも腹が立ったけれども、それ以上に、自分の妹の成功を素直に喜べない自分の心が嫌で、勝るを妬む嫉妬心を正月早々見せつけられるのが嫌だ、と言われていました。

 

もし心に嫉妬、妬みの心がなければ、どんなにか人生は穏やかになるでしょう。
同期入社の友人が先に出世しても、心から素直におめでとうと祝福できる。
好きな女性が他の異性と笑顔で会話しているのを見ても、笑顔で楽しそうだなあ、と穏やかに見ておれる。
そんな自分なら楽でしょうね、人間関係も。
ところが実態は自分の中にある愚痴の心が蛇のようにとぐろを巻いているのを顔に表さないように、必死に顔をこわばらせています。
愚痴が三大煩悩の一つに数えられるのはよくわかる気がします。

 

 

 

愚痴の心から『惑業苦(わくごっく)』の輪は回り始める

 

仏教に『惑業苦(わくごっく)』という言葉があります。
「惑」とは、迷い・惑い・煩悩のこと。
「業」は悪い行い。
「苦」は苦しみのことです。
「惑」が「業」を生み、「業」が「苦」を生む、そして「苦」が「惑」を生む。
「惑」⇒「業」⇒「苦」⇒「惑」⇒「業」⇒「苦」⇒・・
延々と続いていくと説かれています。

 

一例をあげましょう。
「分かってくれない」とすぐに口にする人があります。
いや、口にはしなくても、そう思い続けている人、何かあるとすぐに思ってしまう人も多いでしょう。
(私も人のこと言えません)
「夫が全然分かってくれない」
「親が全然分かってくれない」
「上司がちっとも分かってくれない」
この「分かってくれない」とうらむ心を、仏教では『愚痴』といいます。
この愚痴の心は、漢字一字では【惑】と書きます。

 

【惑】が【業】を生む。
『業』とは行為のことです。
「分かってくれない」という愚痴の心が、言葉や態度にどうしても出てしまいます。
それが『業』。
『目は口ほどにものを言う』
どうしても心は態度に出てしまうものなのです。

 

そういう不満を、その人の表情や言葉から当然上司は感じ取るので「あいつは扱いづらい」というレッテルを貼られることになります。
そうなれば、職場にだんだん居辛くなることでしょう。
これが、【業】から【苦】を生む、ということです。

 

その職場で評価されないという苦しみから、またも「分かってくれない」という【惑】の心を起こします。
これが、【苦】が【惑】を生む、ということ。

 

こんな「分かってくれない」と恨む心で仕事をやっているから、やる気をなくし、ミスもするようになります。
これが【業】。

 

その結果として会社からリストラされます。
これが【苦】。

 

リストラされた後に、再就職の活動をしても、そんな心の状態の人を採りたい会社はありませんので、職が決まりません。
その【苦】からまた【惑】の心が起こります。
「上司が分かってくれない」から、今度は「社会が分かってくれない」になる。
自暴自棄になって、刑事事件をおこします。
その結果、刑務所に入る。

 

惑業苦の輪が一度回り始めると、なかなか止められず、地獄の苦しみまで堕ちていくと説かれています。

 

 

 

弟子をねたむ師の愚痴の心

 

大学時代、教室の机に『青は藍より出でて藍よりも青いので藍は困っている』という誰かの落書きがあって、くすっと笑ったのを覚えています。
青色(紺色)の染料は、植物の藍を原料としていますが、その染料で染めたものは、藍よりも青い、の意で【弟子が師匠を凌駕する】ことを指します。
「藍」よりも青い「青」を「藍」はおもしろくない。
これも妬み嫉みの『愚痴』の心です。

 

私は手塚治虫の漫画で育ったと言ってもいいくらい手塚治虫は読み込んでいますが、その手塚治虫は石ノ森章太郎が生み出した仮面ライダーに幼い息子が目を輝かせて夢中になっている姿に、血が出るほどの強い力でこぶしを握り締めながら我慢して眺めていた、というエピソードを聞いたことがあります。
石ノ森章太郎は高校生で投稿した漫画が手塚治虫の目に入り、『鉄腕アトム』のアシスタントを務め、手塚の仲介で漫画家としてデビューしているのですから、まさに愛弟子といっていいのですが、そんな石ノ森に彼は文字通り血の滲むような嫉妬心を抱いていた、というのですから驚きです。

 

B・ラッセルが数学を教えていたとき、後にハイデガーと並んで二十世紀最大の哲学者とよばれるウィトゲンシュタインが受講をはじめました。
それからわずか一、二年のうちにラッセルは、彼から鋭い批判を浴びせられるようになります。
ラッセルはそれからウィトゲンシュタインを口汚くののしり、著作の一部から彼の名前を削除したと言われています。

 

手塚治虫にしても漫画界の巨匠であり、B・ラッセルはノーベル賞作家であり、泰然自若としてていい、盤石の立場だと思うのですが、教え子から受けた屈辱は、赤の他人から受けるよりずっと激しいものだったのでしょう。
弟子の成長を念じ、陰に陽に心をかけ、頭角を現していくことに目を細めたこともあったでしょうに、自分をも凌駕するようになると、今度は怨みと妬みの心に身を焦がすようになり、足を引っ張り、引きずりおろしたくなる。
これも愚痴の心いっぱいの、悲しい凡夫の実態です。

 

 

愚痴の心で苦しむ怨憎会苦

 

愚痴の心で苦しんでいる実態を一昨日からお話ししています。
仏教では人生の苦しみを八つに分けて『四苦八苦』と説かれていますが、その中の一つに『怨憎会苦』があります。
怨み憎しんでいる嫌いな人と会っていかなければならない苦しみです。

 

上司が嫌いだといっても、仕事していかねば生活できませんから会社で顔を合わせなければなりません。
転職できればいいのですがこのご時世ですから簡単ではない。
ならば鼻つまんででも我慢しなければならなくなります。

 

中には一つ屋根の下に住む夫が一番憎い、という人もあります。
夫の顔を見るだけでむかむかする、そんな人もあります、・・・というか、とってもよく聞く話です。
同じ部屋の空気も吸いたくない、というのですから、重症だと思います。
なんでそんな人と結婚したの?と聞き質したくもなりますが、仏教では『愛憎一如』といって“愛と憎しみは一つの如し”といわれます。
最初は愛していたのです。
この人になら、と自分の人生の半分を過ごすパートナーと選んだ。
ところが、その愛していた人に裏切られた。
すると一転その人のことが憎くなってくるのです。
その人のためと尽くしているほど、報われなかった憎しみ、恨みはひどいものがあります。
しかし嫌いだからとすぐ離婚して今さら独身に戻る勇気もない、子供もいれば自分の感情だけで離婚もできない、となれば、同じ屋根の下でずっと『怨憎会苦』の苦しみを受けなければならなくなります。

 

このように嫌いな相手が上司であったり、夫であったり、いろいろなケースはありますが、生きていくときにはどんなに憎くても会わねばならない事態があります。
周りの環境をどうしようもない以上、自分の中にある怨憎の心を何とかしていくしかありません。
怨憎の心、愚痴の心とどう向き合うか?
人生における大きな課題といえましょう。
お釈迦様はこの愚痴の心についてどう向き合うよう説かれているか、お聞きしてみましょう。

 

 

恨みの心をなぜ愚痴と言われるか

 

うらみ、ねたみの心を仏教では『愚痴』と言いますが、この愚痴の心でどれだけ多くの人が悩み、損していることでしょう。
愚痴の心にどう対処していくか、全人類の課題といえます。

 

『愚痴』の“愚”は愚か、“痴”も愚か、ということですから、愚痴とは愚かな心だということです。
お釈迦様は、お金の勘定ができないとか、文字のタテヨコが読めないとか、そういう人を決して愚か者とはいわれません。
人をうらんだり、憎んだりしている人を「愚か者だ」と説かれているのです。

 

ではなぜお釈迦さまは、人をうらみ、ねたむ人を「愚かだ」と言われるのでしょうか。
それは大宇宙の真理である『因果の道理』がわからないからです。
このメルマガでも何度も取り上げるテーマですが、仏教の根っこであり、幹をなす教えですから、言い過ぎということはありません。

・善因善果
・悪因悪果
・自因自果

善い行いをすれば、善い運命(幸せ)、
悪いことをすれば、悪い報い(不幸や災難)が現れる。
善いのも悪いのも、自分の蒔いた種が、自分に結果となって現れる

この因果の道理を釈尊は宇宙の真理であると、徹頭徹尾説き明かされているのが仏教です。

 

うらみ、憎しみに身を焦がす愚痴の人は、自分が受ける苦しみは全て自分のまいた種の結果だという因果の道理がわからず、『他因自果』他人のせいで自分はこんなひどい目にあったんだ、とうらんでいるのです。
あるいは『自因他果』自分のやったことをあいつ持っていきやがった、と憎んでいるのです。

 

いや、そんなことも実際あるじゃないか、と思われる方もありましょうが、お釈迦様は例外なくすべては自業自得であることを説き明かされました。

 

「なんでこんな目に遭うのがおれのせいなんだ!全部あいつが仕組んだことじゃないか!」とお釈迦様に詰め寄った人は、当時のインドにもずいぶんいたことでしょう。
いや、本心をのぞけば、みな因果の道理をはねつける愚痴の塊です。

 

そんな根深い馬鹿な心を持った私たちに、一つ一つ誠心誠意ていねいに教えられたのがお釈迦様のご一生でした。
全ては己のまいた種だった、と知らされると真っ赤にもえさかった暖炉の上に一片の雪が舞い落ちてもさっと消えていくように、うらみと憎しみいっぱいのわだかまりの心はさっと消えて心は驚くほど軽くなります。

 

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