『日々是好日』とはどういう意味か

仏教に『日々是好日』という言葉がありますが、どんな意味なのでしょうか。
毎日が好い日、という意味の言葉ですが、なぜ仏教では「毎日が好い日」と説かれるのでしょう。
このことを正しく知ることは、仏教の根幹を知る大事な内容を含んでいますので、今回解説してまいります。
目次
『日々是好日』とは、仏教の因果の道理からくる言葉
たいていの日本のカレンダーには、「大安」「先負」「仏滅」などの「六曜」が記されています。
「結婚式は大安がいい」とか、「友引に葬式してはいけない」とか、日本の習わしになっています。
結婚式場も「大安」は混みますし、大安で結婚しても4組に1組は離婚する時代ですから、結婚式は「仏滅」をオススメします。
空いていて丁寧に結婚式してくれるのでいい思い出を作れますし、割引もしてくれるそうなので、浮いたお金で、新婚旅行をちょっぴり豪勢にした方が、夫婦仲も深まるのでは。
「友引」という字は、勝負事で何事も引分けになる日、つまり「共引」が由来です。
「友引に葬式してはいけない」と言われるようになったのは、友引の葬式は友達をあの世に引っ張るから、という意味だそうで、語呂合わせ、だじゃれの域を出ない発想ですが、そんな習わしがまかり通っています。
「仏滅」という言葉が含まれているからか、「六曜」は仏教由来だと思っている人がありますが、仏教の教えと六曜とは何の関係もありません。
縁起のいい日、厄日など、日の吉凶善悪を論じる信仰は、日本だけでなく、世界中に沢山ありますが、仏教は日の善し悪しを問題にしません。
「如来の法のなかに吉日・良辰をえらぶことなし」(涅槃経)
“仏の教えに日の善悪を選ぶことはない”
とお釈迦様が説かれているとおりです。
もちろん親鸞聖人も、全く同じように教えられています。
「かなしきかなや道俗(どうぞく)の 良時吉日(りょうじきちじつ)えらばしめ」
“悲しいことよ。僧侶も在家の者も、日の善し悪しを論じている”
このように仏教ではまったく日の善悪を問題にしません。
もし仏教の僧侶でありながら、日の善悪を問題にする者があれば、形だけで、仏教の基礎を知らない僧侶です。
この涅槃経のお言葉を出して、意味を静かに聞いてみてもいいでしょう。
仏滅やら、13日の金曜日やら、大殺界やら、金星人やら、様々な迷信がはびこっていますが、かかる迷いの大衆に釈迦は一貫して
「未来の果を知らんと欲すれば、現在の因を見よ」(因果経)
と教えられています。
未来の果(将来どんなことが我が身の上に起きるか)は、現在の因(今の私の心がけ、そして言動)が造る、と徹底されています。
だからこそ『日々是好日』と教えられ、毎日毎日の心がけと言動を磨いて、日々を良い日にしていきなさい、と説かれているのです。
仏教では、苦難の時こそ『日々是好日』を意識せよと説かれる
私たちの運命の一切は、行いによって生じると説く仏教では、
『善因善果、悪因悪果、自因自果』
幸せになりたければ、幸せになるタネをまきなさい。
不幸になりたくなければ、不幸のタネをまかないようにしなさい、
己に起きる一切の運命は、己の行いによるのですよ、
と説かれています。
だから仏教では、良い種まきができた日は良い日であり、悪い種まきをしてしまった日は悪い日なのです。
最初から良い日、悪い日が決まっているのではない。今日一日の行いの善し悪しで、良い日になるか、悪い日になるか、決まると説かれているのが『日々是好日』です。
ある男が恋人にふられ「人生最悪の日」だと落ち込んでいました。
カレンダーをふと見ると「仏滅」とある。
「やっぱり仏滅だからこんな目にあったんだ」
男はそう思ったのですが、これではまた同じ失敗を繰り返してしまいます。
恋人にふられてしまう原因をつくった、その男が彼女にしてきた心ない言動の数々の日々、それこそ真に反省すべき「悪い日」だったのですから。
日の善悪のせいにしていたら、恋人に振られるような原因を作った己の言動を省みることもできず、また同じ失敗を繰り返すだけになってしまいます。
大学合格を喜んでいる人に「やっぱり大安だったからだよ」と言う人もないでしょう。
合格したのは、その日が良かったからではありません。
合格までの日々のこつこつした努力が、実ったのですから、様々な誘惑に打ちかって勉強してきた日々こそが【良い日】だった、ということでしょう。
仏教の『日々是好日』を学んでいなくても、世で成功者と呼ばれる人の中には、それぞれに経験則の中から、行為が運命を切り開くという因果の道理を信念に持ち、『日々是好日』を実践して生きている人は多いように思います。
「試合の本番にあまり興味を示さない。
本番は準備の確認作業に過ぎないのだから。
本番よりも、準備に多くの情熱を注ぎます」(イチロー)
「成功の秘訣は、何よりもまず準備すること」(ヘンリーフォード)
「引き金を引くのは誰でもできる。
大事なのはそれまでの構えであり、結果はそれで九割九分決まる」
(射撃の世界チャンピオン、ラニー・バッシャム)
特に私たちは、相当努力したのに、結果が出ず、「どうしてこんなに頑張っているのに自分は結果が出ないのか」となった時に、日の善し悪しや方角など、運勢云々と口にする人の言葉が気になってきます。
しかしそんな苦難のときも、いや苦難のときこそ、すべて己の心がけと言動にかかっていると思い出したい言葉が『日々是好日』です。
迷信に生きるか、日々是好日に生きるか
「天下分け目の天王山」「天王山決戦」と今でもスポーツの世界などで優勝を決めるような極めて大事な戦いに名づけられる、この「天王山」という言葉は、織田信長を討った明智光秀と、その仇討ちを果たそうとする羽柴秀吉が、この山を制した方が天下を取ることになると両軍がぶつかりあった山の名前です。
人生をかけたこの戦に秀吉は、この一戦に秀吉破れたり、と聞けば城に火をかけ、わが妻もわが母も刺し殺せ、と姫路城留守の将に命じています。
出陣前日に卦を占う者が「明日という日は、非常な悪日でござる」と、卦を立てた結果を報告しました。
卦によると、城主が二度と帰らぬ日だというのです。
これほどの悪日はない、と周りがささやきあう中「ばかをいえ」と秀吉は叫びます。
みなも聞け、「二度と戻らぬ」とはこれほどの吉日はないぞ、もとより討死の覚悟なればこの秀吉再び生きて帰るつもりはない。
「さらには」
秀吉は声をはりあげます。
「この一戦でもし光秀に勝たば思いのままに、どの土地かへ居城を構えることになろう、どちらにしても二度と帰らぬはわがためには見事な吉日であるわ」
と動揺する味方を鼓舞し、一層士気があがったと聞きます。
秀吉は中国大返しの最中も馬上から次々と指示を出し、近畿の武将をあらゆる手で調略し、明智方の敵将を寝返らせ、情報をかき集め、敵方に偽の情報を流し、勝利への布石を一つ一つ打っていきます。
戦は直接槍を交えるまでの事前工作で決まるのだ、合戦に及ぶ時節には100%勝利が確定している状態で臨むべし、との信念で事に臨んでいる秀吉には、たわいない迷信は何の動揺を誘うこともなかったようです。
挫折失敗の日々こそが好日だった
努力しても結果がついてこない。誠意をもって接していても、分かってもらえない。「なんで自分はうまくいかないんだろう」とくじけそうになる。そんな時は、誰にでもあります。
そこに「ここ3年間は大殺界だから何をやってもだめ」とアドバイスしてくる者もあると、「じゃ、努力してもムダじゃん」と今までの努力をやめてしまう人もありますが、こんなもったいないことはありません。
「大殺界なんか関係あるかい。研究工夫努力が足りないだけだ、ユメを実現するには、ここを何とか打開せねばならないんだ」と性根を据えて、「あーしてみようか」「この人に聞いてみようか」と果敢に挑戦を繰り返した者だけが、ある日、ハッと思いもよらぬアイデアを生み出し、一気に大成功していく。
成功者は総じてこういうプロセスを通っています。
当然その、よいアイデアがひらめいたのは、その日が大安吉日だったからではありません。
くじけそうになっても果敢に挑戦を繰り返した日々こそが、よいアイデアを生み出したのです。
だから傍観者が、成功したその場面だけを見て「あんな簡単に儲けられるなら、オレだって」と試みるのですが、『鵜のまねをするカラス』は成功はできません。
あの挫折失敗の日々こそが、今の成功を生み出した、感謝すべき日々だったことを成功者は知っています。
「ホイップクリームの法則」という詩があります。
「ホイップクリームの法則」
かき混ぜても
かき混ぜても
かき混ぜても
かき混ぜても
かき混ぜても
ほんの
少しの
変化もないかき混ぜても
かき混ぜても
かき混ぜても
かき混ぜても
かき混ぜても
ぜんぜん
なにも
変わらないかき混ぜながら
考えはじめる
これは
ほんとうに
ホイップクリームの素なのかかき混ぜながら
疑いはじめる
このまま
かき混ぜていたら
ほんとうに
ホイップクリームになるのかかき混ぜても
かき混ぜても
かき混ぜても
かき混ぜても
かき混ぜても
こんなに長く
かき混ぜても
やっぱり
なにも
変わらないこれは
ホイップクリームではない
こんなことをしていても
永遠に
ホイップクリームは
固まらないそう思って
もう諦めようとした
その瞬間
突然
手ごたえのなかったボールのなかで
ホイップクリームは
固まりはじめるいったん固まりはじめると
目にも留まらず
あっけないくらい
あっという間に
固まり終わるかき混ぜつづけて
よかった
諦めなくて
よかったそう思えるのは
固まるまで
かき混ぜつづけた
あなただけ
だから
今日の一日が良い日になるか、悪い日になるか、今年一年が良い年になるか、悪い年になるか、己の心がけと行為が決める。
だから『日々是好日』「毎日を良い日にしなさい」と仏教では説かれているのです。

Unicode
最低の日は自分で回避できる
「しまった!」
仕事で大きな失敗をして、顔面蒼白になる時があります。
ミスの報告に身の縮まる思いをし、お詫びと対処に追われ、人のせいにして腹を立てたり、自己嫌悪で落ち込んだりと、そんな「最低」な一日が終わり、自宅に帰ればくたくたです。
カレンダーを見て思う。「そういえば運勢が落ちていて、特にこの2,3日は厄日だと占われたなぁ。あの占い師、ただもんじゃないなあ」と独り合点して、運勢をあげるにはどうしたらいいか、アドバイスをもらおうと、またその占い師に予約の電話を入れている、そんな人もあります。
こんな「最低な日」とどう向き合うか、で人生は大きく変わります。
お釈迦さまはどう教えられるでしょう。
仏教では「その日が悪いのではない」と説かれます。
「大きな失敗をする原因をつくった過去の言動の数々、その過去の日々こそ真に反省すべき、悪い日々だった」と教えられます。
ミスをしたことで、日ごろの仕事振りを反省し、二度と同じミスをしないよう対策を立て、向上のきっかけとできれば、五年、十年後には、「あの日はオレにとって忘れられない日だ」「あの日がなかったら、今の自分はいないよ」と、あなたの「最低」の日は、人生の中で「素晴しい良い日」と記憶されることでしょう。、
アメリカで各界の成功者70人に雑誌社がインタビューをした結果、自分が犯した間違いを『失敗』と考えている人は1人もいませんでした。
彼らは間違いとは言わずに『人生経験』『授業料』『回り道』『成功のチャンス』と言っていました。
失敗する日はあります。
しかしすべての日は「日々是好日」その日が自分にとって、良い日になるか、悪い日になるか、これからの思いと言動が決定していくのです。
具体例で紹介する仏教の『日々是好日』
ある浪人生の独り言。
(フィクションです)
《8月1日》
今日の予備校の模試の結果、志望校はE判定だった。
何だよ、浪人までしたのに、未だにこんな結果は。。。
予備校からの帰り道も、見るもの聞くもの全てが灰色に見える。
最低の気分だ。
そういえば、朝のニュースの占いコーナーでも
射手座の人は運勢の悪い日だ、っていってたよな、やっぱりか….
この浪人生は占いからこのたびの試験結果を納得していますが、もちろん実際はその日が悪かったから、試験の結果が悪かったのではありません。
そもそも模試の当日が、正答が書けなかった悪い日だったのであり、ひいては、その試験がうまくいかなかったのは今までゲームばかりして、勉強をサボってきたからであれば、その怠け続けた日々こそが、「悪い日」だったといえます。
しかしこの浪人生、このE判定でさすがに尻に火がつき「二浪はできない」と本気モードになり、この日を境にゲームを絶って、真剣に勉強を始めた、としたら、猛勉強のキッカケとなった《8月1日》は「良い日」だったことになります。
《10月1日》
今日は、模試の結果が返ってきた!!
やった!A判定だ!
教師も、友人も、電車を歩く人も、小鳥のさえずりさえも、ぼくを祝福しているような気がする。
なんてうれしい日だ。
そういえば、朝のニュースの占いコーナーでも、射手座の人はラッキーデー、っていってたよな、やっぱりか。
またもこの浪人生、占いに納得していますが、その日が良かったから、模試の結果が良かったのではない。
この2ヶ月間、ゲームを絶ってまで、必死に勉強を続けてきた努力が実を結んだということですから、その努力を重ねた日々こそが「良い日」だったのです。
しかし彼はこの判定結果に安心して、慢心を起こし、絶っていたゲームを始めて、それにのめりこんでしまい、勉強をしなくなってしまった・・・としたら、10月1日は「悪い日」となるのです。
一つの判りやすい例でお話しました。
こんな例を聞けば誰でも分かりますが、けっこう、自分のこととなるとわからなくなるものです。
あなたはどうでしょう。
今月、悪い運命が引き起こり、頭を抱えている人もあるでしょう。
人によっては、今まで10年、20年かけて築いてきた社会的信用、家族友人の信用が崩壊する憂き目にあっている人もあるかもしれません。
そんな人には「悪夢のような月」といえます。
しかしこれも、先ほどの浪人生同様、今月が運勢の悪い月だったからではありません。
たまたま発覚したのが今月だったということで、今月自体に良いも悪いもない、その原因となる後ろめたい行いをし続けた日々、多くの人を欺いてきた日々が、「悪い月日」だったのです。
しかしそのようにこの4月、大きな挫折を味わっている人たちも、このたびのことを深く反省し、心から謝罪し、生き方を改め、行動を変えていけば、これからの人生を大きく変える転機となりましょう。
そうなれば今月こそ、人生において忘れられない「良い日」となるのです。
その日が良い日になるか、悪い日になるか、それはその日一日の「行い」が決めます。
これを「自業自得」「因果の道理」といいます。
「行い」といっても、その根本は「心の向き」です。
心の向きによって、「良い日」にも「悪い日」にもなる、と説かれているのが仏教です。
そういう視点に立つ人にとって、方角や仏滅など何の関係もありません。
『日々是好日』「毎日毎日を良い日にしていこう」と呼びかけておられるのが、お釈迦様であり、親鸞聖人です。
6回にわたってお話ししてきた『日々是好日』の土台をなす仏教の教え「自業自得」「因果の道理」について解説した動画があります。
こちらからご覧下さい。
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