親切する相手を間違えるなと説かれたお釈迦さま。「三田(さんでん)」の一つ「悲田」とはどんな意味か

仏教に「悲田(ひでん)」という言葉があります。
人にお金や物を施す「布施行」は、仏教に説かれる素晴らしい善行なのですが、施すべき相手を間違えてはなりませんよと、お釈迦様は布施をする相手として「三福田」「三田(さんでん)」を教えられています。その一つが「悲田」です。
「悲田」とは何か、今回お話しします。
悲田(ひでん)とはどんな意味か
「悲田」の「田」とは、「田んぼ」のこと。
布施の相手を仏教では「福田(ふくでん)」と、田んぼに例えられます。
田んぼにタネをまく人を見て”あんなところにタネを捨てて、おかしな人だな”と思う人はありません。
秋になって取れたお米は、全部その人のものになりますから。
同じように、施しをすると一時は自分の元から離れたように思うかもしれませんが、布施の功徳は幸せとなって、施した本人に現れるのです。
しかしお釈迦様は、誰に施してもいいものではない、と説かれています。
布施をする相手を間違えると、善行にはならないと仰です。
たとえば金持ちが、自分の息子の望むものは何でも買ってやっている、というケースは布施にはなりません。ただの「溺愛」です。
愛人やホストに貢ぐのも布施とはいいません。それは「下心」です。
それらはせっかくお金や時間をかけて与えても、与えられた方にもよくなければ、与えた方にも幸せはやってこない、残念なお金の使い道です。
ではどんな人に与えると尊い布施行になるのか、仏教で三通り教えられたその一つが「悲田」なのです。
「悲田」とは、かわいそうな人、気の毒な人、助けてあげなければならない苦境に立たされている人のこと、そんな人に自分の財を施すのは素晴らしい布施の行だと説かれています。
私たちは人に何かプレゼントする時、財を与える時は、計算が働いて「この人に渡したら後で得することがある」と見込める、力の強い人に渡すものです。
弱い人、力の無い人には「こんな人に渡してもこちらはなにも得しない」と思い、出したくなくなります。
その考えは仏の教えの逆です。
助けを真に求めている、気の毒な、弱い人にこそ施しなさい、とお釈迦様は説かれているのです。
その布施の功徳の種がやがて実って、あなたを必ず幸せにしますよ、とお釈迦様は説かれています。
災害時、多くの人が辛い思いをします。
一人一人が少しでもできることをすることは、お釈迦様の布施の精神にかなうことです。
悲田がなぜ大きな布施行になるのか
お釈迦様はかわいそうな人、気の毒な人、苦境に立たされている人に財を施すのは素晴らしい功徳がある布施の行だ、と説かれていますが、いくらお釈迦様が幸せになれる行いだよと勧められても、とても信じられず、出し惜しみしてしまうものです。
命の次に大事なお金を人に渡すことなど、なかなかできることではないからです。
出すことができるとしたら、それは返ってくる計算が立つ時です。
政治献金やベンチャーへの投資も、しっかりした計算の元「感謝をお受け取り下さい」「応援してます」「支えたい」とお金を渡すのです。
したがって力のある人、将来性のある人には、どんどん財が集まります。
ちぎれるほど尾を振ってみな近づいてきます。
逆に力のない人、将来性のない人には、見向きもしません。
「支えたい」と財を出す人は稀です。
介護老人ホームで邪魔者扱いされ、暴力をふるわれ、挙げ句の果て、三階や四階から紙くずのように捨てられる事件も起きています。
本当に支えてもらいたい人、「悲田」といわれる人に財を施す人はなかなかいないものです。
言うは易く、行うは難し。
釈迦の教えに従い、悲田に施す布施の行を実践する人はまれです。
だからこそそんな人は光るのです。
大事にされるようにもなるのです。
力のない人や弱い人を無視し、足蹴にしてきた人は、周りに同じタイプが集まりますから、やがて自分が力を失い、弱くなった時に周りから厳粛な報いを受けます。
「親捨てた 報いで子にも 捨てられる」
「あわれなり 人去りて知る 身の不徳」
とはこれを歌われています。
災害で苦しむ人に何かできることはないかと日本中で支援の声が上がるのは、お釈迦様が説かれた「悲田」への布施です。
自分も貧しいから、人に布施できない、という人に教えられた釈迦の教え
かわいそうな人、気の毒な境遇の人を支えようと力を貸したり、財を施したり、温かい言葉をかけるのは尊い布施行ですよと教えられていることを2回にわたって話をしてきました。
「苦しんでいる人を支えようといわれても、今、自分も苦しんでいるんだ、こんな時に人のことまで考えておれるか」とつい思ってしまうのが私たちです。
もっと経済的に余裕ができたら、時間にゆとりがあれば布施もしよう、今は自分のことで精一杯だというのがほとんどの人の思うことでしょう。
ところが仏教では「乏しき時与えるは富みて与えるにまさる」と説かれています。
経済的、時間的に乏しい人が布施(親切)するのは、富んでいる人がするそれよりも素晴らしい、と教えられます。
財を持っている人であっても、布施行は簡単なことではありません。
自分のことなら使えても、人のためにはなかなか出せないものです。
「名利のために千金を投げ出すは、ひげをなでるよりも易く、慈悲のために一銭を出すは、生爪はがるるよりも痛し」と説かれている通りです。
ましてや自分も大変な中にあって、人のために行動するのは大変難しいことです。
難しいことだからこそ、尊いことだと仏教では教えられています。
避難所生活では被災者同士、数少ないお風呂のチャンスを、お年寄りや子供達を優先し我慢しているところがあると報道されていましたが、お互いが大変な中、支え合っている姿は、釈迦の勧められる布施行の実践です。
布施する人はなぜ幸福になれるのか
布施(親切)をする時の心がけとして仏教が教えていることの一つ「乏しき時与えるは富みて与えるにまさる」と話をすると、乏しき時与えたら、もっと自分が乏しくなってしまうでないか、と言ってくる人があります。
しかし実際はそういうことになりません。
布施は幸せの花が咲くタネですから、布施して自分が損することは絶対ありません。
布施の実践をする人は、周りから好かれ、愛され、豊かになっていくことでしょう。
それどころかそもそも布施すること自体が、そのまま自分の苦悩の解決になるものなのです。
私たちも人生でいろいろ悩みを挙げたらきりがないほどあります。
「俺って才能ないんか」
「こんな性格の自分が嫌だ」
「なんでこんな容姿なんだろう」
「あの人にどう思われているんかな、嫌われているのでないか」
とクヨクヨすることばかりです。
ところがそんな自分が、どうしたらあの人の苦しみを軽くできるだろうか、どうやってあの人を笑顔にさせられるだろか、という悩みを持つようになると、いつの間にか先ほどのような自分の容姿だとか性格だとか、どう思われているかなど悶々としていた悩みはどこかにいってしまうものなのです。
もちろん容姿や性格が変わったわけではないのですが、そんなことにクヨクヨしている時間が無くなるから、考えないのです。
そんなことよりあの苦しんでいる人をなんとかしなければと、誰かを助けたいとう使命感に燃えるとき、自分ががんばらなければと前向きになるのです。
だいたい自分の容姿とか、人からどう思われているかなど、悩んだところでどうしようもなく、生産性がないことが多いのです。
そんなことより今、この土砂の下には切実に私に助けを求めている人がいるのだからと必死になっている時に、そんなことは忘れてしまっているものです。
『慈悲まけば愁苦の悩み遁れ去る』
人のことでどうしたらいいか、心配しているうちに、自分の心配がたいしたことではなかった、小事であったと知らされ、いつの間にか、つまらないことに悩んでいたなと、愁苦は吹き飛んでしまうのです。
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