親鸞聖人の『非僧非俗』の宣言の意味とは

親鸞聖人は自らのことを「非僧非俗」と明言されています。
「僧に非ず、俗に非ず」と読みます。
「俺は僧侶ではない」では俗人かといえば「俗人とは違う」と仰です。
仏教では「人々」を「僧俗」あるいは「道俗」といい、「僧」「道」とは、出家の人を指し、「俗」とは在家の人を指します。
出家の人でなければ在家ですし、在家の人でなければ出家、全人類はそのどちらかですから、「僧でもない、俗でもない、どちらでもない」とはどういうことでしょうか。
謎めいた親鸞聖人のお言葉です。
今回は『非僧非俗』とはどんな意味か、お話ししましょう。
非僧非俗の「非僧」とは
まず「僧に非ず」と仰ったのはどうしてか、お話ししましょう。
35歳で越後流刑の判決を受けられた親鸞聖人は、僧籍を剥奪され、俗人としての名前、「藤井善信(ふじいよしざね)」と改名させられました。よってこの時から「僧に非ず」といえましょう。
僧籍を剥奪されてなんとお気の毒な、と憐れむ人がありましょうが、それは「燕雀いずくんぞ大鵬の志を知らんや」で、親鸞聖人のことを知らない方といえましょう。
最近スポーツ選手が、賭博やドーピングで選手資格が剥奪され、意気消沈している姿がテレビに出たりしますが、親鸞聖人が僧籍を剥奪されたのも、同じようにさぞ苦しまれたことだろうと思っていたら、大間違いです。
親鸞聖人は、常に「私は、加古の教信沙弥のごとくになりたい」と仰でした。
教信沙弥という人は、もと奈良の興福寺にいた、学徳兼備の学僧でしたが、ある時、奈良の町に好きな女ができたので、寺を捨て坊主をやめて、播州の加古川の岸で女と一緒に、渡し守をして一生暮らした人です。
随分、戒律のやかましい時代に、学もあり、徳もあり、まじめな心を持っていた人が、自分をごまかさずに生き抜いたところに、聖人は深い同情と親しみを感じられたのでしょう。
一生涯、権力者が親鸞聖人に与えたのは、紫の衣でもなければ大師号でもない、流刑の衣であり、流罪前歴人としての汚名でした。
しかしもとより権力者から与えられた僧籍の資格など、もとより聖人の眼中ではない、何の価値もないものでした。
以下は親鸞聖人35歳、権力者の横暴で越後流刑になられた時に仰ったお言葉です。
もしわれ配所におもむかずんば、何によりてか辺鄙の群類を化せん。これなお師教の恩致なり
(もし流刑にあわなければ、越後の人々に仏法を伝えられなかったに違いない。なんとありがたいことだったのか。すべては法然上人のおかげである)
流刑地であった越後の地に仏の御心を伝える機縁と感謝され、意気軒昂、旅立たれています。
親鸞聖人の『非僧非俗』の覚悟
35歳で越後流刑となられ、僧籍を剥奪された親鸞聖人でしたが、聖人は国家権力より僧籍を剥奪されるずっと前から「僧に非ず」とのご自覚でした。
すでに親鸞聖人は31歳の時、肉食妻帯に踏み切られているからです。
すべての人が差別なく、ありのままで救われる阿弥陀仏の救いを明らかにするご縁になればと、断行された肉食妻帯でした。
仏教では「僧」たる者は守らなければならない戒律が定められており、「比丘」「男の僧侶」には250戒、「比丘尼」「女の僧侶」には500戒あります。
それらの戒律を守るのが「僧」なのです。
その戒律の中に「肉を食べてはならない」「結婚してはならない」とあるので、その戒律を破られた親鸞聖人は「僧に非ず」のご自覚でした。
臨済宗の師蛮の書いた『本朝高僧伝』には、日本へ仏教が伝来してからの、有名無名の僧侶、千六百数十人の伝記が載っていますが、親鸞聖人のお名前がありません。
『教行信証』に「非僧非俗」と聖人が宣言されていることを、師蛮がよく心得ていたからでしょう。
だから親鸞聖人は「破戒僧」「色坊主」と罵倒する者に対して「僧でも坊主でもない私に、そんな非難攻撃は的外れだ」と一蹴されるお気持ちであったことでしょう。
意気盛んな『非僧非俗』の宣言
越後に流刑にあわれた親鸞聖人は、僧籍を権力者によって剥奪されたことをまったく恥じておられません。
それどころか、当時、権力者の保護の元、僧侶とあがめられる者たちへどんなお気持ちでおられたか、こんなお言葉があります。
「この世の本寺・本山の、いみじき僧ともうすも、法師ともうすも、うきことなり」
この世で名門とされる、大きな寺の名僧高僧などといわれるものは、私にはイヤでたまらぬ連中である
当時の僧侶の実態に辟易した思いでいらしたのでしょう。
公家や貴族の歓心を買おうと、元来仏教の教えにない加持祈祷に奔走し、庶民からは税金を搾り取るのみで相手にせず、道理の通らぬ強訴を繰り返し、金堂宝塔は見栄えがいいが、中では派閥争いが繰り返され、難行苦行を掲げながら形だけで、僧たちの個人生活には無数の醜が隠され、隠されて行われているのが、余計に醜い、そんな有様を比叡山で20年間過ごされた親鸞聖人はよく知られていました。
それだけではない、当時の比叡山や興福寺の高僧といわれた連中が、お師匠さま、法然上人にしたことは、親鸞聖人にとって終生許せることではなかったのです。
当時、「仏道修行の器に非ず」と見捨てられていた一般庶民は、「どんな人でも救う」阿弥陀仏の本願を説かれる吉水の法然上人を明かりとしました。
そんな吉水の隆盛を恐れた大寺院は朝廷を動かし、世に「承元の法難」といわれる、仏教史上かつてない大弾圧をおこしたのでした。
法然一門は解散、法然・親鸞両聖人以下八人が流刑、住蓮・安楽ら四人の弟子は死刑に処せられています。
親鸞聖人が「イヤでたまらぬ連中である」と直言してはばかられないのは、こういった背景からです。
そんな僧侶らと同じ枠でくくられるのは真っ平ごめんだというお気持ちですから、権力者によって僧籍を剥奪され、越後に流刑になられたことを意気消沈されるどころか、こう仰っています。
「もしわれ配所におもむかずんば、何によりてか辺鄙の群類を化せん。これなお師教の恩致なり」
(もし流刑にあわねば、越後の人々に仏法を伝えられなかったに違いない。ありがたいことか。すべては法然上人のおかげである)
越後の人が待っておられる、と意気盛んな聖人のお姿がここにあります。
浄土真宗で昔から歌い継がれる「親鸞聖人の御歌」には「流罪の身をば方便と 都に散りし法の花 厳寒深雪の越後路に 御法の春をぞ迎いける」とあります。
越後流刑も、かの地の人々に仏法を広めよ、との如来のご方便と受け止められ、都を追放された親鸞聖人は、寒さ厳しく雪深い新潟の地で、阿弥陀仏の本願を説き続けられました。
すると「こんな教えが聞きたかった」と随喜する人が各地に現れ、法の花が咲き誇り、越後は仏法の春を迎えたのでした。
親鸞聖人が去られればそこは花が散り、寂しくなり、親鸞聖人が行かれるところに法の花が咲き、賑わい、明るくなる。そういう方が親鸞聖人でした。
非僧非俗の「非俗」とは
では次に「俗に非ず」とはどういうことでしょうか。
親鸞聖人は、肉食され、家庭を持たれたのだから、俗人として生きられたのではなかったのか、なぜ「親鸞は俗人ではないぞ」と仰言ったのでしょうか。
それは本当の「僧」の相を知っておられたからです。
お釈迦様は、仏弟子の自覚に燃え、仏の教えを説く人を『僧』と言われました。
仏の代官として、みなに仏の教えをお伝えする使命を持つ人のことです。
聖徳太子は17条憲法に「篤く三宝を敬え 三宝とは仏法僧なり」と言われています。
仏宝、法宝、僧宝の三つの宝を敬いなさい、と憲法に定められました。
○仏の悟りを開かれた方を敬いなさい。
○仏の悟りを開かれた方の説かれた教えを敬いなさい
○仏の説かれた教えを伝える人を敬いなさい
と言われています。
仏の教えを正しく説き明かされる方を、本来『僧』というのです。
ところが今日は「僧」といえば、葬式や法事を執り行う人、と思われています。
手次の寺、檀家寺、○○寺の門徒と、地方によっていろいろ言われ方がありますが、いずれも親族の不幸があったときに葬式や法事を頼む寺の事であり、先祖代々の墓を番している寺のことだと思われています。
本来は、手を次いで浄土までお連れすると言う意味で「手次の寺」なのですが、導くべき立場の者も、そんな自覚はなく、よって導かれる人たちは仏教は死んだ人に用事があるものと思っています。
僧侶とは仏法を説くことに専念する立場なのです。
仏教の教えを明らかにするのは難事業だから、ほかの仕事を片手間にできるはずがないのです。
精一杯法を説く僧を敬う気持ちから、門徒の人が財や米を布施をして、その財施で生活するのがお釈迦様以来、変わらぬ僧侶のあるべき姿です。
肝心の法を説かず、葬式法事で生計を立て、戒名や墓の収入の計算ばかりしている僧はもはや俗人であって、お釈迦様が説かれた「僧」ではありません。
釈迦の教えをそのまま伝えることに重い責任と誇りを常に感じられ、生涯そのこと一つに貫かれた親鸞聖人は「私こそ僧だ」と、全人類に向けて宣言されているのです。
親鸞聖人の『非僧非俗』を、法施と財施の関係から説き明かす
親鸞聖人は法施による財施のみで生きられた方です。
「法施」とは、仏法を施すこと、仏法を人にお伝えすることです。
「財施」とは、説法してくだされた方へ、聞いた人がお礼の気持ちから財を布施することをいいます。
90才まで親鸞聖人は生きられた方ですが、法施一つで生き抜かれた方でした。
生活の糧は、仏法を説かれたことで頂かれた財施のみでした。
世間の人は、働いて収入を得て生活します。
親鸞聖人は働かれたことはありません。法施のみでした。
親鸞聖人から法施を受けた人が財施をされ、財施によって生きられた方です。
そういう人は俗人ではありません。
だから、「俗に非ず」です。
親鸞聖人の「私は葬式、法事に明け暮れる僧ではない。権力によって左右される僧ではない」のご信念が「僧に非ず」と宣言となりました。
同時に「ただ仏法をお伝えするためだけに生きている」との、世間の人にはない誇りを持たれた親鸞聖人は、一生涯、本当の僧として貫かれた方でした。
生活のために働いているのではない、との誇りが「俗に非ず」と宣言だったのです。
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