どんな人にも生きる意味があると説かれた親鸞の教えとは

仏の慈悲とは人の慈悲とどう違うか。仏の心の解説

2020/11/19
 
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菊谷隆太
こんにちは、菊谷隆太です。 東京、大阪、名古屋を中心に仏教講座を主催する仏教講師です。 専門は浄土真宗で、「教行信証」「歎異抄」を学び、皆さんにもお伝えしています。 このサイトは「どんな人にでも生きる意味がある」と宣言された親鸞という方の教えを知っていただきたいと思い、開設いたしました。

仏教に『慈悲』という言葉があります。
今日では日本語になっており、いろいろな場面で使われます。
「あの人は慈悲深いよ」「あのやり方は慈悲のかけらもない」と使ったりしますね。
では元来仏教で『慈悲』とは、いかなる意味なのでしょうか。
今日は『仏の慈悲』についてお話しします。

 

仏の慈悲は「衆生苦悩我苦悩 衆生安楽我安楽」

 

『慈悲』とは『慈』の心、『悲』の心、ということです。
『慈』とは、「抜苦(ばっく)の心」です。
『悲』とは、「与楽(よらく)の心」です。

 

『慈』とは、苦しんでいる人を放っておけず、なんとかその苦しみを抜いてあげたい、という心です。
苦しんでいる人がいると、こちらまで切なくなってきて、じっとしておれない心です。
苦しんでいる人がいても「あいつの自業自得でないか。オレの知ったことか。It’s not my business.」と、見て見ぬ振りができる人は無慈悲な人です。
『慈』の心のない人です。
たとえ自業自得で苦しんでいる人であっても、その苦しみを何とかできないかとせわしくなるその心が『慈』です。
被災した人の姿に何か自分にできることないだろうか、とボランティアに行ったり、義援金を出したりする人も多くありますが、あのように苦しんでいる人がいるとじっとしておれなくて何かせずにおれなくなるのが『慈』の心です。
たとえ自分はどんな苦難の中で命尽きようとも、この人を絶対に不幸にさせてはならないと『慈』の心に動かされたとき、人は強くなります。

 

『悲』とは、相手に喜んでもらいたい、笑顔にしたい、楽しませたいという心で、自分さえ喜んでおればいい、とは思えない心です。
あなたも美味しいそば屋に感激したら、あの人にも食べさせたい、という気持ちになるでしょう。
他の者はまずいそば食べてろ、この店は俺だけが楽しむんだ、という人もしあれば、無慈悲な人です。
自分さえ評価されればいい、自分さえ儲かればいい、自分さえ好かれたらいい、この忙しいのに、あとの人の幸せまで考えておれるか、という人は無慈悲です。
この人を笑顔にしたい、幸せな人生を送って欲しい、どうすればこの人に貢献できるか、どうすれば喜んでもらえるか、この「どうすれば」は崇高な悩みといえましょう。
たいていの人は「どうすれば認められるか」「どうすれば儲かるか」と自分のことでクヨクヨ悩むものです。
周りから取ることを考えるのではなく、周りに与えることだけを考える、この『悲』の心に動かされたとき、人は強くなります。

 

仏教では、仏の慈悲について『衆生苦悩我苦悩 衆生安楽我安楽』と説かれています。

衆生苦悩我苦悩
衆生(人々)の苦しみが私の苦しみである
衆生安楽我安楽

衆生(人々)の幸せが私の幸せである

この大慈大悲で説かれたのが仏の説法なのです。

 

「去る者は追わず」が仏の慈悲ではない

 

「去る者は追わず」と聞かれると、どんな感じを持たれるでしょうか。
自分の元を去っていった彼女のことをいつまでも追いかけ回して復縁を迫る男があれば、情けなく思います。
そこは辛くとも「去る者は追わず」と泰然自若としている方が誇り高く、立派に思います。

 

しかし見方を変えれば、愛する気持ちが薄いから追わない、ともいえます。
去る者を追っても仕方ない、また次の人を探せばいい、と割り切れるくらいの気持ちだったともいえます。

 

親は子供が離れても、一時として忘れられません。
「子は親を忘れがち、親は子を思いがち」といわれるように、子供がどれだけ親のことを忘れ、疎んじ、離れようとも、親は子供のことを忘れられず、子の幸せを念じてやみません。

 

「去る者は追わず」とは、“去っていく者は放っておけ”“慕って近づいてくる者には心をかけるけど、去っていく者など助けようとは思わない”ということですから、どこか冷たい感じがします。

 

「慈悲」とは“苦しんでいる人を助けたい、幸せになってほしい”という心です。
人間も慈悲の心を持っていますが、人間の慈悲は「去る者は追わず」の慈悲です。
自分を慕って近づいてくる人はかわいく思い、力になりたいと思いますが、自分に背を向け避けようとする者には、「勝手にしろ」と冷たい気持ちになってしまうのが、人間の慈悲です。

 

阿弥陀仏の大慈悲心は、人間の慈悲心とは違います。
「逃げる者を追って追って、最後ガチッとおさめ取って絶対に放さない」慈悲です。
どれだけこちらが逃げても、裏切っても、絶対にあきらめきれず、見捨てることができずに「助けてやりたい」と願い続けてくださる慈悲です。

 

その阿弥陀仏の大慈悲心に救い摂られた親鸞聖人は

「願力無窮にましませば 罪悪深重もおもからず」

と感激されています。
“阿弥陀仏が絶対にあきらめられず、逃げる私を追いかけ続けて下されたから、罪が深く、悪の重い親鸞のような者が救われたのだ”と弥陀のご恩に感泣された親鸞聖人のお言葉です。

 

観音菩薩は仏の慈悲の象徴

 

慈悲の深い女性に「あの人は観音様のような女性だ」といいますが、観音様とは観音菩薩のこと、観音菩薩とは、阿弥陀仏の慈悲を象徴する菩薩です。
「観音」とは「世の音を観る」ということで、衆生の苦悩の声を聞く、という意味です。
人々の憂い嘆きの声に耳を傾け、相手の苦しみに「わかる。わかる」と共感し、ただ聞く、それが「観音」という意味です。

 

相手の悩みを真剣に聞くことが、時には、あれこれアドバイスするよりも相手を救うことになります。
解決策をいわなくてもいい、聞いてあげるだけで、人は安心します。
一生懸命、相手の悩みを聞くと「聞いてもらえた、知ってもらえた」と満足します。
しゃべるだけが人を救うのではありません。
相手の悲しい愚痴話を、相手の立場に立って、一言半句逃さず親身に聞くことで、その人の苦しみが相当軽くなるのです。

 

その時は、いい加減に相づちを打ったり、面倒そうに聞いてはいけない、相手の苦しみに寄り添って、真剣に聞くのが大事だと言われます。

 

誰も愚痴話は、聞きたくないものです。
別に儲かる話でもなければ、勉強になる話でもありません。
自己の境遇を恨み、人を責める愚痴話は、聞いているだけで、気も滅入りますし、イライラもします。
しかも同じ話ばかり繰り返すので、普通はうんざりするものです。
そんな話を親身に聞き続けるのは、よほど慈悲深い人でなければできないことといえましょう。
「何回も言わずにおれないほど苦しいのか、オレも同じ立場なら何度でも言わずにおれなくて繰り返すだろうな」とイライラする己の心を叩いて、心からその人の苦しみに寄り添って、親身に話を聞く。
それは仏教で説かれる「慈悲」の実践であり、「観音菩薩」の名の由来です。

 

仏の説法を大獅子吼といわれる、これも仏の慈悲に裏付けられている

 

仏の説法を「大獅子吼」と言います。
獅子は百獣の王で、獅子が吼えると、ジャングルの動物がみな震え上がります。
百獣の王、獅子に恐れるものがないように、仏の説法は、人々のさまざまな迷いを打ち砕いて目を覚まさせる。
それで仏の説法は時に叱られているように感じます。

 

【怒る】と【叱る】は、違います。
「バカヤロー」と怒鳴っている声や顔だけでは、怒っているのか、叱っているのか、判断できません。
声の大きさや形相では、怒っているのか、叱っているのか、分かりません。
その違いは「心」だからです。

 

【怒り】は、仏教では『瞋恚(しんい)』といって、全てを焼き尽くすことから「炎」にたとえられる、恐ろしい心です。
自分の言うことを聞かない者や自分の悪口を言う者におきる心です。
その人がいると自分の思い通りにならない、自分にとって邪魔な人におきる心です。
常に発想の中心が「自分」。
自分の損得のことをいつも考えている人におきる心です。
その心にまかせて「バカヤロー」と怒り散らせば、周りも本人も不幸にさせます。

 

一方【叱る】のは、相手に何とかよくなってもらいたい、相手に幸せになってもらいたい、今苦しんでいる相手の苦しみをなんとかできないか、との思いから、その人のために発する言葉です。
その発想の中心は「相手」です。

 

叱られた人は気分を害するだろうし、自分を嫌うかもしれない。
誰も嫌われたくありませんから、みなつい叱るのを躊躇してしまいます。
それでたいていは叱らないで、陰で「あれではダメだ」と笑ったり、馬鹿にするものです。
そんな中、嫌われるのも覚悟して、その言いにくいことを指摘してくれるのが「叱る」という行為ですから、これは慈悲心がなければできないことです。
慈悲心から「バカヤロー」と真剣に叱ってくれる人があれば、そんな人は人生にもなかなかいない、とてもありがたい人なのです。

 

なかなか有り難いとは思えないのですが、この心の向きが変われば、がらっと自分も回りも変わっていきます。

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