どんな人にも生きる意味があると説かれた親鸞の教えとは

仏教は法鏡なり。なぜブッダは「己を見つめよ」と説かれるのか

 
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菊谷隆太
こんにちは、菊谷隆太です。 東京、大阪、名古屋を中心に仏教講座を主催する仏教講師です。 専門は浄土真宗で、「教行信証」「歎異抄」を学び、皆さんにもお伝えしています。 このサイトは「どんな人にでも生きる意味がある」と宣言された親鸞という方の教えを知っていただきたいと思い、開設いたしました。

仏教にたとえられたのは、お釈迦さまです。
「仏の教えは汝自身を映し出す鏡だ」と教えられた真意は何だったのか。
「法鏡」についてお話しします。

一言で言うと仏教とは「法鏡」だ

私が仏教講師だと知られた方からよく「仏教って、一言でいうと何が教えられているの?」と聞かれることがあります。
この「一言で」というのはなかなか大変です。
2時間とか時間の枠を与えられ、その時間内で説明するというならまだしも、たいていこんな質問は何かの会食の席で自分が「仏教の講師をしてます」と自己紹介した後なんかに、隣の人との雑談の中で受けることが多いのです。
お互い箸を持ったり、グラスを持ったりしている喧噪の場で「一言で言ってくれ」というのですから、さてどうしたものかという場面です。

 

仏教とは仏の教えと書きます。
『仏』とは今から約2600年前、インドに現れたお釈迦様のことです。
今日では、「ブッダ」としての呼称が、馴染みがある方も多いかもしれません。
そのお釈迦様が35歳で仏の悟りを開かれてから、80歳2月15日亡くなられるまでの45年間、仏として説かれた釈迦の教え、これを今日仏教というのです。

 

お釈迦さまの説法はお弟子の手によって今日に書き残され、これを『一切経』といいます。
私達が普段、お経と呼んでいるもので、葬や法事の際に僧侶の読む「お経」です。

 

釈迦45年の教えがすべて書き残されているのですから、10冊や20冊でないことは容易に分かりますが、どれくらいあると思われますか。
なんと全部で7千余巻という膨大な数のお経が現存します。
一切経のことを別名『七駄片馬』と呼ばれるのも、インドから中国に三蔵法師が経典を運んだ際に、七頭の馬に積んでも積みきれなかったところからきています。

 

ではこの7千冊に及ぶ膨大な一切経には何が説かれているのでしょうか。
それを一言で示せ、というのですから、これが大変な問いであることはわかられると思います。

 

私はこんな問いを受けた際に「私たちの真実の姿が説かれているんですよ」と答えることがあります。
こう答えるのは自分が勝手に言っているのではない、ほかならぬお釈迦様がそのように言われているからです。

 

釈尊が80歳、お亡くなりになられるそのご臨終にお弟子の一人が尋ねました。
「世尊、45年間、お説きくだされた、この教えを一言で表したら、なんとお呼びしたらよろしいでしょうか」

 

釈迦45年、7000冊の一切経の教えを一言で表せ、という問いは釈尊在世中に既にあったのです。しかもその問いはお釈迦様亡くなられる直前に、発せられたものでした。

 

その問いに釈尊は「汝らに法鏡を授けたのだ。仏教は法鏡なり」とズバリ一言で喝破されました。

 

『法鏡』とは仏教の言葉です。
『法』とは中国の言葉ですが、お釈迦様はインドの方ですから、サンスクリット語では『ダルマ』
日本の言葉では『真実』ということです。
法鏡とは、ありのままの自己の姿を映す鏡ということ。
されば「仏教を聞く」ということは「ありのままの自己を映す鏡を見る」ということになるのです。

なぜ法鏡が必要なのか

このように仏教とは「私とは何か」に迫る教えだから『法鏡』といわれるのですよ、と聞かれた人の中に、「私とは?そんなもん。。。自分のことくらい自分が一番よく知ってるさ」と一蹴する人もあるかもしれません。
「別に他人に聞かんでも自分のことでしょ?自分以上に知っている者がいるかい」と言いますが、果たしてそう言い切れるものでしょうか。

 

「無くて七癖」ということわざがあります。
癖の無い人だといっても七つは癖があるということです。
自分の癖は人に指摘されなければ気が付かないものだと、私もつくづく感じます。
先日私も自分の講義に立っている姿をユーチューブにアップしようと思い立ち、録画して一度自分で見てみたのですが、軽いショックを受けました。
「なんだ、この話し方は!?」
「おい、こんな顔してたんか~」
思わず下を向いてしまいました。
とにかく変な癖が気になるのです。
初めて知る自分の変な癖、年に100回以上講義に立ちながら、まったくわかっていなかったのです。
話しているときはそんな癖には全く気付かず、本人はいたって絶好調なんですが、録画を通して客観的に見てみるといくつも発見しまして、へこみましたが、いい勉強になりました。

 

文章も上手な人に見てもらうと強烈なダメ出しを受けます。
「どこが悪かったんだろう」と分からなくて、そこから文章の技術を学んでいくと、至らぬところがだんだんわかってきます。
少しづつ向上していき、あとになって当時ダメ出しされたその時の文章を読み返すと、とても読めたものではないと苦笑させられます。

 

人のことならすぐわかるのです。
しぐさでも、文章でも気になるところは指摘できます。
ところが自分のことは言われるまでわかりません。
いや、言われてさえなかなか認められません。
これはどんなに洞察力が鋭い人でもそのようです。

 

ずっと新入社員の研修に携わってきたある会社の部長、研修中3か月でその社員の適性や性格を見極める凄腕で、さらには「こいつは女で失敗するな」と、その人の陥りやすいところまで見抜くと言います。
ところがそんな切れ者の部長が、最近女のことで失敗して左遷させられた、と聞くと「なんであの人が」と驚きますが、自分のこととなるとわからないものです。

 

ある奥さん、夫の大きないびきが気になって腹が立って眠れない。
「あなたのいびきがうるさくて眠れないわ」と訴えますが、夫は全く身に覚えがない。
「そんなはずがない」の一点張りだ。
それなら、と証拠を示すため、奥さんは寝室に録音機をセットして休んだ。

 

翌朝、夫の前で昨晩のテープを再生すると、まげれのない夫の高いびき。
愕然としている夫に、懲りるまでずっと聞かせてやれ、と流し続けていると、やがて続いてもう一人、奥さんの、さらに大きないびきと寝言が聞こえてきた、といいます。

 

謗るまじ たとい咎ある 人なりと わが過ちは それに勝れり

「あいつの言葉が人を傷つけている」
「あの人は周りの迷惑を考えていない」
「我が身知らずも甚だしい」
と腹を立てていますが、自分も同じようなことを言って人を傷つけたことはなかったか、同じようなことをして周りに迷惑をかけたことはなかったか、もっとひどかったのではなかったか、振り返ると思い出されてきます。

 

それでいて己を棚に上げて、人の欠点ばかり指摘したくなるのですから、我が身知らずはどっちだ、と知らされてまいります。

 

目、目を見ることあたわず。刀、刀を切ることあたわず

どんなに視力のいい人でも目そのものを見ることができないように、正宗のようなどんな名刀でも、その刀自身を斬ることはかないません。
同様にどんなに人を見抜く慧眼の持ち主も、自分のことについては見抜けないものなのです。

 

 なぜ自分を知ることが大事なのか。法鏡を見つめる理由とは

ではなぜそもそも自己を知ることが大事なのでしょうか。
「自分とは何か?そんな一円の得にもならないことあれこれ論じるひまあったら、どうやったら儲かるか、どうしたらあの人が振り向くか、を考えた方がいいじゃないか」という人もあります。

 

しかしよく考えてみてください。
自己の姿を知らないで、真の幸せを得ることは難しいのではないでしょうか。

 

敵を知り 己を知らば 百戦して危うからず

孫子の兵法書にある有名な言葉です。
【敵を知る】とは、「兵隊の数は?」「どんな武器を使っているか?」「敵の大将の器は?」といった事項ですが、それ以上に大事なのが【己を知る】ことです
「味方の兵隊の数は?」「こちらはどんな武器を使っているか?」「オレの大将としての器は?」
これこそハッキリ知っておかないと、戦にはもう勝てません。
これは戦争に限ったことではありません。
己を知らねば、人生の勝利者になれないのです。

 

就活を例にとってみましょう。
まずエントリーシートを書くところから始めます。
自己分析し、自分の適正に合った仕事を選ぶところからです。
「あの会社ステイタスあるし、収入もいい」と会社だけを見て、己を知らずば、就活はうまくいきません。

 

例えば、ジャニーズ事務所にタレントとして就職したいと思っても、誰もが入れるわけではない。
(私は当然小学校のときからあきらめています)

 

結婚でも同じことです。
あの人カッコいいと思っても、問題は自分が何十年もその人と人生を共にできるんだろうか、ということでしょう。
「この人は自分をずっと大切に思ってくれる人なんだろうか?」と相手を見極めることも大事ですが、「自分はこの人をずっと愛し続けることができるだろうか?」「共に生活していく中でこの人に嫌われないような言動を自分はできるんだろうか」ということの方がもっと大事なのではないでしょうか。
離婚の原因は「相手を見ていなかった」とも言えますが、それ以上に「自分を見ていなかった」ところにある、ともいわれます。

 

己の人生を勝利する要はやはり「敵を知り 己を知らば 百戦して危うからず」なのです。

 

 法鏡を見つめる理由をさらに掘り下げる

仏教には、諸行無常(すべてのものは続かない)とか、煩悩(欲や怒りやねたみの心)など、人生の実相や人間の本当の姿について、懇切丁寧に教えられています。
よって仏教を伝えるこのホームページも、続けて読まれている方はよくご存じのように、人生のありのままの実相を様々な角度からお話ししています。
すると仏教を聞かれる方の中から「だから何?」「で、結局何したらいいの?」と、具体的に何をしたらいいのか、方法論を聞かせてくれ、と言われる方があります。

 

私たちは子供の時から「あーしなさい」「こーしなさい」と親に言われ、学校に行けば一年間のカリキュラムに添って「ここまでにあーしなさい」と教師から背中を押され、会社に入れば、昇進や昇給したかったら「こーしなさい」と上司から指示され、起業したらしたで、多くの成功者と言われる人たちから「こーしたらいい」とアドバイスを受け、常に「How」「どうしたらいいか」方法論を聞かされてきました。

 

だからでしょう。
すぐに「どうしたら」の答えを求めようとします。

 

しかし仏教では「方法」の前に「本当の自己」はどんなものなのか、そこを徹底して説かれています。
仏教を『法鏡』(真実の姿を映す鏡)と言われる所以です。
それは自分の真実の姿が分からなければ、どんな方法論を聞いたって、本当の幸せにはなれないからです。

 

本当の自分を見失っている「HOW」は、本当の「HOW」ではない、と釈迦は厳然と説かれています。
それはちょうど正しい診断をせずに、やみくもに治療法に取り組んでいるようなものです。
逆に、正しい診断がなされ、病の原因を突き止めれば、全快できるように、本当の自己がはっきり知れば、本当の幸福になる道もはっきり照らされます。

 

自己をごまかして得られる幸せはかりそめだ

「常に欲と怒りの心に振りまわされていること」「いつ死ぬかわからぬ、はかない命であること」など、「法鏡」に映し出されて赤裸々にされる人間の姿は、時に私たちが目を背けたくなるほどです。
しかしお釈迦様がそのように説かれるのは、私たちをいたずらに暗く沈ませるためではなく、現在の人生に、真の安心と満足をもたらす第一歩だからです。

 

今日ネットで出回っているエクスタシーなどの麻薬は、服用後30分で幸せな気分になり、赤の他人とですら、すぐに親密感が生まれるそうです。
元々はベトナムの戦場から戻った兵士のトラウマを抑えるために開発された薬ですが、今は市民に出回りました。
脳細胞からセロトニンをシナプスへ放出し、またセロトニンが脳細胞に再吸収されるのを防ぎ、約3時間~5時間にわたって幸福感が続きます。
しかし繰り返し使用すると、通常のセロトニンの伝達が阻害されていきますので、悪質な副作用を覚悟しなければなりません。
これでは怖くて、手を出せません。

 

ではもし今後、副作用がまったくなく、死ぬまでずっと多幸感を得られる薬が開発されたとしたらどうでしょう。
あなたはそれを飲み続ける人生を選びますか。

 

ハーバード大学の哲学者ロバート・ノージックは「経験マシーン」という架空の例を用いて、この点について有名な考察をしています。
脳の快楽部に何らかの電波が送られ、何もしないでも快楽感、幸福感が感じられるというマシーンです。
このように何もしなくてもマシーンの力で快楽を感じるような人生を送りたいか、と学生にアンケートをとると、同意するのはごく少数派だったそうです。

 

人間は幸福を追求して、科学、医学、経済、法律、あらゆる努力を続けてきたのですから、薬物やマシーンの力で幸福感をずっと感じられるなら、それこそ科学の最高の形ではないかとも思えますが、なぜかそれを拒む学生のその気持ちはどこにあるのでしょう。
それはおそらく、真実を知りたい、そしてかりそめの安心や満足ではなく、本当の安心、満足を求めたいという、仏教でいうところの「菩提心」といえましょう。

 

法鏡を見つめる純真さ

達磨(だるま)の書かれた水墨画、見られたことあるかと思います。
あのぎょろりとした目で、こちらに向って睨みつけているような形相の絵ですが、不思議と怖い感じはしません。
怒気を含んだ人から、あんな風に三白眼で睨みつけられたら相当怖いと思うのですが、達磨の絵にはそういったものは感じられません。
それは、あの眼が人を憎んでにらんでいるのではなく、己の心をにらみつけている目だからです。

 

面壁九年、達磨が壁に向って端座し、ひたすら己の心と向き合っている、その真摯な表情が描かれたものです。
そんな達磨の顔にはときに襟を正される思いがします。

 

【自分とは何か】
そんなこと考えても儲からんぞ、実益の上がること考えたほうがいいぞ、と思ってみても、やはり気になってしまう問いではないでしょうか。
何のために生きているのか」「本当の幸せとはなんだろう」と考える人は【自己とは何か】を無視しては通れません。

 

キルケゴールは「たとえ全世界を征服したところで、自分自身を見失ったら、何の益があろうか」と言っています。

 

川上未映子という作家があります。
ミュージシャンであり、女優であり、芥川賞作家でもあります。
本質をつかんだ、おもしろい文章を書く人だな、と感じます
たとえば、中学生の時、誕生日について、こう言っています。
「なぜ祝わなあかんのか?
 その感覚が分からへん。
 誕生日ってことは死に一歩近づいたゆうことなのに、何を祝うん?」
先生は唖然として「そうゆうもんなんや!」と答えたらしい。

 

そのとんがったところはいまだ失わず、文壇に鮮烈な印象を残しています
以下も川上未映子さんの文章です。

化粧ばっかりしやがって、
人の目ばっかり気にしやがって、
そんなんちゃうで、
そんなもんちゃうんじゃ
ほんまのことは、
自分が何かゆうてみい、

人間が、一人称が、何で出来てるかゆうてみい、
一人称なあ、あんたらはなにげに使うてるけどな、
これはどえらいものなんや、
おっとろしいほど終わりがのうて孤独すぎるものなんや、

これが私、と思ってる私、と思ってる私と、思ってる私、と思ってる私、と思ってる私、と思ってる私、と思ってる私、と思ってる私!!

どうです。
噛み付くようなはげしい文章でしょう。
しかし、その文章から迫ってくる真摯さは、私には、どこか達磨の形相と重なるように感じます。

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