どんな人にも生きる意味があると説かれた親鸞の教えとは

親鸞聖人と法然上人の教えはどこがどう違うのか

 
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菊谷隆太
こんにちは、菊谷隆太です。 東京、大阪、名古屋を中心に仏教講座を主催する仏教講師です。 専門は浄土真宗で、「教行信証」「歎異抄」を学び、皆さんにもお伝えしています。 このサイトは「どんな人にでも生きる意味がある」と宣言された親鸞という方の教えを知っていただきたいと思い、開設いたしました。

親鸞聖人と法然上人は日本の仏教を代表する方であり、共に平安末期から鎌倉時代にかけて活躍され、共に弥陀の本願を宣布されています。
では親鸞聖人と法然上人とでは、教えられたことが何か違いがあるのでしょうか。
今回は親鸞聖人と法然上人の関係について明らかにいたします。

 

法然、親鸞の師弟関係に不適切な記述

 

浄土宗が「法然、親鸞の師弟関係に不適切な記述がある」として、高校倫理の教科書に異例の反論をしたことが報道されました。
親鸞聖人が師匠の法然上人の教えを「徹底」「発展」させた、と解説する教科書の表現に対し、「これでは法然上人は不徹底で、教えが未完成と受け取れる表現」と浄土宗が抗議したものです。

 

一方、親鸞聖人を宗祖とする浄土真宗の東西本願寺は「ただちに不適当な記述とは思わない」「不適当とはいえない」という見解を示しました。
教科書発行元の会社は浄土宗と本願寺の板挟みになって、マスコミの取材申請に「回答は差し控えたい」とした、という報道でした。

 

このたびの論争のことを、もし親鸞聖人が知られたらどう思われるだろうか、と嘆かわしく思います。
なぜなら親鸞聖人ほど法然上人の教えられたことをそのまま手垢を付けず、多くの人に伝えようとされた方はなかったからです。

 

親鸞聖人の主著『教行信証』は、法然上人の主著『選択本願念仏集』を解説された御著書です。
『教行信証』を執筆なされた心境を「お師匠さまの『選択本願念仏集』のみ教えを、 少しでも早く皆さんにお伝えしたい」と仰っています。
親鸞聖人は90歳で亡くなるまで幾たびも『教行信証』を修正し、加筆され、絶えず推敲を重ねられた筆跡には「命に懸けても、法然上人の御心を正しくお伝えせねばならぬ」という、一貫した聖人の誓いが、まぶしく光っています。

 

親鸞聖人は34歳の時、同じ法然門下の法友と3回も仏法の大論争(三大諍論)をされ、法友から孤立されますが、その論争も、ひとえに法然上人の真意を明らかにしたい、その思い一つでした。

 

また親鸞聖人は「法然上人にだまされて地獄に落ちても後悔しない」とまで仰っています。
親鸞聖人の、恩師・法然上人に寄せられる信念は、もはや師匠を深く信ずるという、世間の概念を超えた深い深い尊敬の念でした。

 

そのような親鸞聖人の、法然上人へのお気持ちがあまりにも知られていないのを痛感する報道です。
もっと親鸞聖人のことをお伝えしなければならないと反省し、奮起させられました。

 

 

親鸞聖人の法然上人への強い敬慕の念

 

親鸞聖人は75歳の時、法然上人を称える20首もの歌を作られています。
親鸞聖人が法然上人と今生最後の別れをされたのは35歳の時。
以来40年間、親鸞聖人はずっと法然上人を慕い、尊敬し続けられ、75歳で法然上人のことを歌にしようと思い立たれ、20首の和讃を作られたのでした。
その20首の和讃はいずれも「真実の仏教を教える法然上人に巡り遇えた親鸞は、なんと幸せ者であったのか」とあふれんばかりの聖人のよろこびが満ちあふれています。

 

離れ離れになって40年も経ち、すでに亡くなってこの世にいない人のことなど「去る者は日々に疎し」で、あまり思い出さなくなるのが、世の常です。
夜も眠れぬほど好きだった人も、刺し違えようかとまで憎かった人も40年も経てば「そういえばあんな人もあったなぁ」と時々思い出す程度です。
私も高校、大学時代の友人のことをふと思い出して「あいつの名前、何て言ったかな」とにわかに思い出せないことがありますが、その時はお互いのアパートで寝泊まりするほどの仲だったのに、今では1年に1度思い出すかどうか、20年、30年経つとそんなもんです。
ところが親鸞聖人は40年前に別れられた法然上人を、片時も忘れられることなく、敬慕し続けられたのです。

 

さらにいえば親鸞聖人が法然上人から直に教えを受けられたのは、29歳から35歳までのわずか6年間です。
90歳まで長生きされた親鸞聖人のご生涯からすると、6年間というのはまことに短い間だったと言えます。
しかし聖人にとってこの6年間は、90年の生涯の中でも、最もかけがえのない、忘れられないひと時だったのです。

 

あなたはいかがでしょうか。
今までの人生を振り返って、最もかけがえのないひと時はいつだったでしょうか。
「あの時期が自分の人生の中で最も大切で、かけがえのない時期だった」という時です。
親鸞聖人ならそれは、法然上人から直接教えをいただいたあの6年間でした。

 

法然上人との邂逅を感泣された親鸞聖人

 

親鸞聖人は9歳の時、出家され、比叡山に入られました。
ところが清らかな山だと思われた比叡山は、すでに俗世と変わらぬ、煩悩に穢れた「穢土」でした。
見栄えのいい叡山の金堂宝塔も、その中では派閥争いが繰り返され、難行苦行を掲げながらもそれは形だけで、僧たちの個人生活には無数の醜が隠されているのを知られたのです。

 

周りが不真面目だと「朱に交われば赤くなる」で、自分だけ真面目に修行しているのがばかばかしくなり、いつしか怠惰で楽を覚えていくのが私たちの常ですが、親鸞聖人はそういう方ではなかったようです。
煩悩にまみれた僧侶を反面教師に「オレだけでも戒律を守り抜いてみせる」「煩悩を克服してみせる」と一人固く誓われ、修行学問に励まれるのでした。
その誰よりも真摯な学問修行から、やがて親鸞聖人は、叡山の麒麟児(きりんじ)と呼ばれるようになりました。

 

ところが親鸞聖人は、ご自身の心を真面目に見つめられ、こう告白懺悔されています。

「こころは蛇蠍(じゃかつ)のごとくなり」
(親鸞の心の中には、醜い蛇やサソリがうごめいている)

蛇やサソリを見た時、背筋がぞっと寒くなるような、気持ち悪い感じがしますが、この蛇やサソリの心とは、他人の幸せを妬んだり、他人の不幸をくすくす笑っている心のことです。
わが身ながら、なんて醜い心だろうとぞっとする心です。
親鸞聖人は、妬み嫉みの心がとぐろを巻いているご自身の心に驚かれたのです。
醜悪さを隠蔽している比叡山を責めるお気持ちの親鸞聖人でしたが、それ以上に醜悪な心を隠しているのが、他ならぬ私の実態ではないか、と愕然とされたのでした。

 

どうしたらこの煩悩の火を消すことができるのか、決死の修行に取り組まれるものの、どうにもならないご自分の醜い煩悩に苦しまれ、こんな心のまま死んだらいったいどうなるのか、不安な心に居ても立ってもおれなくなり、ついに比叡山を下りられたのでした。
9歳で出家されてから、20年の月日が流れていました。

 

その後間もなく法然上人とお遇いされ、煩悩の塊のまま救われる本当の仏教を知られた親鸞聖人の喜びは余人の想像を絶するものだったでしょう。
「もし法然上人にお会いできなかったら、せっかく人間に生を受けながら、二度とないチャンスを失い、永遠に苦しんでいたにちがいない。親鸞、危ないところを法然上人に救われた」と感泣されているお言葉が残されています。
ここに「出家」せずとも、「在家」のままで救われる大道がひらかれたのです。

 

 

流刑も法然上人のおかげと感謝される親鸞聖人

 

親鸞聖人は35歳の時、越後に流刑にあわれました。
この時聖人は、僧籍を権力者によって剥奪されています。
しかし、そのことを聖人は、まったく恥じておられません。
それどころか、当時、権力者の保護の元、
僧侶とあがめられる者たちへどんなお気持ちでおられたか、こんなお言葉があります。

「この世の本寺・本山の、いみじき僧ともうすも、法師ともうすも、うきことなり」
(この世で名門とされる、大きな寺の名僧高僧などといわれるものは、私にはイヤでたまらぬ連中である)

 

当時の僧侶の実態に辟易した思いでいらしたのでしょう。
公家や貴族の歓心を買おうと元来仏教の教えにない加持祈祷に奔走し、庶民からは税金を搾り取るのみで相手にせず、道理の通らぬ強訴を繰り返し、 金堂宝塔は見栄えがいいが、中では派閥争いが繰り返され、難行苦行を掲げながら形だけで、僧たちの個人生活には無数の醜が隠され、隠されて行われているのが余計に醜い、そんな有様を比叡山で20年間過ごされた親鸞聖人はよく知られていました。

 

それだけではない、当時の比叡山や興福寺の高僧といわれた連中がお師匠さま、法然上人にしたことは、親鸞聖人にとって終生許せることではなかったのです。

 

当時「仏道修行の器に非ず」と見捨てられていた一般庶民は、「どんな人でも救う」阿弥陀仏の本願を説かれる吉水の法然上人を明かりとしました。
そんな吉水の隆盛を恐れた大寺院は朝廷を動かし、世に「承元の法難」といわれる仏教史上かつてない大弾圧をおこしたのでした。
法然一門は解散、法然・親鸞両聖人以下八人が流刑、住蓮・安楽ら四人の弟子は死刑に処せられています。

 

親鸞聖人が「イヤでたまらぬ連中である」と直言してはばかられないのは、こういった背景からです。
そんな僧侶らと同じ枠でくくられるのは真っ平ごめんだというお気持ちですから、権力者によって僧籍を剥奪され、越後に流刑になられたことを意気消沈されるどころか、こう仰っています。

「もしわれ配所におもむかずんば、何によりてか辺鄙の群類を化せん。これなお師教の恩致なり」
(もし流刑にあわなければ、越後の人々に仏法を伝えられなかったに違いない。なんとありがたいことだったのか。すべては法然上人のおかげである)

越後の人が待っておられる、と意気盛んな聖人のお姿がここにあります。

 

浄土真宗で昔から歌い継がれる「親鸞聖人の御歌」には

「流罪の身をば方便と 都に散りし法の花  厳寒深雪の越後路に 御法の春をぞ迎いける」

とあります。

 

越後流刑も、かの地の人々に仏法を広めよ、との如来のご方便と受け止められ、都を追放された親鸞聖人は、寒さ厳しく雪深い新潟の地で、 阿弥陀仏の本願を説き続けられました。
すると「こんな教えが聞きたかった」と随喜する人が各地に現れ、法の花が咲き誇り、越後は仏法の春を迎えたのでした。

 

親鸞聖人が去られればそこは花が散り、寂しくなり、親鸞聖人が行かれるところに法の花が咲き、賑わい、明るくなる。
そういう方が親鸞聖人でした。

 

法然上人との別れに悲泣された親鸞聖人

 

親鸞聖人は35歳の時、越後(今の新潟県)に流刑になられました。
時同じく、75歳の恩師・法然上人は、土佐(高知県)に流罪となっておられます。
遠く分かれて西・東、親鸞聖人は生木引き裂かれる痛恨の思いを一首の歌でしたためられています。

「会者定離 ありとはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思わざりけり」

短いお歌ですが、親鸞聖人の身の置き所のない悲しみが伝わってくるようです。

 

「会者定離」とは仏教の言葉で、出会いには必ず別れがある、という意味です。
好きな人とはいつまでも一緒にいたいのはやまやまですが、現実はそれを許しません。
会者定離の世の中、必ず別れが訪れます。
だから人は生きる限り、愛別離苦の悲しみからは逃れられません。

 

9歳にして仏門に入られ、かねてより「会者定離」の仏説をよく聞いておられた親鸞聖人ですから「会者定離 ありとはかねて 聞きしかど」と言われているのですが、あまりにも法然上人との別れはつらく、とても会者定離の現実を受け止めきれなかったからでしょう、
そのあとに「昨日今日とは思わざりけり」と、痛恨の思いを詠まれています。
「覚悟していたことではございますが、あまりにも……、あまりにも、早すぎます……」
聖人にとって、法然上人との別れは断腸の思いでした。

 

親鸞聖人はこの時の別れ以降、再び恩師と会われることはありませんでした。
流刑の5年後、法然上人は亡くなられます。
訃報を耳にされた親鸞聖人は大地に泣き崩れられ、悲しみのあまり吐血されたという伝承もあります。

 

「会者定離 ありとはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思わざりけり」
大切な人との別れを経験された方の中には、この親鸞聖人のお歌にしみじみと共感される方もあるかと思います。

 

別れの中でも、特に辛いのは、死別です。
散った桜は来年には咲きますが、消えゆく命は二度と戻りません。
もう一度会いたいと、どれだけ遺体にすがって泣き叫んでもかなわない、その冷厳な事実が、さらに人を涙の谷底に突き落とします。

 

考えたくないですが、死は万人の将来です。
大切な人ともやがて必ず別れがくることを、誰しも覚悟しておかねばなりません。
しかしどんなに覚悟していても、大切な人との別れは「昨日今日とは思わざりけり」まさかこんなに早くその時がやってこようとはと、今起きている現実が受け止められず、「早すぎる、嫌だ、嫌だ」と悲泣せずにいられないものなのでしょう。

 

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