どんな人にも生きる意味があると説かれた親鸞の教えとは

意業(心のカルマ)の影響力の恐ろしさに身震いする

2019/04/16
 
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菊谷隆太
こんにちは、菊谷隆太です。 東京、大阪、名古屋を中心に仏教講座を主催する仏教講師です。 専門は浄土真宗で、「教行信証」「歎異抄」を学び、皆さんにもお伝えしています。 このサイトは「どんな人にでも生きる意味がある」と宣言された親鸞という方の教えを知っていただきたいと思い、開設いたしました。

仏教は心で何を思っているか、心の向きを大変重視します。
なぜなのか、お話しいたします。

 

三業とは何か

 

夏目漱石はイギリス留学中、日記にこう書き記しました。

「真面目に考えよ、誠実に語れ、摯実に行え。
汝の現今にまく種はやがて汝の収むべき未来となって現るべし」

漱石が仏教を学んでいたからなのか、あるいは彼の経験則から培った信念なのかはわかりませんが、この言葉は「自分が現在まいている三つの種が、自分の未来を生み出す」と説く仏教の教えに通じます。

 

【三業】という仏教の言葉があります。
「業(ごう)」とは、インドの言葉で「カルマ」、日本の言葉では「行為」のことです。
その「行い」に三通りあるので、仏教では「三業」といわれます。

 

三業の三つとは【意業】【口業】【身業】です。
【意業】とは、心で思うこと。
【口業】とは、口で言うこと。
【身業】とは、身体でやることです。

 

今、あなたがこの文章を読んでおられるのは、あなたの【身業】。
誰かと話しをしていれば、それはあなたの【口業】。
この文章を読んで心の中でいろいろ評価されるでしょうが、それは【意業】です。
今もあなたは【三業】で種まきをしているのです。

 

今だけでなく、今日一日ふり返ってみて、どんな種をまいたでしょうか。
朝からどんなところへ行き、どんなものを食べ、どんなことをしたか、これが【身業】。
いろいろな人と会って、いろいろ言葉を交わしたなら、それは【口業】です。
また今日一日、どんなことを思って過ごしましたか。
感謝の心が起きたか、嫉妬の心が起きたか、不安な心が起きたか、それら全部【意業】です。

 

そして仏教では「やったかどうか」の身業、「言ったかどうか」の口業だけでなく、「思ったかどうか」の意業を見つめる教えです。
ここは仏教と世間一般の法律・道徳と大きく違う点です。

 

法律・道徳で問題にされるのは、手にかけて殺したかどうかです。
「殺してやりたい」と思ったからといって逮捕されることはありません。
実際に行動にあらわせば人に害を及ぼし、口で発すれば人を傷つけるので慎まねばならない、だが心で思うくらいなら、誰に迷惑をかけるわけでもないから別にそんなに問題にしなくていいと考えるのが一般的です。
ところが仏教では「言うこと」「やること」よりも、もっと問題が「思うこと」だ、と言われるのです。

 

徹底的に自己を見つめる仏教

 

「何をやったか、言ったか」だけを問題にするのではなく、「何を思ったか」まで問題にする仏教を電子顕微鏡にたとえられます。
手のひらも肉眼で見ると、別に汚れてもおらず、キレイに見えます。
虫めがねで見ると、汚れが発見できることもありますが、それでもキレイに見えます。
では電子顕微鏡ではどうでしょう。
白くしなやかな女優の手のひらも、電子顕微鏡を通して見れば、大腸菌や細菌がうようよして、思わず眉をしかめることになります

 

警察の取調も裁判もやったかどうか、身業を問題にするだけですから、「法律」は【肉眼】で見た手のひらのようなもの。
口の行いまで問題にして裁く「倫理道徳」は、【虫めがね】に例えられます。
「仏教」は、心の底まで徹見するので、【電子顕微鏡】です。

 

「心の中くらい、別に何を思ってもいいじゃないか。人に迷惑かけるわけじゃないんだし」
そう思う人もあるでしょうが、釈迦は身体で何を行ったか、口は何をしゃべったか、その身体や口の行いよりも、もっともっと重い責任があるのが心の行いだと喝破しています。
なぜなのでしょうか。

 

仏教はなぜ心を重視するのか

 

なぜ仏教では口で言うことよりも、身体でやることよりも、心で思うことを重視されるのでしょうか。
それは、心で思う『意業』こそが、口や身体の行為の元だからです。

 

人を傷つけることを言うのは口業ですが、言われた人は何を傷つくのかといえば「自分のことをこんな風に思っていたのか、この人は・・・・・・」と【その人が思っていたこと】にショックを受けるのではないでしょうか。
心が命じたから、その人の口から出たのです。
心で思わないことを口が勝手にしゃべったり、勝手に身体が動くということはありません。
「失言、失言、忘れて、忘れて」と言われたところで、その人の口に出たのは、やはりその人の心の現れです。
心にないものは口に出てきませんから。

 

浮気する人がいますが、それも「いいじゃん、浮気しても。ばれなきゃ問題ないよ」と心がそのように思ったからです。
心が「隠れて浮気しよう」と思ったから、身体がその方向に動いたのです。

 

今日、あなたはどこでこの文章を読んでおられるのですか。
その場所にあなたを運んだのは、他ならぬあなたの身体の行為(身業)ですが、そもそも「今日はここに行こう」と心が思わなければ、今そこにはおられないはずです。
「行こう」と心が動いたから、今、そこにおられるのではないですか。
違う選択肢もあったはずです。
選んだのはあなたの心です。

 

あなたの今の立場、環境、ついている仕事、あなたを取り巻く人間関係、それらすべて自分の心が選んだ結果です。

 

心と口や身体の言動との関係は、あたかも川の上流と下流のようなものです。
上流に塗装工場の赤いインクを大量に流し込めば、下流は赤く染まります。
逆に上流に青いインクを流し込めば、下流は青く染まります。
我が家が下流にあり、家の前の赤い川を何とかきれいにしたいと、いくら家の前の川の水を汲んでもだめです。
上流まで行って汚れの元を正さなければ、百年たっても川はきれいになりません。

 

「オレはこの事業に人生を懸けているから」と言いながら、後回しにしたり、根気が続かず何かと怠けるのは、その人の本心は、その事業に人生を懸けていないのです。
心が本気でないのは、その人の日常生活に如実に表れるから、すぐわかります。
本当にそのこと一つに懸けている人は、誰が見る見ないは関係なく、寝食忘れて取り組んでいます。

 

ビジネスやアートなど各界の成功者に「自分もあなたと同じようになりたい、どうしたらいいか」と聞いてくる人はたくさんいるそうですが、それらの人たちを見て成功者たちがよく言うのは「本気の人はいませんね」という言葉です。
「『こうしたらいいよ』『こう言えばいいよ』とどれだけアドバイスしても、『しない』『しても続けない』で終わる人ばかりだ」と。
それは成功者が、まだ駆け出しの時に心に秘めていたような、本気の心がないからです。

 

上流に青いインクを流していないのですから、下流が青くならないのは当然なのです。

 

ビジネスの成否は心による

 

 

ではこれから【意業】がいかに私たちの運命に大きな影響を及ぼすか、さまざまな事例からお話ししましょう。

 

20世紀初頭、斜陽の大英帝国と、その英国に代わって世界の覇権を手中にせんとするアメリカと、当時の両国の様子を象徴するような出来事がありました。
あるアフリカの小国に、イギリスの靴屋が商売に赴きました。
ところが靴を売ろうにも、その国の住人は靴を履く習慣がありません。
早速商人は、本国に電報を打ちました。
「この国はだめです。だって靴を知らないのですから、売れるはずがありません」

 

その後、同じその国にアメリカの靴屋が出向きました。
到着1時間後、本国に電報を打ちます。
「やりました!全部売れます!だって彼ら、誰一人、靴を履いてないのですから」

 

同じ状況を見ても、心の違いで、180度運命は変わってきます。

 

世界のパナソニックを一代で築き上た松下幸之助
「不景気は絶対あらしまへんのです」
「不景気は天然現象やないですよ」
「心で不況をつくってはいかんということです」
と言っています。

 

マニュアルトークよりも、心

 

私が大学1年生だった時、個別訪問してアンケートをとる、完全出来高制のアルバイトを1ヶ月間したことがあります。
いまだ経験したことのない個別訪問の断りに、ショックを受けました。
高校時代までは、学校の教師も、近所の人も、分別ある大人は、私に対して仏頂面だったり、無視したりということはなかったからです。
そういう意味では、よく使われる「世間の冷たさ」の言葉の意味を垣間見た気がしました。
1件契約すると2000円なんですが、半日まわっても1件もとれません。
そうなると玄関入る前から「どうせだめだ」という心になって、「さぼろっかな」という心になってしまいます。

ところが夕方に、気持ちよく書いてくれる人があったのです。
「ええ、こんなアンケートを書いてくれる人があったんだ・・・」
一つの成功体験が「次もあるかも」と期待感に変わり、やがて日数を重ねていくうちに「こんな人は書いてくれる人」と手ごたえを感じるようになりました。

 

結局は、かなり高給のバイトとなり、日本各地に旅行行けるくらいに私の大学生活を潤いのあるものにしてくれました。

 

最初に会社からマニュアルトークは教わりましたが、形だけのマニュアルトークを覚えても使い物になりません。
心の向き1つで、がぜん表情や言葉も変わり、結果が大きく違っていくのを思い知らされた出来事でした。
マニュアルの礼儀作法よりも、マニュアルトークよりも、お客さんに誠実に接しよう、喜んでもらおう、お客さんを好きになって仲良くなろう、 という心の向きが、自然と口や身体に表れるほうがずっといいということを学びました。

 

日常の思考が結果の違いとなる

 

ノーベル化学賞を受賞したアラン・マクダイアミッド氏「研究室を離れ、グラス片手にぼんやりする一時にひらめく。私にとって一番大事な書類は、バーのナプキンに書いたメモです」と語っています。

 

戦後の歌謡界を代表する作詞家である星野哲郎氏は、マッチの燃えかすをペン代わりに胸に浮かんだ語句を、割り箸の袋やコースターに書き留めて、作詞したそうです。

 

こんな話を聞くと、「オレは研究室や書斎で苦悩呻吟していても、なかなかアイデアは出てこないのに、やはり人間の出来がノーベル賞の受賞者や有名作詞家とは違うんではないか」と思う人もあるかもしれません。
酒飲み、談笑しながらも、ハッと思いつく彼らの才能に感嘆してそう思うのでしょうが、本当に感嘆すべきはそこではありません。

酒を飲んでいても、常に自分の研究、仕事を一時も忘れない、そのこと一つ考え続けているその姿勢こそ、真に感嘆すべきところがあるのです。
バーのナプキンや割り箸の袋のメモの走り書きは、彼らの圧倒的な情熱と努力の証です。
常にそのことばかり考えているから、テレビを見ていても、ご飯を食べていても、酔っ払っていても、お風呂の中でも、寝起きでも、ハッと思いつくのです。
どうしようかと悩み続け、ずっと考え続けている人(圧倒的にそのこと一つに専念している人)にのみ、ふとした瞬間の虚を突くように、ひらめきという訪問者はやってくるのでしょう。

 

交差点で信号が青に変わるわずかな時間に、待っている周りの人を観察してみると、いろいろな人がいます。
スマホゲームにいそしむ人もあれば、他の人のファッションを値踏みしている人、LINEする人もありますが、多くの人はぼんやりしているように見えます。
しかしぼんやりしているように見えるその頭の中も、千差万別、ずいぶん違います。
そういう日常の刻一刻で、何を考えて生きているか、その各人の差がやがてそれぞれの実を結び、大きな結果の違いを生み出すのです。

 

心を完璧に隠せばそれでいいのか

 

心が言動に表われ、運命を生じさせるさまざまな事例を見てまいりました。
仏教では「心の中くらい、別になに思ってもいいじゃないか。人に迷惑かけるわけじゃないんだし」という発想を否定し、常に『意業』が重視されるのもおわかりだと思います。
仏教では、心の中がばれるばれないを問題にするのではなく、心の中そのものを問題にするのです。

 

言動では、どこから見ても、品行方正、非の打ち所のない人格者、周りへの気遣いもできて、優しい笑顔のジェントルマン。
ところが心の中は恨みと呪いの塊で、人を蹴落とすこと、見下すことしか考えていない人だったとしたら・・・・・・。
そんな人を『偽善者』といいます。

 

誰も『偽善者』が好きな人はいません。
「私の彼は一流企業に勤めていて、物腰柔らかなんだけれど、欠点は『偽善者』なんです」
そんな人と付き合いたいですか?
「うちの子は頭もよくて、運動神経もいいんです。ただ1つの欠点は『偽善者』なところです」
自分の子供が偽善者だったらどうでしょう。
「少々頭が悪くてもいいから、運動神経悪くてもいいから、たのむから偽善者にだけはなってくれるな」
と思うのではないでしょうか。

 

自分の恋人や子供が偽善者なら許せない気持ちになります。
なのに、なぜ、私たちは自分の中の偽善は「心の中くらい、いいじゃん」と容認してしまうのか、自分には甘いものです。

 

親鸞聖人の懺悔の告白を聞いてみます。

【修善も雑毒なるゆえに 虚仮の行とぞ名づけたる】
(心では醜いことを抱きながら、上辺だけ取り繕って、善人のように見せかけている親鸞は偽善者だ)

比叡山で、徹底して親鸞聖人が見つめられたのは「心」でした。

 

では、そんな偽善者の実態に苦しまれた親鸞聖人がどうして、

「如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし」
“限りない幸せな身に生かして下された如来のご恩、どうお返ししたらよかろうか”

と感泣されたのでしょうか。

 

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