「人生の目的は人それぞれ」という常識の決定的な間違いは何か

「人生の目的は人それぞれだ」という人は多いですが、仏教を説かれたお釈迦様は「それは間違いだ」と教えられています。
人類の常識を否定され「万人共通の生きる目的」を明示されたのがブッダでした。
なぜ「人それぞれ」が間違いなのか、今回お話いたします。
それは人生の目的ではない
「人生の目的は何か?」と尋ねれば、「それは人それぞれだろ」と答える人が多いです。
「金メダル」とか「ノーベル賞」とか「温かい家庭」とか、人によってそれは違いますが、その人その人が、自分らしい目的を見つけて、そこに向かって精一杯生きれば、人生は輝く、と思っている人が一般的です。
しかしそれら「金メダル」、「ノーベル賞」、「温かい家庭」などは、各人の「生きがい」「ユメ」「生きる目標」といわれるものであって、「人生の目的」ではありません。
「あなたのユメはなんですか」「あなたの生きがいはなんですか」と問われれば、人それぞれの答え「金メダル」、「ノーベル賞」、「温かい家庭」でいいのですが、「あなたの人生の目的はなんですか」を答えたことにはならないのです。
それは「人生の目的」と「生きがい・ユメ」とは、まったく違うからです。
ほとんどの人が「人生の目的」と「生きがい」「ユメ」を混同しており、数々の人生本でも同義としていますので、その違いを理解するのは大変ですが、両者は明確に違います。
ではどう違うのか、仏教では様々な角度から違いを鮮明にしていますが、一つ、大きな違いを簡潔に言いますと、「生きがい」「ユメ」は、時と共に変化するものです。
「とりあえず今はこれを目指す」という目標であり、まずは合格、次は就職、そろそろ結婚と、変化していくものですから、人生の通過駅の一つです。
「生まれてきたのはこれ一つ」という「人生の目的」ではありません。
一例を挙げて考えてみます。
数学の難問中の難問として知られる「フェルマーの最終定理」。
17世紀の数学者フェルマーの書「算術」の余白に、彼自身が書いたシンプルな方程式と「この方程式を証明する驚くべき証明方法を私は知っている。だが余白が足りないので書かない」という謎めいた言葉が、それから300年間、世界中の数学者を悩ませることになりました。
フェルマーが残した数式を何とか証明しよう、あるいは反証しようと、世界の名高い数学者たちがこの証明問題に挑戦したのですが、300年にわたって、ことごとくその挑戦を退けてきた難攻不落の問題であることから、いつしか数学者が畏敬を込めて「フェルマーの最終定理」と呼ぶようになりました。
そのフェルマーの最終定理に引導を渡したのが、ワイルズというイギリスの数学者でした。
ワイルズがフェルマーの最終定理を完全に証明したというニュースは、1996年、20世紀最後の数学界の大ニュースとして世界を駆け巡りました。
記者会見で「なぜ世界中の数学者が解けなかった難問をにあなただけが証明できたのでしょうか」と尋ねた記者にワイルズは「若い頃からの情熱」を理由に挙げています。
小学校の算数の授業で教師から「フェルマーの最終定理」のエピソードを聞いたワイルズ少年は大変感動し、算数が大の得意だった彼は、必ず自分が証明してみせると固く心に誓ったそうです。
それからのワイルズは、高校も、大学も、数学者になるため、しかも数学の中でもフェルマーの最終定理を解くために必要な分野を選び、やがて数学の教授となりますが、その目的もすべてはフェルマーの最終定理を証明するため。
論文書く時も、授業する時も、常に頭から離れないのがフェルマーの最終定理でした。
そしてついに50歳の時に完全に証明したのです。
感嘆した記者は「それほど長年にわたって取り組んできた夢を叶えた今の喜びはいかほどでしょうか」とマイクを向けましたが、ワイルズの言葉は意外なものでした。
「この問題を解いてしまったことで、喪失感がある」
「私にとってあんな魅力的な問題はもう現れないでしょう」
それまではどんな苦難もフェルマーの最終定理を説くためだと思えば、乗り越えることができた、だんだん証明に到達点に近づいていく日々に、充実感、手応え、生きる喜びも感じてきた、しかしもう終わってしまった。
これから先、私は何に向かって進めばいいのだろう。
胸にぽっかり穴が空いたような喪失感を言葉にしたのでした。
「ユメ」や「生きがい」や「生きる目標」は、遠くにある時は輝いて見えますが、かなえてしまうと一時の達成感の満足の後、寂しさが襲います。
「さてその次は何をすればいいのだろう」という心になります。
「この身になるための人生だったのか」という人生目的成就の喜びとの違いはここにあります。
では生きがいは要らないのか
「生きがい」が要らないと言っているのではありません。
生きがいがなければ、人は生きてはいけません。
人間、生き抜くにはどうしても生きる明かり、生きる支えが必要です。
待ち受け画面を奥さんと子供の写真にしている友人が多いですが、「妻子のためにも頑張らなきゃ」と励みにしているのでしょう。
それは「家族」を生きがいにしている人です。
晩酌が楽しみで生きているようなもんですわ、という人は、晩酌を力に、嫌なことも乗り越えているのですから、「晩酌」を生きがいにしている人です。
もしその人から晩酌を奪ってしまったら、生きる力を失ってしまうでしょう。
以前ある大学生が「生きててもいいことないので、死のうかなとずっと思っていました。ただ少年ジャンプのあの続きどうなるのかな、とそれを明かりで、とりあえず月曜日まで生きよう、と。それをつなぎ合わせて、今まで生きてきたようなもんです」と言うのを聞いたことがあります。
この学生の話に通ずると思うのが、太宰治のこの言葉です。
死のうと思っていた。
今年の正月、よそから着物一反もらった。
お年玉としてである。
着物の布地は麻であった。
鼠色の細かい縞目が織り込まれていた。
これは夏に着る着物であろう。
夏まで生きていようと思った。
先ほどの大学生でしたら、少年ジャンプを生きる明かりにしていた、ということですし、太宰治なら、着物一反の着物を生きる明かりにしようと思った、ということでしょう。
かくの如く、私たちは、さまざまなものを生きる明かり、生きがいにして、なんとか懸命に生きている存在です。
ちょうど海におぼれたら、何か浮いている板切れや丸太に必死にしがみつくようなものです。
なんでもいい、とにかく何かにすがりつかないと、波が苦しくてつらくって泳げていけないように、私たちは何か信じる明かりがなければ生きていけない存在なのです。
では生きがいを支えに、生き続けているのは何の為なのでしょうか。
生きていくために必要な生きがいですが、なぜ生きていかねばならないのでしょう。
なぜ人は生きているのか、そもそもなぜ死んではいけないのか、生きがいを支えに生き続けたところで、いつかは死ななければならないというのに・・・。
【必ず死ぬのに、なぜ生きる】
これが「人生の目的」とは何か、という問いです。
では真の人生の目的とはどんなことか
仏教に教えられているのは「なぜ生きる」の答えです。
「なぜ生きる」とは砕いて言えば「(必ず死ぬのに)なぜ生きる」ということであり、「(どんなに苦しくても)なぜ生きる」ということです。
人は必ず死んでいくのに、なぜそれまでさまざまな苦しみに耐えてでも、一生懸命生きねばならないのか、この問いが仏教で言うところの「なぜ生きる」です。
「なぜ生きる」一つの開顕が釈迦45年の教えでした。
世の中には「どう生きる」を教える人は多くあります。
どうしたら健康になれるか、どうしたら稼げるか、どうしたらあの人とうまくやっていけるのか、この「どうしたら」でみな一生懸命ですから、そのニーズに応えんとして「自分はこうして健康になった、もうかった、仲良くなれた」と実体験を交え、あるいは心理学や物理学や経済学や医学の根拠を用いて、説得力ある「どう生きる」の答えを提供する人はたくさんいます。
しかしそもそも、そうやって生きていくのはなぜなのでしょうか。
人はなぜ一生懸命生きるのか、肝心の「なぜ生きる」の答えはどこからも聞けません。
朝日新聞に、ある46歳の千葉県のA氏の記事が掲載され、その見出しが「治らない人のための情報がない」とあり、心に残ったので紹介します。
A氏は腎臓癌になり、発覚した時点ですでにリンパまで転移しているステージ4状態で、余命一年と医師より宣告されました。
ポジティブで明るい性格のA氏は、フェイスブックに「えー、みなさまにご報告です。腎臓癌になってしまいました。それもステージ4!かなり分の悪い戦いとなりそうですが、最高にチャレンジングな夏になりそうです。秋には、みなさんと美味しいお酒が酌み交わせるように頑張ってみますね~!」と宣言し、それから治る方法を求めてインターネットであらゆる情報を調べました。
ネット上には「これで奇跡的にステージ4の癌が治った」との力強い情報がたくさんあり、その中でも信頼に足るものを徹底的に取り組んだものの、A氏の体調が改善することはなく病状は進行していき、ついに今年の8月、肝臓まで転移してしまい、医師から余命一ヶ月と宣告されました。
「やせ我慢は終わり、奇跡はない」と、治らないことを覚悟したA氏は、今までの「治る方法」を探し回る日々を止め、「治らない人が残された日々をどう向き合って生きていけばいいのか」の情報を調べたのです。
「治らない人が安心し、満たされた心境になるには」
インターネットで徹底して調べたものの、その情報が全くない。
がんを克服した人の話はあんなにたくさんあり、それぞれ説得力ある内容だったのに、死を覚悟した人が必要とする情報が全然ないことに驚き、その事実を新聞社の取材で「ここが伝えたいポイント」と新聞記者に力説しました。
この取材から数日後にA氏は亡くなりました。
A氏が心の底から知りたかったのは「必ず死んでいく自分が、闘病生活で心身共につらい中、生き続けていくのは何のためか」「こんな自分に“生きてきてよかった”といえる心の安心、満足はあるのか」ということだったに違いないのですが、その答えがどこにもない、とご本人は言われている、ということは「必ず死ぬのに、どんなに苦しくても、なぜ生きる」の答えがないということです。
この「なぜ生きる」をはっきりと明示されたのが、800年前、日本の京都に生れられた親鸞聖人という方でした。
親鸞聖人90年のメッセージはただ一つ「なぜ生きる」の答えがあるということでした。
必ず死ぬ人間が生きている時に果たさなければならないかけがえのない人生の目的とは何か。
その目的を果たしたならば、人間に生れてきてよかった、生きてきてよかった、という喜びが起きる、それはいったい何か、徹底して明らかにされ、「その身になるまではどんなに苦しくても生き抜きなさいよ」と教えられたのが親鸞聖人でした。
私が浄土真宗の布教使に人生をかけているのも、親鸞聖人がこのこと一つ、明らかにされた方であることをお伝えしたいと思っているからです。
A氏のように「治らない自分が生きる意味は」知りたい方が今もどれだけおられるかわかりません。
そんな方に親鸞聖人がどのようにその答えを教えられたか、お話しできればと念願しています。
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