どんな人にも生きる意味があると説かれた親鸞の教えとは

『心は蛇蠍のごとくなり』と告白された親鸞聖人

2020/11/19
 
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菊谷隆太
こんにちは、菊谷隆太です。 東京、大阪、名古屋を中心に仏教講座を主催する仏教講師です。 専門は浄土真宗で、「教行信証」「歎異抄」を学び、皆さんにもお伝えしています。 このサイトは「どんな人にでも生きる意味がある」と宣言された親鸞という方の教えを知っていただきたいと思い、開設いたしました。

 

親鸞聖人はご自分の心をこう告白懺悔されています。

『心は蛇蠍のごとくなり』

蛇蠍とは「じゃかつ」と読み、蛇とはヘビ、蠍とはサソリのことです。
自分の心の中にヘビやサソリのような心があると聞いても、首をかしげる方もあることと思います。
そこで『私の知らない私の心』『私のわかっていない私の姿』をさまざまな角度からお話ししてまいります。

 

親鸞聖人がご自身の心の底を見抜かれて言われた『心は蛇蠍のごとくなり』

 

成功者の書いた早起き勉強法の本を読み、「そうだったのか。早起きはかくも大事なものだったとは。よし、今後は絶対に寝坊しないぞ。早起きで自分の生活を変えよう」と決意する、とします。
ところが『わかっちゃいるけどやめられぬ』とはこのことか。
朝になると「もっと寝たい」と、ものすごい力で自分を布団から離れさせず、「えーい、もう一眠りしちゃえ」と眠ってしまう。
この場合、「早起きしよう」と決意したのは、【私の心】。
固い決意をしたのです。
しかし「もう一眠りしちゃえ」と決めてしまった。
それもほかならぬ【私の心】。
・・・・・・【私の心】は単純ではありません。

 

「私はこのことはわかっているよ」と思うのも私の心。
しかし「わかっていない」のも私の心。
自分の自覚している【私の心】はほんの氷山の一角でしょう。
海面下には巨大氷山が隠れているように、自覚できない【私の心】が厳としてあります。

 

親鸞聖人はご自分の心をこう告白懺悔されています。

『心は蛇蠍のごとくなり』
“親鸞の心の中には、醜い蛇やさそりがうじゃうじゃといる”

これから数回にわたって、目に見えない心の中をお釈迦様、親鸞聖人はどう明らかにされているか、見ていきたいと思います。

 

己の蛇蠍の心を知らない私たち

 

平成5年広島市で小学1年の少女が殺害された事件がありました。
殺人と強制わいせつ致死などの罪で逮捕されたのは、ペルー国籍のヤギ・カルロス被告(38)。
何年かの裁判があり、無期懲役刑を言い渡されています。
ヤギ被告は、「悪魔が私の中に入った。しかし事件後、祈っていたら悪魔が抜けた」と供述しました。
「あの時は僕じゃなかったんだ」と両親に泣きながら言ったと聞きますが、あきれることに彼の性犯罪はこれで3回目だそうです。
過去2回も、悪魔が入ってきた、と話したとか。
そんな言い訳を通そうとする浅ましさを咎める人は、彼の周りにいなかったのだろうか、と思います。
またそんな犯罪を三度も繰り返しながら、なおまた同じ言い訳を繰り返すわが身しらずの厚顔無恥に憤慨を禁じえません。
「オレは善良な人間だ」と自惚れていた者が、恐ろしいことをしでかした時、無責任にも悪魔のせいにして自己を省みようとしないのは、犯した罪以上に浅ましく、また恐ろしくも感じます。

 

罪を犯したときに「魔が差してしまって・・・・・・」「気が動転してしまって、冷静ではなかったんです」というのもよく聞きますが、間違いなく己の心が指示してやってしまったことです。
他の誰かがその人の心を動かしたのではありません。
心理学者のユング「疑いもなく、つねに人間の中に棲んでいる悪は、量りしれない巨魁なのだ」と言っています。

 

心の中を暴かれて善人と合格できる人はあるか

 

『サトラレ』という映画があります
サトラレとは、半径10メートル以内の人に自分の心がさとられてしまう、という特殊な人たちのことです。
自分の心が回りの人たちに全部筒抜けで知られてしまう恐ろしさが映画の中で描かれています。
たとえば主人公が片思いの女性とすれ違う時、「お、今日のスカート短いぞ」と思うのですが、この心の声は、その女性にも、周りの人にも全部丸聞こえなのです。
女性はむっとした顔になるのを抑え、周りの人は失笑するのを抑える、そんな場面がありました。
もし、あなたがサトラレだったらどうしますか。
ひきこもってしまうか、無人島にでも逃げすのではないでしょうか?

 

小学生のときに読んだ手塚治虫のマンガに、テレビとヘルメットがコードでつながれていて、そのヘルメットをつけると自分の心の中が全部テレビに映る、という機械がありました。
赤チョーチンの焼き鳥屋で酒を飲んでいる場面が映し出されて、ヘルメットをつけた御茶ノ水博士が赤面するという場面がありました。
私は子供心にも「人に見せない心の中って、そんな赤面してすむくらいのかわいいもんじゃないぞ」と思ったものです。
もしあなたが職場でずっとそのヘルメットをつけていて、職場の人がみんなでそのテレビ鑑賞したら、どうなってしまうでしょう。
とても恥ずかしくて、その場におれないでしょう。
あわてて逃げ出すのではないでしょうか。
いや「悪魔」と叫んで、みんなが叩き出すかもしれません。

 

心の中まで赤裸々にあらわになれば、善悪を裁く裁判官自身が刑務所に入らなければならなくなります。
悪人を捕まえる警察官も、処罰される対処になってしまうでしょう。
人類の中で、この人は善人だと合格する人は、一人くらい果たしているのでしょうか。

 

蛇蠍の如き自己の心を自らごまかしている

 

私の心、といっても単純ではありません。
『私の心』という、ほんの氷山の一角が『私の知っている私の心』であり、その海面に隠された『私の知らない私の心』とはいかなるものなのでしょうか。
親鸞聖人の『こころは蛇蠍のごとくなり』は、その海面下の自己を知らされた告白です。

 

2010年に宮崎県の口蹄疫騒動があった際、何万頭という牛や豚が殺処分されました。
口蹄疫にかかったからではなく、口蹄疫にかかる疑いがあるということで、健康な牛や豚が殺されたのでした。
行政としては当然の処分ということになりますが、殺されていった牛や豚は当然だとは思っていないでしょう。
動物界における絶対権力者である人間と比べれば、彼ら牛や豚は実に弱い存在なので、文句も言えず、主張も許されず、諾々と殺されていった、といえましょう。

 

一昔前になりますが、多摩川べりに現れたということから「タマちゃん」と呼ばれて愛されたアザラシがいたことを記憶されている方もありましょう。
大人も子供も夢中に手を振って「タマちゃ~ん」と呼びかけ、グッズまで販売されて、『タマちゃん騒動』と言われました。
当時、そのタマちゃんに石投げつけるという悪ふざけをした中学生3人組がありました。
その現場を報道した女性キャスターが「あっ、見えました。・・・・・・中学生か高校生でしょうか。ひどいです。学生服姿の3人がタマちゃんに石を投げつけています」と涙声になる。
その中学生、やがて住民に囲まれて「お前ら、タマちゃんに謝れ!」と叱られ、神妙そうにしていました。

 

タマちゃんも、口蹄疫の疑いある牛や豚も同じ動物で、体の大きさも脳の大きさもそんなに変わるものではないでしょうに、かたや伝染病にかかる疑いあり、ということでばたばたと殺されていく。
一方は溺愛され、石を投げつけただけで悪人扱いされたりする。
この差別はどういうことでしょう。

 

そういえばもっと前に、カモに矢が刺さった痛々しい映像がテレビに映り、お茶の間の同情を誘ったこともありました。
それをテレビで見て「矢ガモかわいそう」と言いながら、ケンタッキーフライドチキンをほおばっていた自分を今にして思い出します。
動物愛護もそらぞらしくなってまいります。
これも【空言たわごと真実あることなし】の人間の実態といえます。

 

浦島太郎に見る偽善

 

親鸞聖人は当時の日本で優秀な人材の集う比叡山にあって【叡山の麒麟児(きりんじ)】と呼ばれた方で、「学問でも修行でも親鸞の右に出るものはないだろう」と評されました。
その親鸞聖人が「こころは蛇蠍(じゃかつ)のごとくなり」と告白されているのは強烈です。
さて今日はこのテーマの最後に、あの有名な『浦島太郎』を通して語ってみたいと思います。

 

猟師であった浦島太郎が浜へ行くと、カメが子供たちに虐待されています。
可哀想に思った彼は、子供たちに逃がしてやるように話しますが、子供たちは聞き入れません。
そこで彼はカメを買いとり、沖のほうに放してやりました。
後日、船を浮かべて漁をしているところへ、助けたカメがあらわれて、竜宮城の乙姫さまを紹介され、タイやヒラメの踊りを楽しみ、山海の珍味でもてなされ、思わぬ楽しみを味わうことになります。
十分楽しんだ浦島が帰宅しようとした際に、乙姫さまは玉手箱をお土産に渡します。
浦島太郎が故郷に戻ってみると、長い年月が経っていました。
何かさびしくなった浦島太郎は、絶対に開けてはなりません、と乙姫さまから言われていた玉手箱を開けてしまいます。
すると一瞬にして浦島太郎は、白髪の老翁になってしまいました。

 

さて、これがご存じ、浦島太郎のあらすじですが、皆さんの中にもこのおとぎ話を聞いて何か釈然としない気持ちになられた方も多いのではないでしょうか。
その釈然としないところは『なぜ良いことをした浦島太郎が最後にあんな目にあわねばならないのか』というところです。

 

ふつうの日本昔話なら、正直爺さんは宝をもらって、意地悪ばあさんはひどい目あう、といった勧善懲悪のストーリーです。
この日本昔話の黄金の方程式は、実は日本人の思想の根底にある仏教思想からきます。
このブログでも何度も紹介した下記の『因果の道理』です。

 

善因善果(良い行いをすれば幸せになれる)
悪因悪果(悪い行いは不幸を引き起こす)
自因自果(自分のまいたものは自分が刈り取らなければならない)

 

ではなぜこの浦島太郎だけが、この黄金の方程式から逸脱しているのだろう、と疑問を持たれた方は多いと思います。
それは絵本などに描かれる浦島太郎の姿に、そのヒントが隠されています。
わかられるでしょうか?

 

実はこの浦島太郎、漁師です。
浦島太郎の肩にかつがれているのは魚釣竿です。
この釣竿は今からも多くの魚の生命をうばう道具です。
もし浦島太郎が本当の善人ならば、まずその竿を折っていなければならないことになります。
一方で何千何万の魚を殺しながら、たまたま一つの生命を助けたからといって、いかにも慈悲深い善人にみせかけるのは、あまりにも見え透いた偽善です。

 

悪しか造っていない私たちが、善いことをしていると自惚れて、フワフワ浮いたかひょうたんで過ぎ去る一生の早さを教えたものが、この浦島太郎の物語です。
悪を造り続け、その自覚も無しに、パッと白煙が立ち登る一瞬の人生に驚いた時は、すでに人生の終着駅についているのです。

 

このように知らされると、子供のオトギ話と思っていたことも、実は真実の私の姿を教え、早く、本当の幸福を獲なさいよ、と教えられる仏教そのものとなります。

 

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菊谷隆太
こんにちは、菊谷隆太です。 東京、大阪、名古屋を中心に仏教講座を主催する仏教講師です。 専門は浄土真宗で、「教行信証」「歎異抄」を学び、皆さんにもお伝えしています。 このサイトは「どんな人にでも生きる意味がある」と宣言された親鸞という方の教えを知っていただきたいと思い、開設いたしました。

Comment

  1. アバター 菊地 英豊 より:

    浦島太郎の解説は 今までの釈然としない解釈を吹っ切ってくれた 素晴らしい説明解説でした。
    偽善ときずかず 善人と思い込んで毎日を自慢げに 浮かれて過ごす 浅はかさに気が付き
    更に奥深い真理を探ろうと精進する真剣さこそ 生きている価値を高め、厳しさの中で自分を
    磨き まん丸を目指して進む道がより深みを持った優しい人格形成に役立つものだと思います。 

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