どんな人にも生きる意味があると説かれた親鸞の教えとは

「常識」とは何か。「すべては空言だ」と説く仏教

 
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菊谷隆太
こんにちは、菊谷隆太です。 東京、大阪、名古屋を中心に仏教講座を主催する仏教講師です。 専門は浄土真宗で、「教行信証」「歎異抄」を学び、皆さんにもお伝えしています。 このサイトは「どんな人にでも生きる意味がある」と宣言された親鸞という方の教えを知っていただきたいと思い、開設いたしました。

私たちが正義、道徳、常識と呼んでいるものは、時代や場所によって大きく変わります。
親鸞聖人はそんなコロコロ変わる私たちの思想・信念・価値観「万のこと・皆もって、空言・たわごと・真実あることなし」と言われています。
今回は「常識」「道徳」「世間の評価」といわれるものの実態について話をいたします。

 

常識とは間違いないものか

 

日本人は子供の頃から「人様に迷惑をかけるようなことだけはするなよ」とか「世間さまに笑われるような人間にはなるなよ」とか、言われて育ちます。
理不尽なことでも年長者から「世間とはなぁ、そういうもんなんだ」と言われると、その主張が通ってしまうものです。日本人に特に強い、一種の「世間」信仰とでもいいましょうか。
イスラム教の国ならば、何かと「マーシャーアッラー(神の心のままに)」ですし、キリスト教ならば「エホバの神に従いなさい」ですが、そこへ行くと日本は「神様」でも「仏様」でもなく、「世間さま」に恥ずかしくないように、と教え込まれます。

 

しかし考えてみると、「世間」というのは一体何なのでしょうね。
「世間さま」「世間さま」って、さっきからうるさいけど、「世間さま」って、いったい誰なんだ、「世間さま」とやらを、ちょっとここに連れてこい、といったら、どうなるだろう。

 

日本の江戸時代の村落では、夜中密かに忍び込む「夜這い」が公然たるもので、忍び込まれる側の親も大目に見ましたが、もちろん今日こんなことをしたら「世間」が黙っていません。
即刻訴えられて刑務所です。

 

一切の行動の規範のように語られる「世間さま」ですが、それは結局、周りの大多数の人が間違いないと思っている意見のことであり、それは、時代や場所によって、コロコロと変化します。
間違いないものではありません。

 

 

常識とは変動するものと説く仏教

 

時代や場所が変わると、道徳や常識は大きく変わります。
たとえば「三国志」にこんなムチャクチャなエピソードがあります。
劉備玄徳の家臣が、主君劉備を接待するのに、自分の妻を殺して肉料理としてふるまったのです。
しかもそれを「三国志」の著者は美談として紹介し、後日その事実を知った劉備は、その主人の厚意に深く感謝したとあります。
さらに、この後にこの話を聞いた曹操もたいそう感動し、その主人に金を送ってます。
現代なら、カニバリズムの猟奇殺人、食べさせられたものもたまったもんじゃない、と激怒するところです。
(ちなみにこのエピソードは、あまりに現代の価値観と異なっているので、三国志の小説、マンガではカットされています)
自分の家族を殺して主君をもてなすのを美談にする価値観を持った人が、もしあなたの上司になったら?と考えたらいかがでしょう。パワーハラスメントどころではありません。

 

このように現代の私たちの感覚ではとんでもない極悪非道も、時代や場所が変われば美談として語られるということです。
逆に今日は常識、良識とされることも、その時代や国によっては、大変な重罪に問われることだってあるのです。

 

たとえば現在の日本では、主権国民が常識ですが、昭和の戦時中の日本では、天皇に忠義たることが国民の最高の美徳とされ、道徳の規範でした。
その当時、「主権在民」「労使平等」などと叫べば、たちまち「アカ」「非国民」とレッテルを貼られ、投獄、拷問でした。
政権が転覆すると憲法も変わり、収監されていた者も、一夜にして無罪放免、昨日までの権力者は糾弾され、断罪される国もあります。

 

欧米では親や教師から、自己主張の大切さを学びますが、日本では周りのことを考えた行動をとるよう、教育されます。
周りの空気の読めない人は日本ではひんしゅくを買い、見下げられますが、欧米では、自分の意見を持たない人、自己主張できない人が見下げられます。

 

このように人間の決めた憲法、法律、常識、モラルは、時代や場所によって大きく変動しますから、あてにならないものなのです。
親鸞聖人が「万のこと・皆もって、空事・たわごと・真実(まこと)あることなし」と、歎異抄に言われている「万のこと」の1ページ、といえましょう。

 

 

人の評価はあてになるか

 

自分へ対する人の評価を心を素直にしっかりと聞き、自分自身を見つめていくのは大切な心がけです。
しかし人の評価が、本当の自己を映し出す鏡となり得るかというと、仏教の答えは「否」です。
見る人の都合によって人の評価はコロコロと変わってしまうからです。

 

禅僧一休は、それをこう詠んでいます。
「今日ほめて 明日悪く言う 人の口 泣くも笑うも ウソの世の中」
今まで「いい人だ、すごい人だ」とほめていたと思ったら、何かあると一転、手のひらを返したように「悪い奴だ、追い出せ」とそしる、人の評価とはそういうものだとの、辛辣な歌です。

 

たとえば最近ならカルロス・ゴーン氏
約20年にわたって日産のトップに君臨してきた彼の逮捕・会長解任は世界に衝撃を与えました。
直ちに設けられた日産の西川社長は記者会見で「独断専行が目立ち、弊害は大きい」と述べました。
経営破綻の瀬戸際にあった日産を大胆なリストラでV字回復に導いた時は「カリスマ」ともてはやされ、その経営手腕は「迅速果断」と衆目を集めましたが今や一転「独裁」「私物化」「社員のイエスマン化」など散々です。

 

「迅速果断」か、「独断専行」か、果たしてゴーン氏の実像はどちらなのか。
結局は彼の、反対意見も押し切り、物事を素早く決断し、実行する姿が、上手くいっているときは「迅速果断」と評価され、上手くいかなくなると「独断専行」と批判された、ということなのでしょう。
もともと「独断専行」の人だったのが、都合がいいときは「迅速果断」に見えた、とも言えますし、常に「迅速果断」がモットーの人が、都合が悪くなると「独断専行」に見えてきた、とも言えます。

 

人の評価は常にこんなものです。
その人がいると自分にとって都合が悪い、本音を言えばいなくなってほしい、いわゆる嫌いな人の場合、だまっていれば「無愛想」「気遣いがない」とされ、しゃべれば「口が軽い」「おしゃべり」「無神経」とされ、礼節をわきまえてしゃべると「巧言」「へつらい」とされ、何かすれば、余計なことをしやがって、と言われ、しなければ、人にばかりさせる、と言われます。

 

逆にその人がいると自分にとって都合が良い人、いつもそばにいてほしい重宝な、いわゆる好きな人の場合、あらゆる言動が良く見えてきます。だまっていれば「謙虚」「落ち着きがある」とされ、しゃべれば「楽しい人」「積極的」「頭の回転が速い」とされ、礼節をわきまえてしゃべると「気遣いができる」「大人」とされ、何かすれば、やる気があると言われ、しなければ、着実である、と言われます。
一休の喝破したとおり、「泣くも笑うも ウソの世の中」です。

 

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