なぜ親鸞聖人は「権力者に近づくな」と言われたのか

親鸞聖人は権力者嫌いで知られます。
「権力者に近寄り、その力を借りて、仏法を伝えようなどと決して考えてはならない」と、お弟子に向けたお手紙でクギを刺されています。
なぜ親鸞聖人はそんなことを言われたのか。
それは親鸞聖人が権力者の実態をよく知っておられたからでしょう。
今回は権力者の実態についてお話しします。
権力者は恐ろしい
権力者に何も言えない世の中、少数意見を排除する世の中は、必ず悲劇が起きます。
悲劇の犠牲者は常に弱者です。
権力者は、力のない者の気持ちを察することができません。
利用することしか考えてないからです。
人は権力を持つと、豹変します。
秀吉も、毛沢東も、レーニンも、あれだけのことを成し遂げた人ですから「この人にならついていきたい」と多くの人を魅了する信念、才覚、努力など、類まれな人間的な魅力にあふれた人物だったと思います。
ところが権力を握り、思い通りに周りの人が動くようになり、自分の言動が誰にも咎められず、賞賛されることが多くなると、いつしか尊大になり、批判を絶対許せぬ体質になり、人の心にも無神経で、「残酷な人」に変貌してしまうのです。
どんな傑出した人物も、そうさせてしまう、怖ろしいものが「権力」です。
権力の恐ろしさを知って気を付け、人にまで諭している人も、権力を持てば、例外なく変わってしまいます。
権力者といっても人によるでしょう、と思われるかもしれませんが、これは「例外なく」です。
最初はそうでなくても、権力を持つと、人はそうなります。
自分の心をまじめに見ると分かると思います。
もし自分の思い通りになる世界ができたら、自分を悪く言う者の意見に寛容でいられるでしょうか。
それはなぜか。
「権力が人の本性をむき出しにさせるから」です。
私たち人間はみな、とても人には言えない恐ろしい本性を心の中に隠し持っています。
人の物でも自分の物にしたい心。
邪魔者は死んでくれたらいい、と思う心。
優れた人を見て、失敗してくれと願う心。
不幸な人を見て、クスクス笑う心。
そんな心が時に親、兄弟、友人にまで向きます。
しかしその本性を、とても口や態度には出せません。
口にすれば「お前、そんなことを思っていたのか」と皆からあきれられ、嫌われ、会社ならクビになり、家庭なら勘当や離婚だし、まともな社会生活を送っていけません。
願望をそのまま行動に移したら、これまた大変です。
たちまち窃盗や殺人などで刑務所に入れられます。
そこで本性を隠して、好かれるように、ほめられるように、生活しやすくなるように努めているのが、多かれ少なかれ、すべての人間の偽らざる姿でしょう。
一方、権力者は本性をむき出しにしても咎められません。
人の物も、自分に献上せよと迫ることもできる。
邪魔者は殺すことができ、嫌いな人を失敗させるように仕向けることもできる。
不幸な人を見て、クスクス笑っても、誰も不謹慎だと咎める人はいない、それどころか阿諛追従する者に囲まれるようになるので、私利私欲を押し通していてもそれを正義だと思い込んで突き進んでしまいます。
だから人間は権力をもつと、本性があらわになり、どんどん悪くなっていきます。
人のことを尊重しなくなり、その人の考えや仕事に敬意を持つことがなくなります。
自分の言うことを聞かない者を許せない気持ちが必ず増大します。
これは権力のもつ魔力といえましょう。
親鸞聖人はご自分の心を知っておられたからこそ、権力を持つことの恐ろしさをよくよく分かられたのでしょう。
権力者が恐ろしいのは、自分の思いが恐ろしいから
「権力」とは、「自分の思い通りにする力」のことです。
権力がない人は、自分の思い通りには事は運びません。
何かと周りからも反対され、数々の規制も受け、思った通りには行動できません。
ところが権力者のやることには、周りも悪く言わず、むしろ称賛され、進んで協力する人も多いので、思った通りにできます。
邪魔する法の規制があれば、それを改訂して、自分の望むことを実現させることもできるのが権力です。
思い通りにしたいと志すその人の「思い」が正義ならば、権力を持つのは良いことではないかとの主張もありますが、私たち人間の「思い」とは、「正義」と呼べるような、人に誇れる立派なものでしょうか。
人の物でも自分の物にしたい、邪魔者はいなくなってほしい、優れた人を見ると失敗してほしいと願い、不幸な人を見ると面白がる。
そんな醜い「思い」がうごめいているのではないでしょうか。
「いや、おれはそんな醜いことは微塵も思ってない。私利私欲は一切ない。100%正義を思う心しかない。だからオレに権力をくれ」と心底から言っている人がいたら、自分の醜い心に気付いてもいない人なのだから、自制する心もないでしょうし、余計そんな人に権力を与えるのは怖いです。
せめて己の醜い本性を見つめ、権力の魔力を知っており、危ないものを手にする覚悟のある人でないと、権力を持つ上の立場に立ってはならないでしょう。
なぜ親鸞聖人は権力者を警戒されたのか
「権力者に協力してもらい、仏法を伝えたらいいではないか」「権力者を使って伝えるくらいのバイタリティが必要だ」という人があります。
そんな人に親鸞聖人は「権力者に近寄り、その力を借りて、仏法を伝えようなどと決して考えてはならない」と諫められています。
なぜ親鸞聖人は、権力者に近づくことを戒められたのでしょうか。
それは、権力者を利用しようとする人は、ほぼ例外なく「ミイラとりがミイラになってしまう」からです。
今までの歴史がそれを証明しています。
権力者を利用して仏法を伝えようとした結果、どうなったか。
結局は権力者に利用されてしまいました。
世智に長け、権謀術数の世界で叩き上げてきた権力者の方が、人を利用することにかけては、何枚も上手です。
権力者を利用しているようで、実際は利用されてしまいます。
気付かぬまま、いつのまにか権力者に利用され、やがては、絶対曲げてはならない仏法の教えまでを、ねじ曲げてしまうのです。
奈良、平安時代の伝教や弘法がそうでした。
二人は世智にも長け、権力者に近づいて利用しようとしました。
しかし、やはり利用されてしまってます。
当時の仏教の各宗派は、貴族から財や土地の寄進を受けることを目当てに、あるいは優遇された既得権益を守ってもらうために、出世や病気治しなど、貴族の願望に応える加持祈祷に駆けずり回るようになります。
生死出離の道を求めて超然と生きるはずの仏教は、一握りの権力者の欲望を満たす呪術と成り下がっていきました。
伝教や弘法は、権力者を利用して仏法を伝えようとした結果、仏教をねじ曲げざるをえなくなり、曲げていきました。
利用しようとしたら、利用されたのです。
親鸞聖人が、権力者を嫌われ、私たちにも「近づくな」と戒めておられるのは、仏法を絶対に曲げてはならない、正しく伝えていかねばならない、という護法の精神からでした。
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