どんな人にも生きる意味があると説かれた親鸞の教えとは

仏教の見地からキリスト教の教えとの違いを語ってみた

2020/11/19
 
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菊谷隆太
こんにちは、菊谷隆太です。 東京、大阪、名古屋を中心に仏教講座を主催する仏教講師です。 専門は浄土真宗で、「教行信証」「歎異抄」を学び、皆さんにもお伝えしています。 このサイトは「どんな人にでも生きる意味がある」と宣言された親鸞という方の教えを知っていただきたいと思い、開設いたしました。

仏教の立場からキリスト教のおかしなところを語ってみました。
キリスト教の人にも読んでもらいたいし、仏教を学ぶ人にも読んでほしいと思います。
宗教をよく知らない人でも、仏教とキリスト教はこのように違うんだな、とわかっていただける材料の一つになると思います。

 

キリスト教は「生きる意味」をどう説くか、仏教の教えとの違い

 

キリスト教、イスラム教、ユダヤ教は、いずれもユダヤ民族の神話と歴史の書である「旧約聖書」をルーツとしており、唯一神にして万物の創造主とされる「ヤハウェ」を拝するのも一緒で、ひっくるめて「アブラハムの宗教」と称されます。
今日、アブラハムの宗教の信者は、世界の過半数を占め、世界最大の思想宗教です。

 

アブラハムの宗教では「人間は神によって造られた被造物である」と断定します。
その根拠は「この宇宙と人間という存在が、偶然の産物であるはずがない」であり、いかに宇宙が緻密で精巧かを、様々な事例で力説し、「どう?これが偶然なんてある?」と迫ります。

 

そしてまたこう言います。
「神は、意図があって人間を造った。神の被造物である人間の生まれてきた目的は、神が人間を造った意図を知って、初めて判明する」
これは、造られた人間の生きる目的を知っているのは造った神のみだ、という論理です。
この論理の補強材料として、キリスト教を説く者がよく使う例は「時計は時間を知るためにあり、車は人や物を運ぶためにある。作られたものには必ず、それを作った人の目的があるでしょ」というもの。

 

そしてここから、自殺者や殺人の多い暗い世相をクローズアップし「神を否定したから、生きる意味が感じられず、自殺したり、人を殺したりするんだ」と、「神を信じない」悲劇を力説します。
ここでも「人間が偶然の産物なら、存在の意味とか目的を問うことはできないよね」と、神を信じるか、唯物論か、二者択一の思想しなかいかのように話しを持っていきます。

 

今私が話したことは、キリスト教を語る人がかなり鉄板にしている話しの進め方ですから、キリスト教の話に触れた経験があれば、この展開の話はご存じの方も多いと思いますが、随所に突っ込みどころ満載です。

 

ちなみに仏教では、創造主を持ち出さず、すべては偶然の産物とも言わず、なおそれでいて揺るぎなき「生きる意味」があることを明かします。
まるで創造主の神か、一切は偶然の唯物論か、二元論に帰結しようとしていた人も、仏教を知られると、こんな物の見方があるのか、ときっと新鮮に感じられるのではないかと思います。

 

キリスト教と仏教の教えの「生き物」に対する考えの違い

 

キリスト教では、神が人間に不滅の魂を与えた、と教えます。
不滅の魂を持っているのは人間のみで、動物は魂がない、と教えるキリスト教の世界観では、動物の立ち位置は「エキストラ」であり、「人間の食物」です。
エホバの神は「動物を支配せよ」「動物はお前たちの食物だ」と、動物の家畜化や殺害にお墨付きを与えています。

 

17世紀の哲学者デカルトは、心で何かを感じたり、渇望したりするのは人間だけで、他の動物はロボットや自動販売機と同じで心を持たない自動機械だ、と述べています。
「なんてごう慢な」とあきれますが、これは別に珍解釈でも何でもなく、キリスト教の世界観が基軸だったデカルトの時代のヨーロッパでは広く受け入れられた考えでした。

 

人類がこんなごう慢な思想を身につけたのは、いったいいつ頃からなのでしょう。
まだ狩猟採集民だった時代には、自分だけが心を持っており、動物には心がない、など、ちょっと思えることではなかったはずです。
人類の居住区は膨大な数の野生生物に囲まれており、それぞれの動物の欲求を理解し、尊重しなければ、とても生存できなかったからです。
イノシシが今何を望んでいるのか、オオカミはどう考えているか、絶えず問い続けていないと、イノシシを狩ることもできなければ、オオカミから逃れることもできない時代でした。

 

それが人間は文明の発展と共に、他の動物より格段に強くなり、家畜として管理し、生殺与奪も人間の思いのままとなり、動物界の圧倒的な権力者、独裁者の地位に君臨するようになったので、こんなごう慢な思想を振りかざすようになったのだろうなと思います。

 

以下はキリスト教と仏教の殺生罪についての思想の違いを述べたものです。
キリスト教と仏教の殺生についての思想の違いについて

キリスト教と仏教の教えの「運命」に対する考えの違い

 

人間は何千年にもわたって、あらゆる自然現象を「神の力」と説明してきました。
雷を落とすのは「神」、雨を降らせるのは「神」、地球に生命を誕生させたのも「神」。
ところが過去数世紀の間で、科学者たちは落雷や降雨や生命の起源について「神の力」よりも、はるかに説得力のある詳細な説明をやってのけました。
その結果、今日では、専門家の査読がある科学雑誌に載る論文に、神の存在を真剣に受け止めている者は一つもありません。

 

これは科学だけでなく、学問の発展と共に、かつて「神」の影響下だったあらゆるフィールドは確実に狭まっていきました。
卑弥呼の時代は政策を決定するとき、亀の甲羅を焼いてひびが入った角度から「ご神託」として国の方向を決めていましたが、今日もし首相が、「亀の甲羅のご神託があったから消費税を上げます」などと言ったら大変なことになります。
モンゴル帝国に日本が侵略されなかったのは、神が味方に付いていたからだと論ずる歴史学者はいませんし、バブル崩壊を神のせいにする経済学者もないし、神を怒らせたから火山が爆発したと主張する地質学者もありません。

 

ところが学問が発達した今日でも「神の力でそうなった」と主張して通用する分野があるのです。
それは何か。
ズバリ「運命」についてです。
政治学も歴史学も地質学も神を持ち出しませんが、こと「運命」に関しては、今も神の領域です。
驚くべき運命に遭遇すると、キリスト教徒は「オーマイガッ」だし、イスラム教徒は、運も不運も「イッシュ・アッラー(神の思し召し)」が口癖です。
日本人も悪いことが重なると「お祓いしてもらおうか」「家の向きが先祖を悲しませているのではないか」「守護霊が弱いのではないか」など思う人はあるのではないでしょうか。

 

第二次世界大戦の敗戦は神のせいにはしませんが、その戦争でなぜ我が子は死んだのか、となると、神や祟りを持ちだしてきます。
地震を神の力とはいいませんが、瓦礫の下から九死に一生を得たのは神の恩寵といいます。
いわゆる「運がよかった」あるいは「運が悪かった」と使われる「運命」の分野は、人智で計算の立たないフィールドであり、そういうことになると、今も「神」「霊気」「悪魔」「方角」「日の善し悪し」など、まことしやかに語られ、聞く方も真剣に受け止めてしまっています。

 

では仏教を説かれたお釈迦様、運命の原因をどう説かれているのでしょうか。
釈迦は、「私たちの運命」を引き起こすのは、「神の力」でも「霊のタタリ」でも「悪魔の呪い」でも「方角」でも「日の善し悪し」でもない、一切は自己の行い(カルマ)が自己の運命を引き起こすのだ、と一貫して教えられています。
そこに万に一つも例外を認めません。

 

キリスト教という教えの存在理由を仏教から語る

 

近年、アメリカ人の教会離れが進み、特に若者を中心とした“キリスト教離れ”が甚だしく、クリスチャン人口は激減しています。
一方、青少年による銃やドラック、窃盗などの犯罪は年々増加しており、この治安の乱れは、キリスト教の信仰が衰退し、神を信じなくなったからだと信じているアメリカ人は多くいます。
アメリカ南部の田舎の州に多い「古き良きアメリカ」を懐かしむ人たちです。

 

彼らは、教育の場で進化論を教えるようになってから、治安が悪くなったと主張し、聖書の教えが教育の土台となっていたかつての教育が望ましいと考えます。
「青少年は、どんな悪事を働いても神の罰があるとは思っていない、誠実に生きれば神の恩恵を受けるとも思っていない、警察にばれなければ何をやってもいいと思っている。今こそキリスト教の教育が必要だ」と主張するのですが、こんな声を聞いて思い出した仏典のエピソードがあります。

 

あるとき第六天魔王が、人々を集めて「お前達は私がつくってやったのだから、言うことを聞けば幸せにしてやるし、背けば不幸にしてやるぞ」と説法していました。
お釈迦さまは、第六天魔王を呼んで、「お前は何というでたらめをいうのだ。この世の中は誰のつくったものでもないだろう」といわれると、第六天魔王は「いや真理はそうでしょうが、こうでも言っておかないと、こいつらは何をするか分りませんからね」と答えた。

 

保守派のアメリカ人のいう、キリスト教の教育論も、取りようによっては、この仏典のエピソード同様、神がいるかどうかは二の次、三の次、国をまとめ、国民に規律と道徳を持たせるのにキリスト教が必要、という主張にも取られかねないのですが、それでいいんでしょうか。

 

また彼らの主張の論拠は、キリスト教信仰がなくなったことと、青少年の犯罪が多発したことが比例している、相関関係がある、との思いからきているのですが、これもどうかと首をかしげます。
もしそうなら、キリスト教の盛んな中南米の犯罪率の高さ、またキリスト教信者がわずか1%に満たない日本の治安の良さは説明つかないからです。

 

B・ラッセルのキリスト教批判

 

世界の三大幸福論で有名な哲学者、B・ラッセルは、敬虔なキリスト教徒の家に生まれ育ちましたが、やがて信仰を捨てるに至ります。
彼のキリスト教批判は辛らつですが、中でもキリスト教の神の存在についていくつも理性的に論じています。
そのいくつかを以前、このメルマガでも紹介したことがあります。

 

ラッセルは聖書に散見するイエス・キリストの言動にも言及しています。

 

自分の説教に耳を傾けようとしない人々に対して、繰り返し復讐的な怒りをぶちまけている。
それは人間以外の植物や動物に対してもぶちまけられている。
例えばイエスがあるとき空腹になって、遠くから青々と繁った木を見つけて近づくと、食べうる果実が全くないイチジクだった。それはまだ結実の時期ではないときだったのに、苛立ったイエスはその木を呪った、とか、ガラデナの地で多数いた豚の群れにイエスがある不快を感じ、その群れに悪魔たちを放ったので、豚は山を駆け下り、ことごとく海におぼれ死んでしまった、と聖書に書かれている。

 

このような痛烈なキリスト教批判は、当然ながらアメリカで大変な反感を買い、教授の地位を追われ、解雇されています。
終生、反骨の人生を送った人でした。

 

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