どんな人にも生きる意味があると説かれた親鸞の教えとは

『虚仮』とは「嘘偽り」という意味。親鸞聖人は『虚仮不実』といわれている

 
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菊谷隆太
こんにちは、菊谷隆太です。 東京、大阪、名古屋を中心に仏教講座を主催する仏教講師です。 専門は浄土真宗で、「教行信証」「歎異抄」を学び、皆さんにもお伝えしています。 このサイトは「どんな人にでも生きる意味がある」と宣言された親鸞という方の教えを知っていただきたいと思い、開設いたしました。

「虚仮」とは「嘘偽り」ということで、歎異抄には「万のこと皆もって、そらごと・たわごと・まことあることなし」とそれを説かれます。
親鸞聖人は世の中の一切は「そらごと」「たわごと」「虚仮(うそ偽り)」であり、「何一つまことはない」と、一見反社会的な、常識を逸脱したことをいわれていますが、「虚仮」とはいったいどういうことなのか、いくつかの事例を通してお話ししてまいります。

 

情や慈悲に虚仮(嘘偽り)が隠れている

 

和牛の高級ブランド「松坂牛」は、美味しい霜降り肉にするために、畜産農家が牛にビールを飲ませるのは、よく知られています。
他の生産地でも、美味しい牛肉にするために、有機で健康的な飼料にしたり、ブラシをかけたり、牛がストレスを感じない環境で育てたりと、お金と手間をかけることを惜しみません。
牛に名前をつけ、我が子のように呼びかけては、顔を撫でたりする農家の人の姿を見ると、一見、牛をかわいがる動物愛護者に見えますが、やがてその牛は屠殺業者に買われ、その時、肉に少しでも高い値がつくようにするためのビールであり、ブラシであり、飼料ですから、牛がかわいいから、ではなく、自分の財布がかわいいからではないのか、と言われても仕方ないでしょう。

 

宮崎県の狂牛病騒動の際、狂牛病の疑いありということで、行政により、何千頭の牛が殺処分されたことがありました。
牛を飼育している畜産農家の男性が「あんまりだよ、別に狂牛病になったわけでもない。ただ疑いがあるというだけで殺すなんて、牛がかわいそうだよ」と目を赤くして、声を震わせていた場面をテレビで見たことがあります。
そのご本人の様子からも演技ではなく、本当に牛をかわいそうに思っているのはわかりますが、その涙も、純粋に牛がかわいそうなだけで流したとは思えません。
なぜならその牛はたとえ狂牛病の嫌疑がなくても、早晩、屠殺され、食肉となっていたのですから。
その涙には、自分の財布がかわいそうで流したものが多分に含まれているのも、これまた否めないでしょう。

 

このように人間の情や慈悲心は清らかに見えますが、心の底には、恐ろしい欲や怒りの心が見え隠れしています。
ただ普段それに気付かないで過ごしているだけです。

 

 

やるもやらぬも『虚仮不実』(嘘偽り)

 

こう話をすると、こういうご意見、ご質問をいただきます。
「人間が生きていく上で、何かを食べなくて生きていけるのですか?どうして、牛を食べることがいけないのですか?あなたは、何も食べないのですか?」
私が、畜産業の職業や肉食をする人を批判し、オレはそんな悪いことをする人間ではない、と一段高いところから物を言ったように思われたとしたら、言葉足らずを反省します。
私は親鸞聖人の教えを伝える浄土真宗の講師です。
肉食妻帯された親鸞聖人を尊敬し、猟師に「猟漁りをせよ」と親しく語られる蓮如上人を敬慕する者の一人です。
私自身、肉食妻帯をしていますから、批判できるはずありませんし、決して畜産業の人を糾弾するつもりで書いたのではありません。
今回のブログのテーマである「虚仮(こけ)」とは何か、明らかにするのが目的です。

 

もう一つ、「虚仮」の一例を示します。
もう二十年前くらいでしょうか、矢ガモ騒動を覚えておられる方も多いと思います。
矢が刺さったままのカモがいるとマスコミに報じられ、その痛々しい姿がお茶の間の同情を誘ったこともありました。
公園の周辺には「矢ガモ」を一目見ようと、連日300人程が押し寄せました。
住民からの「助けてあげて」と言う声は日に日に高まり、都の職員が救助したという騒動です。
一連の騒動をテレビで見て「矢ガモかわいそう」とか、「矢ガモ本当に良かったね」と言いながら、鴨鍋や焼き鳥を食べたりしているのですから、こんな人間の動物愛護の騒動も「虚仮」「そらごと」の一ページといえましょう。

 

親鸞聖人はこんな「そらごと」「たわごと」をご自身の中に発見され

「虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」
“ウソ偽りのこの身には、清らかな心は全くない”

と懺悔されています。

 

 

見たくない虚仮(嘘偽り)の心

 

以下は仏教講座に来た大学生の青年が語ってくれたことですが、その話が赤裸々だったのと、よく心を見つめているなあと感心したので、心に残っています。
「彼女いない歴=自分の年齢」だった当時の彼が、人生初デートで、彼女とご飯を食べた時、美味しそうに笑顔で食べる彼女に「この笑顔をずっと守っていきたい」と幸せな気分になったそうです。
同時に今まで自分のことしか考えてこなかった冷たい自分にも、他人を守りたいという、こんなあったかい心もあったんだ、とうれしくなり、そういう心を教えてくれた彼女に、感謝一杯になったそうです。

 

それからいろいろあって次第にうまくいかなくなり、別れたそうなのですが、しばらくしてその彼女は、別の男性と付き合い始め、二人が仲良くしている場面が目に入ると、腹が立ったと言っていました。
「何を楽しそうにしてんだ。なんでそんな笑顔になれるんだ」と彼女の笑顔に無性に腹が立ったそうです。

 

以前付き合っていた時は「笑顔でいる彼女を守りたい、不幸にさせたくない」という温かい心が自分にあった、と思っていたのが、今では笑顔で幸せそうにしている姿が腹立たしい、としたらそれはなんとしたことか。。。
笑顔を守りたいという純粋な温かい心があるなら、誰と付き合っていても彼女が笑顔なら微笑んでおれるはず。
ところが自分以外の誰かとのデートの時は一転笑顔でいると怒りが出てくる。
むしろつまらなそうにしていてほしかった、不満顔でいてほしかった、と思うのですから。
本当にあの時思ったのは、彼女の幸せを守りたいという温かい心だったのか?
結局自分とデートしている状態の、彼女の笑顔を守りたい、ということではなかったか?
そんな心に気付いたそうです。

 

私にもこんなことがありました。
中学時代、塾の行き帰りに、自転車で当時好きだった人の家の前を通っていたのですが、特に帰りの夜道でよく空想していたことがありました。
「彼女が誰かにからまれていないかなぁ、そうしたら、たとえボコボコにされてもいいから、彼女を助けに飛び込んでいくんだがなあ」とふと漫画なんかにありがちのシーンを想像していたのです。
今にして思えば、本当に彼女を守りたい心があるなら、からまれているシチュエーションをひそかに空想すること自体、彼女に失礼な話しです。
どんな心でそんな想像をしていたのか、赤面するばかりです。

 

正義を語る政治家や精力的な人権運動家の主張は立派で、説いている理屈は正論で、その活動にも意義があり、その意見にも耳を傾ける価値がある、としても、その人にそれを言わしめている動機の本当に深いところには、おそらくなりふり構わぬ嫉妬心や競争心、あるいは非常に個人的な劣等感など、さまざまな何かがあるのでしょう。
それが全てとは言いませんが、その人を動かしているエンジンの一つであり、それはおそらく本人さえも自覚していないものであったりします。

 

私たちは自分の心なのに、よく分かっていないものがたくさんあり、実は分かっている自分の心の方が氷山の一角だと、仏教では説かれます。
私たちの心の中の温かい心や正義を守りたいという心も、その実態を深く見つめていくと、そこには誰にも言えないような恐ろしい心が見え隠れするのに気づくのではないでしょうか。
親鸞聖人は、仏教を聞き、法の鏡に照らされたご自身の姿を『虚仮不実のわが身にて清浄の心もさらになし』“ウソ偽りのこの身には、清らかな心は全くない”と悲痛な告白されています。

 

 

浦島太郎の結末はなぜああなのか

 

仏教で教えられる「虚仮(こけ)」について回を重ねました。
「自分のことくらい自分が一番よく知ってるさ」とみな思っていますが、実は分かっているのは、自分のほんの一部であり、他人も自分も知らない本性が隠れていると仏教では説かれています。

 

このテーマの最後に、あの有名な『浦島太郎』を通して語ってみたいと思います。
猟師の浦島太郎が浜へ行くと、カメが子供たちに虐待されています。
可哀想に思った彼は、子供たちに動物愛護の精神を話しますが、子供たちは聞き入れません。
そこで彼はカメを買いとり、沖のほうに放してやりました。
いじめられる動物をかわいそうだという人はいますが、実際に身銭を切ってでも助けようとする人は少ないですから、彼のしたことは誰にでもできることではありません。

 

後日、浦島太郎が船を浮かべて漁をしているところへ助けたカメがあらわれて、竜宮城の乙姫さまを紹介され、タイやヒラメの踊りを楽しみ、山海の珍味でもてなされ、思わぬ楽しみを味わうことになります。
十分楽しんだ浦島が帰宅しようとした際に乙姫さまは玉手箱をお土産に渡します。
浦島太郎が故郷に戻ってみると、長い年月が経っていました。
何かさびしくなった浦島太郎は、絶対に開けてはなりません、と乙姫さまから言われていたのに、玉手箱を開きます。
一瞬にして浦島太郎は、白髪の老翁になってしまいました。

 

さて、これがおなじみの浦島太郎のあらすじですが、皆さんの中にもこのおとぎ話を聞いて何か釈然とせぬ気持ちになられた方も多いのではないでしょうか。
その釈然としないところは『なぜ良いことをした浦島太郎があんな結末にあわねばならなかったのか』というところです。
ふつうの日本昔話なら、正直爺さんは宝をもらい、意地悪ばあさんはひどい目に遭う、勧善懲悪のストーリーです。
この日本昔話の黄金の方程式は、実は日本人の思想の根底にある仏教思想からきます。
このメルマガ、日記でも何度も紹介した

善因善果(良い行いをすれば幸せになれる)
悪因悪果(悪い行いは不幸を引き起こす)
自因自果(自分のまいたものは自分が刈り取らねばならない)

の因果の道理です。

 

では、なぜこの浦島太郎だけは、この黄金の方程式から逸脱しているのでしょうか。
実は絵本に書かれているおなじみの浦島太郎の姿にそのヒントがあります。
浦島太郎は漁師の格好をしています。
彼の肩にかつがれているのは魚釣竿です。
この釣竿は今からも多くの魚の生命をうばう道具で、浦島太郎が本当に動物愛護の善人ならば、まずその竿を折らねばならないことになります。

 

一方で何千何万の魚を殺しながら、たまたま一つのカメの生命を助けたからといって、いかにも慈悲深い善人にみせかけるのは、あまりにも見え透いた偽善といえます。
悪しか造っていない私たちが、善いことをしていると自惚れて、自惚れて過ぎ去る一生の早さを教えたものが、この浦島太郎の物語なのです。
悪を造り続け、その自覚も無しに、パッと白煙が立ち登る一瞬の人生に驚いた時は、すでに人生の終着駅についているのです。

 

このように知らされると、子供のオトギ話と思っていたことも、「真実の私の姿を知り、早く本当の幸福を獲なさいよ」と教えられる仏教そのものになるのです。

 

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