新型コロナウィルス問題を仏教の視点で考察してみた

世界中、コロナウィルスの感染が止まりません。
各界の人たちがこの度のコロナ騒動にさまざまな意見を発信していますが、私は仏教講師ですから、仏教を学んだ者しか言えない視点で論じなければと思い、書いてみました。
コロナウィルス問題の本質にメスを入れる
世界中に激震を走らせている新型コロナウィルス。
今年始まるときにこんな事態を誰が想像し得たでしょうか。
オリンピックの観客抽選あたるかなと、やきもきする人はあっても、延期を憂う人はなかったに違いない。
いつ何が起きるかわからぬ「火宅無常の世界」を改めて思い知らされます。
今回のコロナ騒動では「お湯を飲むと菌が死ぬ」といった情報のSNS拡散とか、トイレットペーパーの買い占め騒動とか、デマ情報に振り回される現代社会の危うさを改めて知らされます。
人間は時間が経つと情報自体は覚えていても、「どこから得たか」は忘れてしまいます。
新聞などの世界では「ウラをとる」との言葉もあるように情報源が確かか、細心の注意を払いますが、日常生活の会話では、けっこういい加減なものです。
特に不安が強い状態での情報は、感情的に正しいと判断してしまう傾向が人間にはあるようです。
さてここで考えてみたいのは、なぜこのたびのコロナウィルスのような時に、私たちはかくも不安になり、大騒ぎするのでしょうか。
実は人間が激しく問題視し、感情的になる諸問題の根底に「死」があります。
思えばこのたびのコロナ騒動とて、感染者で死亡する人が出てきているので世界中が大問題にしているのであり、水虫のような死なない感染症ならこんな大騒ぎはなかったはずです。
致死率が高いから、オリンピックが延期になるほど、世界中は問題にしているのです。
他にも人類が恐怖し、対策を講じようとしている数々の諸問題を挙げてみてください。
癌、エイズ、北朝鮮の核ミサイル、南海トラフ地震、世界恐慌、脳梗塞、原発事故、テロ、通り魔……
これらの共通項は何でしょうか。
ぼーっと浮かび上がって見えてくるのは「死」です。
人間が慌てふためいているのは、本当は津波や放射能ではなく、「死」なのです。
ただ「死」そのものは圧倒的で、得体の知れない恐怖なので、そこには目を背けるしかありません。
解決できようもないことですから。
「そんなこと暗くなるから考えないようにするしかない」とかたくなに忘れるようにしています。
しかし100%訪れる、刻一刻と近づいてくる不安はいかんともしがたく、その不安を少しでも軽減すべく、癌とかコロナだの核ミサイルだの、死にオブラートをかぶせたものと対決している、のが人間の営みといえるのです。
コロナウィルスという見えない敵に立ち向かう世界、はたして勝利はあるか
アメリカ、ヨーロッパでの新型コロナウィルスの蔓延が深刻です。
メルケル首相が国民に向けて切迫したメッセージを出しました。
「東西ドイツ統一以来、いいえ、第二次世界大戦以来、我が国においてこれほどまでに一致団結を要する挑戦はなかったのです」
G7首脳による緊急テレビ会議がなされ、各国の科学者は薬品とワクチンを発見できるよう研究に没頭し、世界はウィルスという見えない敵に勝利しようと現在死力を尽くしています。
しかしたとえ薬品とワクチンが開発されてこの度の騒動が収束に向かっても、ウィルスはコロナだけでなく、いったん流行すれば、今日のグローバル化した世界において致命的なダメージをもたらすことは明確になったので、今後こうなる前にいかに食い止めるか、対策が求められます。
さらにいえば世の中に私たちの生命と生活を脅かす深刻な問題はコロナだけではありません。
地球温暖化、世界恐慌、核ミサイル、地震、噴火、癌、エイズ、脳梗塞、原発事故、テロ、通り魔……
覚如上人はこう言われています。
死の縁無量なり、
病におかされて死する者もあり、
剣にあたりて死する者もあり、
水に溺れて死する者もあり、
火に焼けて死する者あり、
乃至寢死する者もあり、
酒狂して死するたぐひあり(執持鈔)
死ぬ縁、きっかけは無限とある、と教えられます。
「病におかされて死する者もあり」
これは病死する人のこと。
コロナウィルスで死ぬ人はここに入りますし、がんや脳梗塞、心疾患で死ぬ人もこれです。
「剣にあたりて死する者もあり」
刀で斬られて死ぬ人のことです。
今なら通り魔に刺されて死ぬような人のことです。
「水に溺れて死する者もあり」
津波などの水害で死んでいく人、風呂場で意識を失って溺死する人も多くあります。
「火に焼けて死する者あり」
火事で火や煙に巻き込まれて死ぬ人です。
「乃至寢死する者もあり」
昨夜、今日はひどく疲れた、と早めに休んだ主人が朝になっても起きてこない。
おかしいなと起こしに行ったら、冷たくなっていた、というのもあります。
「酒狂して死するたぐひあり」
急性アルコール中毒で意識を失い、救急車で運ばれ、帰らぬ人となる人もあります。
ここなら安心だというところはどこにもありません。
「死の縁無量」です。
無限とある死の縁がいつふりかかるか、誰にも分かりません。
だから「更にのがるべきにあらず」、絶対に逃れられないのだと教えられています。
新型コロナから逃れることはできても、あるいは核戦争やがんや震災から逃れることができても、色替え、形を変え、必ず死は忍び寄ってきます。
ならば人間にとって真の一大事は「必ず死なねばならない人間存在」そのものではないか、と仏教は説き明かすのです。
新型コロナウィルスのような疫病に仏教はどう論じるか
コロナウィルス感染拡大で世界中が大騒ぎの今、親鸞聖人の教えを学ぶ私が思い返すのが、蓮如上人の「疫癘(えきれい)」のお手紙です。
当時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。
これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず。
生れはじめしよりして定まれる定業なり。
さのみ深く驚くまじきことなり
ここで蓮如上人が「疫癘」といわれているのは、疫病のことです。
応仁の乱で京の町が焼け野原になり、飢饉、疫病が大流行した延徳4年6月に、その京都に住まいしておられた蓮如上人が書かれたお手紙の一節です。
この年の7月、疫病を理由に元号が明応に改元されているので、よほどひどい疫病の流行だったと想像できます。
しかもその頃の疫病といえば、そもそもウィルスが原因とも分かっていなかった時代で、薬も治療法もなく、感染しないための対策もわからず、加えて当時の疫病は天然痘とかペストとかコレラとか、今のコロナとは比較にならないものすごい致死率で、流行すれば5人家族の2人が死ぬ、といった有様だったのですから、今のコロナでみなが感じている不安よりずっと深刻だったと思います。
多くの人は「大変だ、大変だ」と、家に閉じこもって恐れおののいていたことでしょう。
その大騒動のさなかに、蓮如上人は「さのみ深く驚くまじきことなり」“そんなに深く驚くな”と書かれているのですから強烈です。
なぜ蓮如上人はこのように言われたのでしょうか。
続いて上人はその理由を「これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず」。
“疫病で初めて死ぬことになったのではなかろう”と言われています。
「疫病だぞ、かかったら死ぬぞ、死ぬぞ」と慌てふためく人たちに「疫病で初めて死ぬことになったのではなかろうに。疫病にかからなくても死ぬんだぞ」と言われ、さらに「生れはじめしよりして定まれる定業なり」“死ぬことはもうハッキリしているんだ、生れたときから100%決まっているんだ”と諭されています。
生あるものは必ず死に帰す、100%死ななければならない、しかもそれはいつ何時降りかかるか分からぬものだ、と今までどれだけお前たちに説法してきたか、コロナウィルスで初めて分かったことではなかろう、一日も早く生死の一大事の解決を急げ、と言ってきたことをどう聞いてきたのか、との蓮如上人のお手紙です。
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Comment
今にあった、適した、説法だと思います。
ありがとうございました。
ありがとうございます!