どんな人にも生きる意味があると説かれた親鸞の教えとは

仏教の「乞食(こつじき)行」と「乞食(こじき)」。読み方が違うと、意味が全く違う

2020/11/19
 
この記事を書いている人 - WRITER -
菊谷隆太
こんにちは、菊谷隆太です。 東京、大阪、名古屋を中心に仏教講座を主催する仏教講師です。 専門は浄土真宗で、「教行信証」「歎異抄」を学び、皆さんにもお伝えしています。 このサイトは「どんな人にでも生きる意味がある」と宣言された親鸞という方の教えを知っていただきたいと思い、開設いたしました。

 

仏教の「乞食行(こつじきぎょう)」とこじきの意味は全く違う

 

仏教で乞食(こつじき)という言葉があります。
『乞食行』という仏道修行のひとつで、『托鉢(たくはつ)』とも言われます。
鉢を持って僧侶が家々を回り、食や物を乞う行のことです。
お釈迦さまは「仏法を説く人に布施することは大きな功徳になりますよ」と教えられ、お釈迦さまご自身も、少しでも人々に善い種まきをさせようと、足にかけて各家々を回られています。

 

お釈迦さまは物や金、食べ物が欲しくて、一軒一軒訪ねられたのではありませんでした。
王や富豪の布施を受けているお釈迦さまに、物質的に不足はありません。
ひとえに人々に善根功徳を励ませ、幸せに導くためになされたのです。

 

しかもお釈迦さまは、自分のことを尊敬していた人の家だけを選んで、回られたのではありません。
お釈迦さまを何とも思ってなかった人にも、あるいはお釈迦さまに悪意や敵意を持っていた人の家にも、相手を選ばず、戸口の前に立たれました。
冷ややかな目で見られたり、罵倒されることも多かったことと思います。
それでも黙々と、托鉢を続けられたのです。
それは決して、自分が欲しくて、くれくれと言われたのではありませんでした。
常に相手の幸せを念じてなされたことでした。

 

僧侶たる者、仏弟子を自認する者は、釈迦の御跡を慕い、同じ道を進ませていただきたいものです。

 

乞食(こつじき)と乞食(こじき)、読み方が違うと意味はどう変わるか

 

欲が深く、自分の持ってるものは、お金でも物でも、人に渡したくないのが私たちです。
そういう人相手に、布施の尊さを教えるのが仏の教えであり、布施をする機会を提供するのが、乞食(こつじき)であり、出家の者がする仏道修行のひとつです。

 

乞食(こつじき)という字は、今日では(こじき)と読みます。
こじきとこつじき、字は『乞食』と一緒ですが、読み方が違えばその意味はガラッと違います。
「こじき」と書く場合は、何とかお金貰わないと食べるものがない、と自分のことだけを考えている姿です。
一方「こつじき」と読めば、人々に布施の心をおこさせ、布施の行を実践させ、善導していく僧侶の使命を果たす『乞食行(こつじきぎょう)』です。
形は同じでも、自分が食べ物やお金が欲しくてそうしたならば、それは(こじき)です。
仏縁を結んでほしい、との心からの行ならば、それは(こつじき)です。
僧侶は、乞食(こじき)ではなく、乞食(こつじき)でなければならないと、深く心に銘記しなければなりません。

 

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