どんな人にも生きる意味があると説かれた親鸞の教えとは

幸福とは何だろうと考えさせられる仏教

2020/11/19
 
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菊谷隆太
こんにちは、菊谷隆太です。 東京、大阪、名古屋を中心に仏教講座を主催する仏教講師です。 専門は浄土真宗で、「教行信証」「歎異抄」を学び、皆さんにもお伝えしています。 このサイトは「どんな人にでも生きる意味がある」と宣言された親鸞という方の教えを知っていただきたいと思い、開設いたしました。

仏教に説かれている幸福とはどんなことなのか、今回は明らかにします。
お釈迦様の説かれている幸福は、私たちがふだんこれがあったら幸福だろう、と思っているものと大きく違います。どう違うのか、お話しいたします。

 

幸福とは何か、幸福感との違いとは

 

今の日本人に「あなたは幸福ですか?」と問うと、多くの人が「まあまあ幸福です」と答えます。
「健康だし、正社員だし、妻子も元気だし、そうでない中、頑張っている人もたくさんいるのに、これで不幸だなんて言ったら罰が当たるだろう」とでも思うのか「まあまあ幸福です」と返答します。
ところが一方で、おもしろいことに「あなたは日々の生活に幸福感ありますか」と、ちょっと問い方を変えるだけで「幸福感。。。あまり感じていないですねえ」という返答になると言うのです。幸福かと問われれば「まあまあ」。
しかし幸福感はあるか、といわれると「ないなぁ」。
「幸福」と「幸福感」(感)の一字が増えると、反応が変わってしまうと言うのだから面白いものです。

 

私の住む富山県を例に取ってみても、正規雇用者比率、持ち家比率、生活、教育分野での総合ポイントで算出する幸福度指数ランキングが全国3位の「幸福」な県ですが、一方で自殺率は都道府県別ランキング8位なので「幸福感」には問題ありそうです。

 

日本全体がそもそもそうです。
1958年から1990年までの高度経済成長期で、日本人の平均実質所得は5倍に増えました。
ところが1990年の国民の幸福度調査によると、50年代の日本人の主観的幸福度よりもやや低いという結果でした。
5倍の収入も幸せをもたらしてはくれなかったのです。
物質的な豊かさが幸福感に全く比例しないことを戦後の日本人は身をもって証明した、といえます。
何をどうすれば私たちは幸福感を味わえるのか、何をもって幸福といったらいいのか、幸福の所在がわからなくなりますね。

 

フランクルの『夜と霧』に見る幸福とは

 

フランクルの『夜と霧』は、著者が体験した壮絶なアウシュビッツ収容所での生活が綴られ、読む人を圧倒します。
食事は日に一回与えられる水としかいえないようなスープ、人をバカにしたようなちっぽけなパン、それに「おまけ」は日によって違い、二十グラムのマーガリンだったり、粗悪なソーセージ一切れだったり、チーズのかけらだったりする、それでいて極寒の野外での重労働を課せられ、栄養失調でバタバタと倒れていく、室内の天井からつららがぶら下がる火の気のない収容棟で寝起きし、働けなくなるとガス室に送られる、気が狂う者も続出する、そんな言語を絶するような収容所生活の日常を、心理学者であるフランクルが自身や周りの収容者の心理分析をしながら語っていく内容です。

 

それでも少数の人が生き延びることができたのはどうしてだったのか。
それは「いつか解放されて家に帰れる」という未来への希望でした。
収容所である年、クリスマスから新年の間、かつてない大量の死者を出したことがありました。
労働条件、食糧事情、気候の変化、伝染病などは例年と変わることもないのになぜ大量死したのか、管理するドイツ兵は原因がわからず首をかしげましたが、収容されていた者たちは全員その原因をよく知っていました。
それは「生きる明かりを失ったから」だったのです。

 

なぜかその年の夏頃から収容者たちの間で「クリスマスに家に帰れる」といううわさが流れました。
信憑性のないただの噂がいつしか彼らの生きる明かりになっていき、重労働のあと、収容棟で交わされる囚人の会話は、解放されたらどうするか、の話ばかりとなり、合い言葉は「クリスマスまで死ぬな」となっていきました。
ところがクリスマスがやってきて、過ぎ去っても、何らいつもと変わらぬ重労働の日々、収容所は何も変わらない。
彼らは噂がデマであったことを知ってしまい、落胆と失望で生きる気力を失い、バタバタと倒れていったのです。

 

このエピソードは、人間がいかに『希望』を生きる力としているかを示しています。
スープも毛布も生きる力に違いないですが、それ以上に『希望』こそ大切なのです。
どんな劣悪な環境でも(こんな収容所であっても)未来に希望があれば、苦難に立ち向かって生きる力がわいてきますが、人生行路の行く手に明かりがなくなると、とても耐えられなくなってしまいます。
どうしても人間には生きる明かりが必要なのです。

 

今日の日本でも、青少年の自殺が年々増加しています。
大人は「そんなバカなことを考えずに、前向きな気持ちを持って」「きっと乗り越えられるよ」と励ましますが、自殺願望の若者の心に響くものではないようです。
彼らには「生きろ」という言葉が「もっと苦しみ続けろ」と言われてるようにしか思えず、心を閉ざすのでしょう。
本当に伝えなければならないのは、彼らがうなずけるに値する、確固たる生きる希望です。
それはいったい何でしょうか。

 

引きこもりの中高年が引き起こした事件も多発しています。
70万人とも80万人とも言われるこれらの人たちに示すべき将来の希望は何でしょうか。
末期ガンで闘病生活を続ける人にとって、未来への明かりは何でしょうか。
人類はどんな事態に陥っても色あせることも薄れることもない真の希望を希求しています。

 

幸福とは「無形の財」と説く仏教

 

「財産」にも、「無形の財産」と「有形の財産」があります。
「有形の財産」とは、金や家、土地、株、車、宝石などです。
これら目に見え、形があり、触れることができる財産は、一見しっかりしているもののように見えますが、使えば減っていくものですし、水に流されたり、火に焼けたり、盗まれたりして、いつなくなるかわからないものなのです。

 

一方「無形の財産」とは、知識とか信用、人間観や人生観などです。
これらは目に見えない、形のない財産ですから、一見頼りない、当てにならないもののように思いますが、いったんこの無形の財産が身についたら、落としたり、盗まれたりすることのないものですから、簡単に消えたり、なくなったりしません。

 

失いやすい有形の財産を持っている人より、一度身についたら離れない無形の財産を持つ人の方が幸せだといえます。
たとえば貯金があっても、使えばどんどん減っていきますし、減っていく残額に「いつまで保つだろうか」と不安が募ります。
しかし収入を生み出す知識さえ持っていれば、今は手元に貯金がなくても、いつでも稼げますから、心は安心です。

 

儲かって羽振りがよくても、信義を欠くビジネスをしている経営者は、会社が傾いた時に誰も手を貸してくれませんが、目に見えぬ「信頼」という財産を築いてきた経営者は、たとえ社会情勢が激変しても次々と支えてくれる人が現われます。

 

苦しいことが起きた時「あいつのせいだ、こいつのせいだ」と誰かをうらみ、余計苦しみを深めていく人もあれば、「己のまいた結果だ」と反省し、向上の学びと受け止め、より成長を遂げる人もあります。
これはその人の思考法、ひいては人生そのものの見え方の違いからくるものであり、目には見えませんが、この考え方の違いが、両者の人生に著しい差をもたらすことは言うまでもありません。

 

金や家、土地、株、車、宝石などの「有形の資産」を追いかける人より、知識や信頼、ものの考え方などの「無形の資産」を築いていく人の方が、結果的に「有形の資産」をも築くことになるのです。

 

仏教を説かれたお釈迦さまは、究極の無形の財産は「仏心(南無阿弥陀仏)」であると説かれています。
そして「仏心(南無阿弥陀仏)」を獲た人は絶対の幸福になれる、と教えられています。

 

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