六大煩悩の一つ「慢心」は私たちをどう苦しめるのか

『慢』とはうぬぼれ心のことです。
六大煩悩の一つに数えられています
今回はさまざまな角度から、『慢』の実態に迫ってみます。
目次
誰も慢心からは離れられない
「オレは人より秀でている」と自惚れて、周りを見下している人がいます。
そんな人を見ると私たちは「何を自惚れているんだ、あいつは」と批判します。
しかしそう批判しているのもまた、相手を見下し、「オレはあいつのように自惚れないぞ」と自惚れているのですから、「慢心」に振り回されているという点で、同じです。
「そうか、人の自惚れているのを見下すのも、確かに自惚れだな、気をつけよう」と思うと、またすぐ出てくるのは、「ここまで己の自惚れを自戒し、抑制できるのはオレくらいだな」との自惚れです。
どこどこまでも『慢心』から離れきれない人間の実態がここにあります。
自制しないと慢心はすぐ口に出る
「口さえ開けば自分の自慢」が私たちです。
もちろん小学生のように「ぼくねえ、一番だったよ」「ぼくねえ、すごいんだよ」と露骨な自慢話しはひんしゅくを買うので控えますが、大人になると遠回しに自慢する術を覚えます。
自慢話しの大人のテクニックを3パターン、紹介します。
1.自分が自慢できる話題になるように持っていく
2.人を批判し、自分はそうでない人間であることを自慢する。
3.卑下しながら実は自慢
1の「自分が自慢できる話題になるように持っていく」というのは、「オレの場合、○○してるんだけど~(以下、自慢)」というケースですね。
その持っていき方がスムーズな人は会話上手と見なされますが、強引に短絡的に持っていく人は「あいつ、すぐそっちの方向に話しを持っていくから」と失笑をかうことになります。
2の「人を批判して、自分を上げる」パターンは、「最近の若い者はすぐあきらめる。自分たちの時は~(以下、自慢)」「ここは打って出るときだろう、こんなことはオレにもあった。あの時は~(以下、自慢)」というもの。
先輩、経験者の適切なアドバイスともいえますが、得意然と自慢話しているに過ぎないこともあるので、自戒したいところです。
3の「卑下しながら実は自慢」というのは、卑下しているように見せて、遠回しに自慢する、というテクニックです。
ある女子会で、最近恋人ができた一人が言ったそうです。
「でも、何で私なんだろうって思って。彼だったらもっと素敵な人が一杯いるだろうに」
これも一見、自分を卑下している台詞ですが、露骨な彼氏自慢です。
居酒屋でサラリーマンが「あいつみたいに人間関係を上手に立ち回れないから。オレ、不器用だし」と言っているのもそうです。
卑下しているように見せて、内心は、根回ししなくても実力が認められていることをアピールしていたり、誠実さを自慢しているのですから。
こんな落語もあります。
ある寺で説法の終わったあと、僧侶にあるお婆さんがぺこりと頭を下げてこう言った。
「私ほど悪い者はおりません」
それを聞いた僧侶
「そうか、ばあさん、実は他の人もあんたほど悪い者はいないと言っとるぞ」
と言うと、たちまち顔色を変えたお婆さん
「誰ですか!そんなことを言っているのは!」
と詰め寄る。
僧侶が
「ばあさん、冗談じゃよ。あんたほど頭の低い、謙虚ないい人はいないと皆言っているんだよ」
と笑うと、お婆さんは
「なんだ、住職さん、あんまり驚かさないでくださいよ」
と言った、という話しです。
「口さえ開けば自分の自慢」だなと知らされてくると、何もしゃべれず、何も書けなくなってしまいそうですね。
親鸞聖人が「親鸞さらに私なし」と、ご自身のことをほとんどと言っていいほど語られなかったのは、「名利の大山に迷惑す、恥ずべし、傷むべし」という、自慢したい心を恥じるお気持ち、大きな山ほどある自己顕示欲への懺悔があったと思われます。
慢心があるから反省できない
悪い人間の集まっている処は、と問われたら、“それは刑務所だ”と答える人が多いかと思います。
ところが刑務所の囚人たちは、自分のことを悪い人間だとは思っていないといいます。
「君は粉飾決算、架空取引の罪でここに来ているが、悪いことをしたと思っているか」
「善いことをしたとは思わぬが、俺はただの経済犯だ。そんなことで刑務所に入れるのはどうかと思う。暴行や傷害罪より、余程ましだと思っている」
そこで傷害犯にきいてみる。
「悪いことをしたと思っているか」
「善いとは思わぬが、人を殺したより余程ましだと思っている」
と、平然と答えます。
では殺人犯の囚人はどうか。
「そりゃ相手に気の毒とは思っているが、あれはカッとなっての一時の出来心だった。こないだテレビで話題になったあいつなんか、連続で人を殺した殺人魔だったでないか。あれは人間じゃないよね」
と言います。
どこどこまでも「あいつよりましだ」とうぬぼれます。
慢心からはどこまでいっても離れ切れません。
「この件は私に問題あったと思います。申し訳ありません」と頭下げたときに「そうだよ、お前のせいだよ」と言下に返されると、カチンと来て「しかし私だけのせいかと申しますと、実は~」と語気を強めて食って掛かる。
慢心の固まりである人間は自己を正しく見ることはできない、とお釈迦様は説かれています。
慢心から地獄は始まる
仏教では「慢心から地獄は始まる」と教えられます。
「なぜ日本は戦争をおこし、負けたのか」
確かに局地的にいえば、「せざるをえなかった」ところまで追い詰められたといえましょうが、そこまでに至った背景を追っていくと、やはりあの戦争の原因は、「日本の慢心にあった」と私は思います。
歴史といっても、その時代を生きている人々の思いが国や世界を動かすものです。
トランプ当選も、イギリスのEU離脱もそうですし、当時の日本では「万世一系たる神の国」「八紘一宇」「世界の盟主」が民衆の思いであり、新聞も軍部も政府も、その時代にあった「思い」のうねりに引きずられていったといえましょう。
昭和初期のその空気というのは、明治時代にはなかったものでした。
アジアの小国である日本が、どうやって欧米からの植民地化から逃れることができるか、清やインドの二の舞になってはならぬという焦燥と緊迫感が明治維新の原動力となり、その後の明治政府の推進力でした。
ヨーロッパの近代的な軍事制度の習得に励み、各国の軍事科学専門書を猛勉強し、さらに陸軍士官学校や海軍兵学校で、幹部の養成にも力を注ぎます。
日清・日露戦争も、このままではロシアからのど元に刃を突きつけられたようなものだと、窮鼠猫をかむ思いで、苦慮の末に仕掛けた戦争でした。
その「落とし所」も明確で、アメリカの仲介での講和でした。
それが昭和になると、戦争の勝利が絶対化し、和議を提案することなど非国民と断罪され、やがて「一億総玉砕」が勇ましく声高に叫ばれています。
どうしてそうなっていったか、その兆候は日露戦争の勝利から始まったといわれます。
日露戦争後、日本軍は欧米に学ぶことを辞め、皇軍の決めた範令を丸暗記することが軍幹部教育となります。
また、軍部は批判を嫌がり、評論そのものを封じ、日本軍の精神力、技術、戦闘能力の賛美だけが喧伝されるようになります。
批判から改革が起き、指摘から向上が始まるのは世の鉄則ですが、それを日本軍は、自ら放棄したのです。
人は慢心すると、批判を許せなくなります。
自分を賛美する者を喜び、批判する者を徹底して否定する、そうさせる心は「慢心」です。
慢心は自己を正そうという向上心を失わせ、その人を破滅に追い込む元凶なのです。
これは一個人のみならず、会社も、一国でも同じことです。
調子の良いときに気をつけるべきは慢心
評価を受けた時、期待されている時、好かれた時、こんな時は大変です。
何事も「諸行無常」。くれぐれも人の評価は続かないことを覚悟しておかねばならないでしょう。
いつの日か、「なんだ、こんな人だったのか」と一転、厳しい立場に立たされる時があります。
えてしてそんな窮地に立たされる原因の種は、恵まれている時に蒔いているものです。
私も過去をふりかえってみれば「これで大丈夫」と油断した時に、言ってはならないことを言ったり、してはならないことをして、失敗してきたものです。
「好事魔多し」と古人の教訓の通りです。
人から大事にされる立場になると、いつのまにか横柄になり、手でしなければならないことを足でするようになり、足でさえしないようになる。
恵まれた状態が続くと、やがては「これぐらいしてくれるのは当たり前」と知らず知らず思うようになってしまうのです。
そしてそう思ったときに破綻が起きます。
当たり前になった時、感謝の心がなくなるからです。
「これが当然、まだ足らん」
「前はしてくれたのに、最近しなくなった」
されないのが当たり前なのに、それをしてくれたら、感謝するのが当たり前でしょう。
それさえできなくなるのですから、信用が崩れるのです。
よくよく心得ておかねばならないことは「評価された時が、一番気をつけなければならない時」ということです。
こんなにしているのに、の慢心が人を悲しくさせる
「~のために」と私たちはよく口にしますが、そう言いながらも、決して自分のことを忘れてはいないものです。
必ずそれは自分の得にもなっています。
「大バーゲンセール!最大70%引き!お客さまの日ごろのご愛顧に感謝して、出血大サービスです!」と言いますが、ホンネは「売りたい」のです。
政治家なら街頭演説で大衆に向かって「皆さんのために、不肖この○○、立ち上がりました。日本の将来、こんなままでいいのか。子供たちの未来がかかっているんです。子供たちのために、私を国会で働かせてください」とスピーチしていますが、ホンネは「議員になって人の上に立ちたい」のです。
そのように私たちが「~のために」と主張する際、自己の損得勘定と離れることはありません。
そこを反省する気持ちがあるならまだしも、全く自己犠牲で、相手のためだけに、と思い込んでしまっているとしたら、それはうぬぼれ、慢心であり、きっとその「慢心」はきっと恐ろしい事態を招くでしょう。
あなたも今まで怒りに任せて、つい言い過ぎてしまったことがありませんか。
「あれくらいのことでなぜ言ってしまったんだろう」
「あんなに問い詰めなくてもよかったのに・・」
と苦々しく思った時のことを思い返してください。
反省してみると、
「これだけ面倒みてやっているのに」
「これだけ心配してやっているのに」
「やっている」のうぬぼれ心に、怒りの元があったことに気付かれるのではないでしょうか。
「あいつのためにしてやってる」
「みんなのことを思って立ち上がった」
「ひとのためにしてあげた」
これらみな、わが身知らずの慢心です。
そして怒りの元であり、己の心を悲しくさせる原因です。
慢心が悲劇の元となる
「こんなに会社に貢献してきたのに、リストラにあうなんて」
「こんなに家族のことを考えてきたのに、邪魔者扱いされるなんて」
【こんなに○○してるのに】の心が悲劇の元になっているようです。
とかく人間は自分の貢献度を高く見てしまう傾向にあると言われます。
サッカーの試合が終わったあと、選手たちに「あなたは今日の勝利に何パーセントくらい貢献したと思っていますか」と貢献度をたずねます。
本来なら、選手全体の合計が、100パーセントとなるべき質問です。
ところが、選手全体の答えを合計してみると、簡単に200パーセントくらいになってしまうそうです。
「人一倍走っているから」
「相手のFWをマークしたから」
と自分はそうとう貢献していると、欲目で自己を評価しています。
客観的に判断している監督が、貢献度が薄いと判断してレギュラーから外そうものなら、監督をうらんで、ふてくされます。
これはサッカーなどのスポーツに限った話ではありません。
たとえば社内・部署内での貢献度を尋ねるときにも、同じような結果になります。
いわく、
「今の会社のシステムは俺の案が採用されたから」
「オレの営業トークをみんなが用いなかったら一億円は利益が違っただろう」
などなど。。
要するに、みんな自分の貢献度や影響力を多めに見積もっているわけです。
ところがそんな「功労者の」自分に周りがぞんざいな扱いをするので、この扱いはなんだ!と怒りがこみ上げてくるのでしょう。
自分のミスで会社の信用を落としてきたこと。
社内で誰かと人間関係のトラブルを起こし、職場全体の士気を下げてきたこと。
そのような自己のかけてきた迷惑に目が向く人はなかなかありません。
【我慢されて置いてもらっている】
【許されて付き合っている】
この事実が事実と受け止められないのです。
だから懺悔もなければ、感謝もおきないのでしょう。
では慢心のために失敗を重ねる私たちが本当の幸せになるにはどうしたらよいのか、学びたい方はこちらです。
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