どんな人にも生きる意味があると説かれた親鸞の教えとは

死ぬことを真面目に見ることが幸せの第一歩だと説く仏教

 
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菊谷隆太
こんにちは、菊谷隆太です。 東京、大阪、名古屋を中心に仏教講座を主催する仏教講師です。 専門は浄土真宗で、「教行信証」「歎異抄」を学び、皆さんにもお伝えしています。 このサイトは「どんな人にでも生きる意味がある」と宣言された親鸞という方の教えを知っていただきたいと思い、開設いたしました。

仏教に「無常(死)を観ずるは菩提心の一なり」という言葉があります。
死をまじめに見つめることが本当の幸福への第一歩である、とお釈迦様は言われるのですが、なぜ暗い「死」を見つめることが明るい「生」を築くことになるのか、今回はお話しいたします。

 

死ぬことにクヨクヨせず、今を生きるのが大事、は本当か

 

仏教では「無常(死)」を深く見つめます。
なんで仏教では「死」をこうして語るんだろう、「死」を意識したら憂鬱になるだけで、暗くなるだけ損でないか、生きている今を楽しむことこそ大事なのに、と思われる方も多いと思います。
私もこのメルマガ上でたびたび「死」について語りますが、そうすると読者の方から「それが実生活に何か意味があるんですか」といった感想や質問が寄せられます。

 

死ぬことなど考えず、今を満喫するのが人間のあるべき姿なのでしょうか。
そんな問題に一石を投じた小説があります。
イギリスの作家、ハクスリーの『素晴らしい新世界』(1932年刊行)。
「死」の不安に煩わされることなく、今を楽しむことができる「理想」が支配する世界を描いた物語です。
その未来社会は、独裁者「フォードさま」の意思の元で統制され、国民は試験管で製造され、「フォードさま」に従順であるよう設定されて生まれてくる。
国民はみな「今は誰もが幸せだ」と「こだまを返すように」言う。
生まれてからもずっとその言葉を毎晩150回づつ聴く睡眠教育を受けているからです。
それでも主人公ジョンは、「この社会はどこかおかしい」と感じ、人が死んだのを見て憂鬱になり、「なんで必ず死ぬのに生きるんだろう」「なぜこの世に生まれてきたんだろう」と悩むようになる。
ジョンの恋人は「そんな時はソーマを飲むように言われているでしょ」と言う。
ソーマとは不安などの暗い気分を吹き払って多幸感を与えてくれる薬で、その社会では「なんで生きるんだろうとモヤモヤしたら、早めのソーマを」と、呼びかけられている。
ソーマを飲むと、半グラムで半日休暇を取ったような効果、一グラムで週末を楽しんだような効果、二グラムで豪華東洋の旅を満喫したような効果がある。
ソーマによって、人生に疑問を持つことなく、今日も国民は「今は誰もが幸せだ」と吹っ切れるように明るい声で言い合い、「フォードさま」に尽くし、やがて死んでいく、という人生を送る。
しかしジョンはソーマを飲むことを頑なに拒否し、人生の意味に向き合うが、最後は自殺して終わる、という内容です。

 

80年以上前の小説ですが、かえって現代の方がリアル感を増して迫ってくる内容です。
最も考えさせられるのは、やはり「死ぬことを忘れて、今を楽しむのが人間のあるべき姿なのか」という問題提起です。

 

お釈迦さまが「死」を重ねて説かれているのは、決して今の「生」を暗くさせるためではありませんでした。
その逆です。
死を真面目に見つめることは、いたずらに暗く沈むことではなく、今の生を日輪よりも明るくする第一歩、だからなのです。
これを「無常を観ずるは菩提心の一なり」と説かれています。

 

死ぬときに何を思うか、が大事とは本当か

 

私は20代の頃、アメリカで交通事故に遭うという、ちょっと特殊な経験をしています。
ロサンゼルスの大学のミーティングルームで勉強会があり、徒歩でその大学に向かう途中、車にはねられました。
信号のない横断歩道で、歩行者である私のために停車してくれた車の前を小走りに通り過ぎたその瞬間、停車した車の脇から突っ込んできた車にぶつかったのです。
甲高いブレーキ音に反応して、とっさに後ろを向いたので、ひざ裏がちょうど車体の先端にぶつかって、体ごとボンネットに乗っかる形になり、それから一回転して、背中からアスファルトに叩きつけられました。
これは一緒に歩いていたイランの友人が言っていたので、こうして描写できるのですが、そのときの私は、景色が一回転したと思ったら、アスファルトに肩がぶつかった衝撃がドンと来て、呼吸が困難になり、自分がどうなったのかわかりませんでした。
ただなぜか小さいころに階段から落ち、頭を床にぶつけた時の感覚を思い出していました。
いつしか近くの学生も野次馬で集まってきて、駆けつけた救急隊員にTシャツを破かれて何か恥ずかしいなと思ったのも覚えています。
そのまま救急車に運び込まれ、酸素ボンベをつけられ、「オープン・アイス!!」という救急隊員が言ってきます。
「オープン・アイス?氷を開け?何、それ」と言語の壁に阻まれたのですが、これは「目を開けろ」という意味でした。
そのまま病院にて検査したのですが、運の良いことに骨折もなく、その日のうちに退院できました。

 

今となっては、話題としても斬新なので、貴重な経験をさせてもらった、と思っているのですが、当たり所が悪ければ、最悪死んでいたかもしれない事故でした。
あとでアスファルトに残ったタイヤの黒い跡を見て、ゾッとしたものです。
とっさに後ろを向いたのがよかったみたいです。

 

車にひかれる前、私は何を思っていたかと言いますと、一時間後に行われる勉強会の内容をアレコレ考えていたのです。
それが突然、ブレーキ音と共に「ドン」です。
下手したら即死だったかもしれない、そんな瞬間は突然何の前触れもなくやってくることを否応にも自覚させられました。

 

臨終に「安らかに死にたい」「いい人生だったと言いたい」と語る人がありますが、「死」とは、そんな感慨に浸る間もなく、身構える猶予もなく、突如、そしてあまりにもあっけなくやってきます。
「あれどうしよう」「これどうなった」と、目の前のことに追われている平凡な一コマに突然ドンと割り込んでくる傍若無人の無法者が「死」です。

 

お釈迦さまは

『出息入息 不待命終』(しゅっそくにゅうそく ふたいみょうじゅう)
「出る息は入る息を待たず、命終わる」
吸った息が吐き出せなければ、吐いた息が吸えなければ、その時が死ぬ時だ、

と説かれています。
この経典の一節の重みを身をもって思い知らされる体験でした。

 

死ぬことという冷酷な真実を説く仏教

 

「死」は「いずれ迎えること」と誰もが容認はしていますが、「それはまだまだ先のこと」としか、思っていません。
そんな私たちの頑とした思い込みにブッダは「吸う息吐く息と触れ合っているのが【死】ですよ」と警告されています。

「出息入息 不待命終」(しゅっそくにゅうそく ふたいみょうじゅう)
「出る息は入る息を待たず、命終わる」
吸った息が吐き出せなければ、吐いた息が吸えなければ、その時が、死ぬ時だ

 

吐いたら吸う、吸ったら吐く、そんな当たり前の、ふだん何の意識もせぬことが、「もう吐けない」「もう吸えない」という現実に直面する時が、私にも、あなたにも、必ずありますよ、と教えられているのです。

 

この「出息入息 不待命終」を以前メルマガに書いた際、いただいた感想が心に残っており、紹介させていただきます。
感想を下された方は、おそらく医療関係の方ではないかなと思いますが、そんな場面に触れる機会がある方だからこそ、「死」を厳粛に受け止められているのかもしれません。

 

いつも真剣に読ませて頂いております。
(この時期は忙しくて)まとめ読みの事もありますが、今回のお話は…いろんな現実と思いがよぎりました。
昨日まで、さっきまで息をしていたのに…もう二度と吸うことが出来なかった人
止まった呼吸を見つめて見つめて…見つめて見つめて…グワッっと胸が膨らんだ瞬間。
筋ジスの方が最後に発するあの言葉『苦しいよ~、息が出来ないよ~』そして、ホントに吸えなくなる。
仏教とは冷酷なまでに真実を見つめてるんですね。
でもアタシはそれでいいと思います。
人間の命は甘くない。
真実を告げるのに、見つめるために必要な冷静さだと感じます。

 

仏法は死を真面目に見つめる教えですが、ここに話が及ぶと、「今、死ぬこと考えても仕方ない」「ピンと来ない。当たり前じゃん」「生を充実させることが大事なので、死は関係ない」という声も多く、聞かれる方の反応が分かれるところの一つです。

 

儲ける方法、健康の秘訣、円滑な人間関係、などを学ぶ時に【死】はどっちでもいいと放置しておれますが、「己とは何か」「なぜ生きる」「本当の幸福とは」本質に迫れば、どうしても【死】と向き合わざるをえません。

 

フランスの哲学者、モンテーニュは、仕事を辞めて、自分の城にとじこもり、読書三昧の生活を送りました。
38歳の時です。
書斎の天井にギリシア語やラテン語の格言をたくさん記し、フランス語でただひとつ「私は何を知っているか」と書きつけたといいます。
そのモンテーニュは「哲学とは【死】を学ぶことだ」といっています。

 

20世紀ドイツの哲学者ハイデガーは「人間とは死へ向かう存在だ」と言い、ショーペンハウエルは「死こそ、哲学にインスピレーションを吹き込む」と言いました。

「無常(死)を観ずるは菩提心の一なり」

 

この人間存在をまじめに見つめることは、真の幸せを獲得するのに大事なことだからこそ、お釈迦さまはていねいに説き明かされたのです。

 

死ぬことを前にしてあなたは何を思うか

 

さくらももこさんの訃報に感傷的な気分になりました。
さくらももこさんとは何の面識もなく、どんなお顔なのか、今回初めて知った程度なのですが、漫画「ちびまる子ちゃん」は、著者であるさくらももこさんの子供時代の話しだとは知ってはいるので、今回の訃報は「ちびまる子ちゃんが死んでしまった」ということなのだと、胸に迫るものがありました。
これはおそらく私だけでなく、日本中の多くの人が同じように、しんみりした気持ちになったのではと思うのです。

 

「まる子」が「お姉ちゃん」と喧嘩する姿や「お爺ちゃん」と遊ぶ姿がテレビに映るのも「この子の将来は、53歳の時に乳がんで亡くなるということなんだな」と思うと、何か切なさを感じてしまいます。
そしてその訃報を、まる子の家族やクラスメイトはどう聞くんだろうと思うと、なんとも言えません。

 

これは映画「タイタニック」の時も感じたことです。
「タイタニック」で観る船内の豪華絢爛ぶり、二人の燃える恋愛も、すべて冷たい海の底に沈むんだなと、結末を知っているが故の、切なさ、哀感が漂っていました。

 

考えてみれば「ちびまる子ちゃん」や「タイタニック」だけでなく、今勝った負けた、得した損した、と騒いでいる自分も周りも、みんな死んでしまう人ばかり。
何をムキになっているのか、「あわれというもおろかなり」と説かれる仏教の言葉が身に沁みます。

 

毎週日曜日の「ちびまる子ちゃん」は、すったもんだの出来事の最後に、ナレーションの「○○と思うまる子なのであった」と締めくくることが多かったと思うのですが、最後、53歳で終わりを迎えるにあたって、まる子ちゃんはどう思ったんだろうな、とふと考えました。
その時の思いを、エッセイに書くことはもうできないのですが、「○○と思うまる子なのであった」と、何か思われたことでしょう。

 

あなただったらその時、何を思うでしょう。
何を暗いことを言い出すのかと眉をひそめる方もあるかも知れません。
しかし「死」という厳粛な事実を、厳粛に受け止めるのが仏教なのです。

『無常(死)を観ずるは、菩提心の一なり』

「死にゆく存在である我が身を見つめることは、いたずらに暗く沈むことではなく、今の生を日輪よりも明るくする第一歩だ」と説かれています。

 

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