どんな人にも生きる意味があると説かれた親鸞の教えとは

生きる目的がわからない人生を「生死の苦海」「難度海」と例えられた親鸞聖人

2020/11/19
 
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菊谷隆太
こんにちは、菊谷隆太です。 東京、大阪、名古屋を中心に仏教講座を主催する仏教講師です。 専門は浄土真宗で、「教行信証」「歎異抄」を学び、皆さんにもお伝えしています。 このサイトは「どんな人にでも生きる意味がある」と宣言された親鸞という方の教えを知っていただきたいと思い、開設いたしました。

親鸞聖人は、私たちの人生を「生死の苦海」「難度海」と言われました。
180度、空と海しか見えない海で、苦しみの波と戦いながら泳いでいるのが私たちの姿だと説かれています。
「水平線に向かって泳ぐことに何の意味があるのか」
「いったいどこに向かって泳いだらいいのか」
親鸞聖人が人生を海に例えられ、私たちに何を教えられようとされたのでしょうか。

なぜ人生は生死の苦海なのか

仏教では、人生を「海」にたとえられます。
私たちは生まれると同時に、果てしない大海のど真ん中に放り出されたようなものです。
生まれ落ち、オギャーと泣いたその時が、大海に放り出された時。
そこから私たちは、人生の海を泳ぎ始めました。
よちよち歩きしたり、おっぱいねだって泣くのは、赤ちゃんが一生懸命「生きよう生きよう」としている姿です。
赤ちゃんも人生の波と戦って「泳ごう泳ごう」としているのです。

 

それからやがて幼稚園、小学校、中学校、高校、大学と進んでいくのは、どんどん泳いでいく姿です。
生きていくと、いろいろな困難が起きてきますが、その困難の数々を波にたとえられています。
試験の波を乗り越え、人間関係の波を乗り越え、病気の波を乗り越え、今までも、今も、今からも、波と戦って泳ぐのです。
「どうしたら試験合格できるか」
「どうしたらクラスであの人と上手くやっていけるか」
「どうしたら正社員に採用されるか」
それは自分に押し寄せる波の乗り越え方の研鑚です。

 

波の乗り越え方が下手だと潮水飲んで苦しむので、大波、小波、それらを乗り越えるにはどうしたらいいか、どんな泳ぎ方がいいか、どう生きたらいいか、みな考え続けます。
やがて泳ぎ方が上手になって、塩水飲まなくてもいいようになってくると、「大人になった」「一人前になった」と言われます。

 

しかしずっと泳げる人は誰もいません。
若い時は上手に泳げた人も、老いると病気にもなり、稼げなくなり、人も去り、上手に泳げなくなっていき、塩水飲むようになってきます。
そしてやがてどんな人も「これ以上泳げない」とついに力尽き、土左衛門になる時があります。
俯瞰すれば、人は水平線しか見えない海をただ泳いで、やがて独りどこかで溺れていく存在といえましょう。

 

「どこへ向かって泳ぐか」「なぜ生きるか」
人生の目的という根本が脱落しているのはおかしな話ではないですか、と親鸞聖人は言われています。

 

 

必ず土左衛門になるのになぜ生死の苦海を泳ぐのか

 

仏教では、人生を「生死の苦海」といわれ、「荒波の絶えない海」に例えられます。
しかもその海は360度、空と水しか見えない大海です。
どれだけ波と戦い泳いでも、一向に景色が変わらないので、何のために泳いでいるのか分からない。やがて腕も疲れてくる。どんなに頑張ったところで、このままではいつか土左衛門になるだけだと思うと、泳ぐ腕にも力が入らない。そんな海を泳いでいるようなものが人生だと説かれています。

 

「どれだけ泳いでも景色が変わらない」とは、毎日毎日同じことを繰り返している私たちの実態を言われています。
「ああ、もう朝か」「ああ、もう月曜日か」と何度繰り返してきたことか。
「泳いでいると腕が疲れてくる」というのは、そのうちだんだん歳がいく私たちの姿を例えられています。
やがて自分の身体さえ、自分で思い通りにならなくなり、皆に迷惑をかけるようになる。
「何のために生まれてきたのか」
「なぜ苦しくても生きねばならないのか」
いよいよわからなくなります。

 

あとは死ぬだけかとついため息が出る。
受け入れる施設も見つからないので、死ぬ場所もない、看取る人もいない、そんな境遇に置かれている人がどれだけいることでしょう。
大海で独り静かに力尽きて土左衛門になっていくように、ただ一人、孤独の中に、独り死んでいく。
これがすべての人間の終末です。

 

万人にやがて必ず「死」がやってくる。
自分の全てがなくなってしまう時が来る。
この人生最大の問題を直視したとき、そうなっても消えない光はないのか、満足できる心はないか、真実はないのか、と心が叫ぶのです。

 

その答えが仏教に教えられています。
親鸞聖人は『難度海を明るく楽しく渡す大船あり』と終生かけて教えられました。
生きている平生に、本願の大船に乗り、「生きてきてよかった」「いつ死んでも満足」と大安心大満足の身になるために、生まれてきたんだよ、その身になるまでは、どんなに苦しくても、生き抜きなさいと教えられています。

 

 

生死の苦海を一生懸命泳いだ先に待つもの

 

親鸞聖人は、人生を荒波の絶えない海に例えられ、「生死の苦海」「難度海」といわれています。
苦しみの波が絶えないだけではありません。
360度、どこを見渡しても島影一つ見えない、空と水しか見えない大海原です。

 

あの大学に入ったら、
あの職業に就けたら、
あの人と結婚できたら、
子供ができたら、
借金返せたら、
離婚できたら、
退職したら、
病気が治ったら、
ゆっくり休める、安心できると思って、一生懸命、苦難の波と戦い泳ぐのですが、どこまで行っても陸地が見えない、幾つになっても、いつも波と戦っています。

 

波がつらい、しかも陸地が見当たらない、となれば、泳ぐのをあきらめてしまう人がいてもおかしくはありません。
自殺する人のことです。
日本だけでも年間2万5千人近くの自殺者があると聞きます。
周りはそんな愚かな真似をしてはいけない、と自殺をとがめますが、決して愚かな人ばかりが自殺しているのではありません。
芥川龍之介とか太宰治とかヘミングウェイとか、自分より利口だと思われる人が自ら死を選んでいます。
どこへ行って何をしても、休まる陸地がないとなれば、死ぬまで泳ぎ続け、やがて土左衛門になるのが人生になり、人間は苦しむために生れてきたことになってしまいます。
そんな人生、なぜ生きなければならないのか、自問自答せずにおれなくなったのでしょう。

 

彼らほど先が見えていない人でも、土左衛門になるまで泳げ、という人生にうすうす気づいて「こんな毎日の繰り返しにどんな意味があるんだろう」と虚しい心をもてあましている人が世の中には充満しています。
こんな私たちの人生を『生死の苦海』『難度海』と親鸞聖人はいわれているのです。

 

波と必死に戦って泳いでいる人。
波の繰り返しに泳ぐのに疲れてしまっている人。
泳ぐのを止めようかなと思い詰めている人。
それでも惰性で泳ぐ人。
このように波を乗り越えるんだよ、とさとす人。
様々な人がいる。
しかし誰一人としてどの方角に向かって泳いだら助かるのか方角を指し示す人がいない。

 

陸地なんかないんだよ、救助の船なんかもう来ないよ、とあきらめに沈んでいる全人類に親鸞聖人は「あきらめなくていいのだよ」と、主著『教行信証』の冒頭に、

「難度海を度する大船あり」
苦しみ悩みの人生を明るく楽しく渡す大きな船がある

と明示されています。

 

 

生死の苦海を泳ぐ目的は人それぞれか

 

「人生の目的は何か?」と尋ねられた際、「それは人それぞれだろ」と答える人は相当多いと思います。
「自分らしい目的を見つけて、そこに向かって精一杯生きれば、人生は輝く」とみな思っています。
「あなたは今、何のために生きていますか?」と町で行き交う人に尋ねれば、きっといろいろな答えが返ってくることでしょう。
年代によっても、その答えは変わります。

 

▼中高生の子供なら、「志望校合格」「優勝して甲子園」などでしょうか。
人によっては「何より重要なのは、クラスでの人間関係」と答えます。
いじめの対象になったら大変ですから、気持ちは分かります。

 

▼社会人は、何を目的に生きているでしょうか。
独身なら「ステキな相手と出会いたい、好きな人と結婚したい」という強い目的に向かって、そのための自分磨き、収入アップなどに余念がありません。

 

▼結婚したら、次は「子育て」。
「子供が心身共に健やかに育ってほしい」の一心になります。
子供ができると、教育費、マイホームなど、お金が大変になりますから、自ずと「お金」や「仕事」が目的になります。

 

▼では子育てが終わり、定年退職するころには、何を目的に生きるでしょうか。
年齢と共に、身体も衰え、周りの友人の、病で苦しむ話を見聞きするようになり、否応にも気になるのは「健康」でしょう。
病気にかかっている人は「この病気を治す」それが生きる目的になっている人もあります。

 

おおざっぱに人が生きる目的にしている代表的なものを列挙して、年代別に見てきましたが、このように、年齢、環境の変化に連れ、「生きる目的」も変化するとみな思っています。
ゲーテもこう言っています。

十歳にして菓子に動かされ、
二十歳にしては恋人に、
三十歳にして快楽に、
四十歳にしては野心に、
五十歳にしては貪欲に動かされる

私たちが求めるものは、年代によって変わりますし、社会環境や、時代、国、文化の変動と共に変化していくものです。
だから皆、人生の目的は一人一人違うと言うのですし、それも年代と共に変わっていくものだと思っています。

 

ところが親鸞聖人は驚くべきことに、「人生の目的」は、時代や環境によってクルクル変わるようなものではなく、古今東西の人類に共通した、人間に生まれた者が絶対に果たさなければならない崇高な目的だと教えられました。

 

先ほど列挙した数々、志望校、甲子園、結婚、子育て、お金、仕事、健康などは、各人の「生きがい」「ユメ」「生きる目標」であって、「生まれてきたのはこれ一つ」という「人生の目的」ではないと明らかにされたのが釈迦であり、親鸞聖人なのです。

 

ほとんどの人が「人生の目的」と「生きがい」を混同しており、数々の人生本でも同義としていますので、その違いを理解するのは大変ですが、決定的な大きな違いの一つが先ほどから話していることです。
「生きがい」は、その時その時「とりあえず今はこれを目指す」という、人生の「通過駅」の一つ。
「まずは合格」「次は就職」「そろそろ結婚」というように変転していくものです。
対して真の人生の目的は「生まれてきたのはこれ一つ」という、万人共通で唯一のものなのです。

 

親鸞聖人が「生死の苦海」「難度海」と言われ、人生を海に例えられた話しでは、変化する「生きる目標」は「難度海に浮かぶ丸太や板きれ」にあたります。
一方、人生の目的は「難度海を明るく楽しく渡す大船に乗ること」です。

 

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