どんな人にも生きる意味があると説かれた親鸞の教えとは

人間関係を改善するために知っておけば得する釈迦の智恵とは

2019/04/10
 
この記事を書いている人 - WRITER -
菊谷隆太
こんにちは、菊谷隆太です。 東京、大阪、名古屋を中心に仏教講座を主催する仏教講師です。 専門は浄土真宗で、「教行信証」「歎異抄」を学び、皆さんにもお伝えしています。 このサイトは「どんな人にでも生きる意味がある」と宣言された親鸞という方の教えを知っていただきたいと思い、開設いたしました。

 

一方的に相手だけに非があるのではない

 

人間関係でぶつかることの多い私たちですが、どんなもめ事、けんかも、「一方的に片方が悪い」ということはないものです。

出会い頭の交通事故などの際、警察の立ち会いによる査定がありますが、被害者ではあってもいくつかの非があるとみなされ、9対1とか8対2とかいう過失割合で査定されます。
唯一、追突だけは10対0ですが、私は経験上、追突であってもぶつけられた方に幾ばくかの非はあると思っています。

私は生涯で2回、交通事故に遭ったことがあり、その2回とも追突でした。
1回目の事故は、前の車が右折して通り沿いにある店に入ろうとして急にブレーキをかけ、後ろにいた自分もあわてて止まった際、後ろの車が追突してきたという事故でした。
慌ててブレーキをかけた時点で、後ろの車、反応できるのかな、と身構えたのですが、案の定ぶつかってきたというものでした。

かなりの衝撃でしたが、身構えていたのが功を奏し、むち打ちにはなりませんでした。
ぶつけた運転手はぼぉーっと運転してたとかで、平身低頭謝ってこられました。
追突事故として処理され、私は10対0の一方的な被害者と見なされ、全額修理費を負担してもらったのですが、それでも自分としては、もっと私が機転きけばおきなかった事故であることは自覚しているのです。
私が前の車にびっくりして、急ブレーキをかけてしまったのが事故の一因だと思ったからです。
もうちょっとゆるやかなブレーキができていたら事故はなかったかもとも、と思っています。
さらに言えば、自分以上に事故の原因となったのは、私の前で突然急ブレーキをかけた車です。
あの車が相当、追突の原因となっていると思います。

私が経験したもう一つの追突事故は、信号待ちの時に私の前の大型トラックが突然バックしてきて追突してきたという事故でした。信号が青になった時に突然バックしてきたトラックに、「おいおい!」と声に出してるうちにぶつけられました。
アクセルとバックを間違えたとのこと、これも追突として処理しました。

このときも私は一方的な被害者と見なされたのですが、私にも原因があることを密かに自覚しています。急にトラックが下がった時、私が声を出すのでなく、すぐにクラクションを鳴らしていたら、事故はなかったと思っています。

追突に遭う人は運転が下手だからだと今の私は思っていますが、これはこの2回の事故の経験から自分が得た理解です。

 

なぜ夫婦は引くに引けないケンカになってしまうのか

 

長々と交通事故の話をしてまいりましたが、これは交通事故だけでなく、人間関係上の様々ないざこざ、トラブルも同じだと思います。一方的に相手だけに非があるということはないものです。

明らかにAが悪い、という場合でも、それでも9対1くらいで、Bにも1くらいは何か問題はあった、といえます。
「自分はいつも一方的にひどい目に遭う。私は何も悪くないのに」と口にする人でも、よくよく考察すると、そこには10対0とはいえない、その人が人間関係のトラブルに遭う原因を抱えていることがあるものなのです。

たとえば、自分の妻が浮気した、そして家庭がぐちゃぐちゃになった、ことがあったとしましょう。こうなったのは一方的に浮気した妻のせいだと、夫から見るとそうとしか思えませんが、奥さんの主張は「私も悪かったけど、私がこうなったのはあなたの言動のせいだ」とう思いがあるのです。

そういう主人の言動がなければ、奥さんもそういうことをしなかった、という点からすると主人にも非があることになります。
それなのに10対0のように咎められると、ケンカに発展します。
「そこまで言わなくていいじゃないか、こんな目にあったのはあなたのせいでもあるんだから」と奥さんにも引けない気持ちが出てきます。いわゆる“逆切れ”です。
そうなると夫は「お前、反省する気持ちあるのか!」とヒートアップして、もう収拾不可能の領域に突入していきます。

 

慢心の塊が人間だから、ぶつかりあう

 

人間は煩悩の固まりです。
自分は悪くない、と慢心でいっぱいです。
だから9対1で、こちらが9悪くて相手が1悪いという場合でも、その1の相手の非を9のように思いこんでしまうのです。
お互い慢心がひどくて、仲良くするのは難しくなってきます。

お釈迦様は私たち大衆を『煩悩林』と説かれ、私たちの住まいしているこの世界を『娑婆(しゃば)』と言われました。『煩悩林』とは煩悩の林、煩悩の密林、ジャングルということで、欲や怒りや慢心がうじゃうじゃしている密林だ、ということです。
『娑婆』とは堪忍土、堪え忍んでいかねばならない世界、という意味です。
欲いっぱい、思い通りにならないと腹を立てる、もう自分が悪いとは思えない、そんな煩悩の固まりがひしめき合っている密林だから、すぐぶつかってしまい、おのずと堪え忍ばなければやっていけない世界となってくるのです。

「自分が正しい、相手が悪い」という慢心を抑え、自己の非に目を向けることができれば、この世はどんなにか住みよくなることでしょう。

 

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