お盆はてっきり墓参りをする仏教の行事だと思っていたが、そうではなかった

夏のお盆休みに帰省する人は多くあります。
祖先の霊が家族の元に帰って来るとされるお盆の時期に墓参りしたり、僧侶が各家を訪問し読経して回ったりするので、お盆は仏教由来の行事だと思っている人がありますが、それは大きな間違いです。
今回は正しいお盆の意味について学びます。
なぜお盆は墓参りするようになったのか
確かに「お盆」という言葉の由来は『盂蘭盆経(うらぼんきょう)』という仏典ですが、この経典は、仏法を説く僧侶に布施をする功徳の尊さを教えたお経であり、死んだ祖先の追善供養を勧めたものではありません。
そもそも本来の仏教の教えに「祖先の霊が帰ってくる」という教えはないのです。
仏教では、死ぬと己の業(カルマ)に応じて輪廻転生する、と説かれており、死んだ祖先がずっと霊魂として残り、お盆になると帰ってくるというのは、中国や日本の民間信仰であり、仏教の教えとは関係ありません。
お釈迦さまは「お盆には祖先の霊が帰ってくるから供養せよ」とは一切言われていません。
釈迦八十年の説法は、常に今生きて、苦悩にあえいでいる大衆に向けられています。
死者の為の葬式や仏事を執行されたことも一度もなかったといわれます。
むしろ、そのような世俗的、形式的な儀礼を避けて、真の転迷開悟を教示されたのが仏教なのです。
仏教の教えの基本的なことだけでもわかれば、お盆の習慣が仏教の教えとは全く違うことがすぐわかりますので、「お盆の先祖供養=仏教の教え」のように思われている現状は、そのまま仏教の教えが全く伝わっていない現れに他なりません。
ではなぜ「お盆の先祖供養=仏教の教え」となってしまったのでしょうか。
実は寺の坊主に相当の責任があります。
お盆の時期に祖先の霊を供養するという土着の信仰を利用して、坊主が「かき入れ時」とばかりに「お布施」集めに奔走してきたからです。
本来なら「それは仏教ではありません」と宣言し、本当のブッダの教えを明らかにしなければならないのが僧侶の立場なのに、民間土着の先祖供養信仰に乗っかって、金儲けをはじめてしまった何百年という歴史が今のような現状にしてしまったのです。
お盆休みの帰省でしみじみと諸行無常を知らされる
お盆休みに久しぶりに故郷の田舎に帰ると、多くの人が『諸行無常』を実感させられるようです。
『諸行』とは「すべてのもの」。
『無常』とは「常が無い」「続かない」こと。
すべてのものは移ろい変わる、これだけは変わらないというものは世の中にない、という真理を、仏教では漢字4字で『諸行無常』というのです。
子供のころ心浮き立ったにぎやかな商店街は、シャッター街になった。
近所もどこもかしこも空き家だらけ。
旧友も変わってしまった。
久しぶりに老いた親と話すと、もしや認知症かと異変に気付く。
変わったのは周りだけではありません。
通った高校のそばを通ったり、通学する学生の姿を見て、自分自身も歳を重ねたことを自覚させられます。
二度と戻れない過去に胸しめつけられるようなさびしさが襲い、無常の世に生きていることを痛感させられます。
長く家族を養いつつ、仕事にいそしみ、骨身をけずった果てにむかえた老いの坂。
残された日々、ただ朽ちてゆくばかりなのか。
人生の選択肢などもうほとんど残されてもいない。
これから先、何のために生きるのか。
まだ、し残したことがあるのだろうか。
駆け足で過ぎていく日々の喧噪を離れ、多くの日本人が漠然とした焦燥感、虚しさに駆られるのが、お盆であり、故郷だとしたら、これも尊い仏縁につながる日本人の習慣と言えるかも知れません。
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