どんな人にも生きる意味があると説かれた親鸞の教えとは

なぜ親鸞聖人は「御同朋・御同行」とどんな人とも分け隔てなく接せられたのか

2020/11/19
 
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菊谷隆太
こんにちは、菊谷隆太です。 東京、大阪、名古屋を中心に仏教講座を主催する仏教講師です。 専門は浄土真宗で、「教行信証」「歎異抄」を学び、皆さんにもお伝えしています。 このサイトは「どんな人にでも生きる意味がある」と宣言された親鸞という方の教えを知っていただきたいと思い、開設いたしました。

800年の古、親鸞聖人は、あの身分制度の激しい封建社会にあって、山上の仏教を山下の仏教に、貴族の仏教を庶民の仏教に、出家の仏教を在家の仏教に、大改革をされました。
漢字のわからない人のためにひらがなで、長い文章は難しく感じる人には田植えしながらでも口ずさむことのできる「歌」の形で、まさに大衆の中に飛び込まれ、胸から胸へ、仏法の灯火を点じていかれた方でした。
当時虐げられていた猟師、商人、遊女など社会の底辺に生きていた人たちも、そんな親鸞聖人に心を開くようになり、多くの人が親鸞聖人の教えを聞くようになりました。
親鸞聖人が当時の常識であった差別の意識を軽々と乗り越え、「御同行・御同朋(兄弟よ、友達よ)」と全ての人に呼びかけられた信念の源泉はどこにあったのか、今回は学びます。

 

カースト制度を打破した仏教、御同朋・御同行と接せられた親鸞聖人

 

悪名高き「カースト制度」は、インドにはびこる身分差別です。
その歴史は古く、約2600年前のお釈迦さまの時代からあり、今日にいたるまでインドの多くの人々の心に根深く巣喰っています。
カースト制は大きく分けると「婆羅門(バラモン)」「刹帝利(セッテイリ)」「吠舎(ベイシャ)」「首陀羅(シュダラ)」という4つの社会の階級があり、婆羅門(僧侶)と刹帝利(王族)は、ほとんど同等の尊い身分とされますが、吠舎(庶民)はそれらに対して、婚姻はもちろん、交際から職業までも禁じられ、首陀羅(奴隷)に至っては、直接それらと言葉も交わされぬほど蔑視されています。

 

現代のインドでは、表向きには法律でカースト差別は禁じられているものの、今もインドで発生する事件の多くが、カーストなどの階級差別による事件です。
「カースト越しのラブレター事件」では、15歳の少年が自分よりも下位の階級の少女にラブレターを送ったところ、相手と同じ階級のメンバーに拉致され、髪を刈られ、市内を引きずり回された後、少年の母の命乞いも空しく、線路に投げ込まれ少年は死亡しました。
カーストでは違う階級同士の結婚が許されておらず、違う階級の人と駆け落ちをしたり恋をした場合、「名誉殺害」といって、自分の家庭の名誉を守るために、自分の親や親族によって殺されてしまうこともあります。

 

今日の日本でも、民族や人種差別の不快な情報を目にしますが、インドと比べればかわいいものです。
ましてお釈迦さま当時のインドは、どれほどのものだったでしょうか。
お釈迦さまのおられた当時、このようなことがありました。
お弟子の一人である阿難が、ある夏の暑い日、祇園精舎に帰る途中、あまりにのどが渇いたので、木の陰で一人の若い女が手桶に水をくんでいるのを見て、一杯の水を求めました。
阿難に言葉をかけられた娘は、赤面しながら小さな声で「私は卑しい素性の女です。あなたのような尊い身分の方に上げられません」と、断ったのです。
娘は、カースト制で最下層の「首陀羅」であったのです。
阿難は優しく娘を慰め「人間は生まれながらに貴賤が定まっているのではない。仏の教えは、一切の人々は生まれながらに平等であり、自由だと教えられているのです。どうか遠慮なさらずに、私に水を一杯布施してください」と少女を励ましています。

 

今日もなお、インドの社会に強い影響力を持つカースト制は、お釈迦さま当時は、まさに絶対的なものでした。
その時代にあって「人間は生まれながらに貴賤が定まってはいない」とお釈迦さまが万人平等を宣言されたことは、どれほど世に衝撃を与えたことでしょう。

 

このお釈迦さまの真精神を受け継がれたのが、法然上人・親鸞聖人です。
当時の日本の仏教は、奈良・平安時代を通じて、権力者の政治体制の安泰を祈るのが役目となっていました。
大仏で有名な東大寺は、国家を護るために時の天子が造ったものです。
奈良の興福寺も藤原家の繁栄を祈る寺でした。
比叡山の延暦寺も、京都に都を移すときに、京の都を護るために創建されています。
いずれも支配階級である貴族のための教えで、庶民は救済の対象から外れていたのです。
極楽浄土へ往けるのは戒律を守る修行僧か、寺に財物を寄進する貴族だけ、とされていました。
肉を食べ結婚生活する平民は、戒律を守ることはできません。
貧しくて寺に納める物もありません。
庶民は、最初から切り捨てられていた、存在だったのです。

 

そんな中、それは決して真実の仏法ではないと宣言されたのが、法然上人であり、親鸞聖人でした。
両聖人は、当時虐げられていた猟師、商人、遊女など、社会の底辺に生きていた人たちにも、一切分け隔てなく接せられ、弥陀の救いを切々と説法され、万人救済の道を切り開かれたのです。

 

人種や文化で差別する世にあって親鸞聖人は御同朋・御同行といわれた

 

先日話した慶応大学の学生は、ブラジル生まれ、ブラジル育ちの日系人で、中学の時に日本に引っ越してきたそうですが、最初は日本の学校に行くのが怖かったそうです。
なぜかというと、日本人はみんな小さい時から空手をやっていてブラックべルト(黒帯の有段者)だと思い込んでいたからだそうです。
その幻想は転校初日から崩れたとのことでした

 

そういえば、私も中学の時にアメリカから来た黒人の転校生がありました。
背が高くて、顔はエディー・マーフィーとそっくりで、私服はだぶだぶのシャツに帽子というヒップホップ系ファッションで「こういうのが向こうで流行っているのか」と新鮮でした。
その「マーフィー」が体育館でバスケの試合をすると聞こえてきたので、本場仕込みのバスケが見たいと、友人と体育館までワクワクしながら見に行ったものです。
ところが彼はドリブルもシュートもまるで下手で、こちらとしたら裏切られた気分にもなりました。
今考えてみると、アメリカの黒人というだけで、自分のバスケットを期待するギャラリーに囲まれて、さぞプレッシャーだっただろうと同情します

 

ついつい人種や民族、肌の色などで固定観念を持って接してしまうところが私達にはあります。
それが人種差別、劣等民族という言葉も生み、民族浄化といった恐ろしい事例まで引き起こしてもきました。
ほかにも血筋、血統で人の優劣を決めたり、学歴や収入で値踏みしたり、男女、貧富、美醜、様々な差別が横行し、人類は傷つきあっている現状です。

 

これら差別意識を乗り越えて親鸞聖人が「御同行御同朋」と全ての人に呼びかけられた、その信念の源泉はどこにあったのでしょうか。

 

みな煩悩具足だから等しく仏の正客であり、御同朋・御同行だ

 

当時はまだ20代でしたが、アメリカに住み始めた時、この際、英語が喋れるようになろうと思い立った私はアダルトスクールに行きました。
アダルトスクールとは、カリフォルニア州が移民の英語教育のために設置した大人向けの学校のことです
近所にある小学校が、夜7時からはアダルトスクールとなっていたので、無料だった事もあって毎週2回通うことにしました。
私一人日本人で、あとはみんなメキシコ人でした。
教師はボランティアと思われる白人のおばさんでしたが、冗談も早口の英語で、こちらは聞き取れないことが多いのですが、周りのメキシコ人は笑いますし、英語で教師と会話できていますし、どうも私がもっともできないようだ、と最初の授業で現状を把握しました。

 

ところが筆記テストになると立場が逆転しました。
私は文法や単語はほとんど全て書けて、クラスで一番優秀でした
喋れないし、聞き取れないが、書くのと読むのは得意、という日本の英語教育の典型例だな、と自らに苦笑するのでした
そんな授業の一コマを今日は紹介して、今日のテーマに触れてみましょう。

 

その授業で面白かったのは「これわかる人」と教師が言うと「はい」と手を上げる人が多いことです。
大の大人がですよ、40も過ぎたようなひげのメキシコ人のおじさんがいっせいに「はいはい」と手を上げるのはびっくりしました。
しかも指されると、嬉しそうです。
黒板に出てきて書いてください、と教師が言うと、嬉しそうにニヤニヤしながら身体をゆさゆさしながら出てきます。
ところが黒板に書く段になってチョークを持って考え込んでしまったり、堂々と間違いを書いたりするのです。
「何じゃ、この人たちは」とずっこける思いでした。
日本人だったら分かったときに「はい」「はい」と手を挙げまくるのは小学校低学年までで、そんなこと中学や高校に入ってもしていたら、目立ちたがりのおっちょこちょい、空気読めない奴のレッテルを貼られ、無視の対象です。

 

わかっていても手を挙げようとしない日本人。
わかっていなくても手を挙げるメキシコ人。
この場合、メキシコ人は名誉欲が強く、日本人は奥ゆかしい、ということではないでしょう。
メキシコ人が目立ちたくて手を挙げるのは自己顕示の「名誉欲」ですが、日本人がわかっていても手を挙げないのは「目立たなければ、人に悪く思われないだろう」「協調性のある奥ゆかしい人と思われるだろう」と計算しての行動ですから、これもまた「名誉欲」です。
煩悩の中の「名誉欲」に動かされている姿はメキシコ人、日本人共に変わらないのです。

 

煩悩具足 のわれわれが、生まれ育った環境、文化で、その使い方が変わってくる。
いわば煩悩、名誉欲の表現の仕方が変わってくる、ということなのです。
生まれ育ち、環境、文化、生活スタイル、男女、しつけ、教育などで、煩悩の使い方が変わるだけで、煩悩に振り回されている人間の実態は少しも変わるものではありません。
この人間の実体に目を向ければ、言うも言わざるも煩悩、裁くも裁かれるも煩悩、煩悩具足の人間に差別はありません。

 

イタリアの寓話にこんなのがあります。
夜、山の一軒家でローソクが、自分ほど明るいものはなかろうと自慢しているところへ、ランプが来て同じように威張った。
そこへまた電気が来てうぬぼれると、ローソクもランプも恐れ入って頭を下げる。
やがて東天から太陽が昇ると、ローソクもランプも電気も光を映奪されて皆暗くなった。
自慢話は絶えたという話です。
闇に対すればローソクが明るいし、ランプはもっと明るい。
ランプより電気が明るいのは事実でしょう。
しかし太陽の前では”皆暗い”としか言いようがありません。

 

法鏡に映し出されたら人類皆『煩悩具足』で、差別はありません。
みな仏の正客なのです。

 

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