どんな人にも生きる意味があると説かれた親鸞の教えとは

老いが悲しい、怖いという人へのブッダの教え・老苦を乗り越える道

2020/11/19
 
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菊谷隆太
こんにちは、菊谷隆太です。 東京、大阪、名古屋を中心に仏教講座を主催する仏教講師です。 専門は浄土真宗で、「教行信証」「歎異抄」を学び、皆さんにもお伝えしています。 このサイトは「どんな人にでも生きる意味がある」と宣言された親鸞という方の教えを知っていただきたいと思い、開設いたしました。

仏教では、いつの時代、どこの国の人でも受ける4つの苦しみを『四苦』と教えられます。
生苦・老苦・病苦・死苦の四つです。
今日はその中の一つ『老苦』について話をします。

 

超高齢化社会の老いの孤独と不安

 

釈迦が『老苦』を説かれた当時のインドの平均寿命は20歳未満ですから、『老いの苦しみ』と聞いても、当時の人にはピンとこない人は少なからずあったと思いますが、今日の日本は、歴史上の人類が未だ経験したことのない超高齢化社会を迎え、家族の介護など身近に『老苦』を実感する機会も増え、人生の切実な苦しみとして実感しており、その傾向はますます深刻化しています。

 

人口減少日本でこれから起きることをカレンダーにした『未来の年表』によると

○2020年 日本人女性の2人に1人が50歳以上。
○2021年 団塊ジュニア世代が50代に突入し、介護離職が大量発生
○2022年 独居世帯は3分の1超。ひとり暮らしをする貧しい高齢者の急増が大問題に。
○2026年 「認認介護」が急増。介護する側も介護される側も認知症という現実が待ち構える

これからの日本がどんなに大変な時代を生きることになるか、改めて現実を突きつけられる内容でした。

 

もちろんかかる現状を手をこまねいているわけではなく、政治が介護や年金の問題を論じ合うのも、医学が認知症の薬の開発を急ぐのも、『老苦』を何とかしようという努力なのですが、生きる以上は、老いに向かって歩み続けるベクトルの向きを変えることは絶対にできません。
少しでも進むスピードを遅らせようという努力に過ぎません。
科学も医学も政治も、人間のいかなる営みも、老いる方向に向かって着実に行進する万人の憂鬱をなんともできないのです。

 

 

老いの不安を克服する道を探求

 

縄文時代の平均寿命は約15歳だったそうです。
それは乳幼児の死亡が多かったからですが、たとえ成人しても50歳まで生きられる人はほとんどいなかったようです
ならばあの時代、『老苦』を説く人があっても、大多数の人はあまり実感わかず、幸いにも長生きできた一握りの人だけが共感する苦しみだったかもしれません。

 

室町時代でも「人生50年」といわれた時代ですから、やはり『老苦』を切実に受け止める人はそんなに多くなかったでしょう。
自分のことを考えてみても「もう若くないなあ」としんみりすることはあるものの、「老いたなあ」とは思わず、深刻な『老苦』は感じていませんから、室町時代の人も『老苦』を実感する人はそんなになかったでしょう。

 

では翻って現代はどうか。
平均寿命が80歳を越え、老後貧困、介護、独居、認知症など、四方八方眺めれば、老苦による愁嘆の声が満ちています。
若者は、子供の時から家族や近所で、まざまざと老苦の実態を見せつけられているせいか、「長生きしたくない」と言い出す人も増えています。

 

さらに今後、医学や科学の進歩により、平均寿命90歳、100歳時代がやってくれば、人生の多くの時間を老苦と向き合わねばならないことになります。
もちろん白髪を簡単に染められるようになり、入れ歯も使わないで済むようになり、整形でシワも取り、車いすも便利になり、介護ホーム、バリアフリー、病院への交通も行き届き、介護法案も考えられています。

 

だがそれら『老苦』に苦しまないための人間の努力も、『老苦』の克服とはいえません。
どれだけがんばっても、「老いていく」進路を変えることは何人も絶対にできないのですから。
医学も科学も政治も、老苦の苦しみをできるだけ先延ばしにする努力です

 

では、どれだけ老いても、病が重くなっても、そしてたとえ死が迫っていても、その苦しみによって邪魔されない幸福があるのでしょうか。
その昔、シッダルタ太子(釈迦のさとりを開く前のお名前)は、確実に老いと病と死に向かう万人の暗い生の本質を見抜かれ、真の幸福を求めて城を出られたのは29歳の時でした。
そして35歳12月8日、仏の悟りを開かれ、老・病・死を超えた幸福があることを知られ、80歳で亡くなられるまで、私たちに教え続けられました。
それが「仏教」です。

 

 

四門出遊の東の門

 

お釈迦さまが老・病・死を超えた真の幸福を求められる動機になったのが『四門出遊(しもんしゅつゆう)』のエピソードです。
『四門出遊』には、東の門を出られたシッダルタ太子(のちのお釈迦さま)が、「老い」の実態に驚かれた話が記されています。

太子が東の門を出ると、活気づいた町並みが広がっている。
町を見渡していたとき、太子の目にとまったのが老人であった。
その時、太子は思った。
「哀れな…….。
 老いるということは、
 腰が曲がり、歯は抜け、
 歩くこともままならず、
 邪魔者扱いされてしまうことなのか。
 自由に飛び回りたいのに、
 老いた身体という牢獄に閉じ込められ、
 自由を奪われている。
 今、若きを楽しむ私にも
 必ず年老いる未来が来る。
 私は衰える体で苦しみ、
 生きていかねばならぬのか」

 

それまでのシッダルタ太子は城中で、自信に満ちた王族や貴族、きらびやかな美女、若々しい兵士たちに囲まれ、人生の華やかな一面しか目にすることはなかったのですが、いったん城の外に出て、そこで太子が目にした光景は、城内では故意に隠蔽されていた「老い」という人生の現実でした。
衝撃を受けたシッダルタ太子は「この老苦を超える道は人生にないのか」深刻に悩まれるようになります。

 

現代における東の門は、高齢者が死を迎える「老人病棟」といえるかもしれません。
そこでは医師や看護師でもない限り、一般人が普段目にすることのない老いの厳粛な現実が突きつけられる場であり、足を踏み入れると、その悲惨さにまず衝撃を受けない人はありません。
人命は尊厳だというけれども「このどこが尊厳なのか」と問わざるを得ない状態がそこにはあります。
しかもこれは他人事ではない、自分がやがて行く処なのです。

 

シッダルタ太子が老人の姿を通して悩まずにおれなかったのは「なぜ人は老いの苦しみと戦って生き続けねばならないのか」「必ず死ぬ命、なぜ矢折れ、刀折れ、それでも生き続けるのか。何のためなのか」という、人類根本の問いでした。
ほとんどの人が目を背ける一大事に、お釈迦様は真正面から挑まれたのです。

 

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