同じことの繰り返しのつまらなく退屈で苦しい流転輪廻の人生

仏教に『流転輪廻』という言葉があります。
ゴールなき円周をひたすら回り続けるように、安心も満足もなく迷い続けている私たちの様をいわれます。
今回は『流転輪廻』についてお話しします。
目次
同じことに繰り返し、流転輪廻の人生に嫌気がさす
中学や高校時代、一番好きな曜日は何曜日だったでしょうか。
たいていの人は「土曜日」もしくは「金曜の夜」と答えるかと思います。
「明日は休みだ。いつまでも寝ておれる。今日は遅くまで自分の好きなことできる」と思うと、心が明るくなったものです。
では、一番いやな曜日は、といえば「月曜日」「その月曜日が、もうすぐやってくる日曜日の夜」でしょう。
日曜日の夕方、子供の心はどことなく憂鬱になるのを「サザエさんシンドローム」といわれます。
日曜日のPM6時30分。「サーザエさーん、サザエさん、サザエさーんは愉快だな~♪」とエンディングが終わると、子供の心は愉快でなくなってくる。
集中力のない子供が、月・火・水・木・金と、あれだけの長時間、あのつまらない授業を受けるのはけっこう苦痛です。
同年齢のクラスメイト何十人と一年間、ずっと同じ部屋で行動するのにストレスを感じるのも無理ありません。
できれば部屋で一人、あるいは気の合う友達とゲームか映画でも見てすごしたい。
そちらのほうがずっと気楽だし、面白いし。
しかし学校行かずにそんなことばかりしていたら、親からも社会からも否定されて生き辛くなることは子供心にもわかるので、頑張って日々こなしているのです。
ほんとに子供は大変です
こなして、こなして、こなして・・・・・・そして、やっと土日に気晴らしをする。
ところが気晴らしの喜びもつかの間で「あーあ、また月曜日か」とまた月曜日を迎えて、こなし始める。
「あーあ、もう朝か」と1日を迎え、「あーあ、もう週始めか」と1週間を迎え、「あーあ、もう2学期か」とため息をつく。
【こなす】と【気晴らし】の繰り返しで、この一週間のサイクルを4回ぐるぐる回れば1ヶ月。×12回まわれば1年です。
ぐるぐる回って5年、10年、20年・・・サラリーマンになっても、その延長じゃないか、とぼやいている人も少なくないはずです。
出社できない会社員続出の月曜日を「ブルーマンデー症候群」といいます。
この繰り返しでやがて老いて死んでいくのが人生だとしたら、何のために生まれてきたのだろう、なぜ生きるんだろう、と根深い疑問がもたげます。
流転輪廻している人間は千年経っても幸福になれていない
今から約1000年前に書かれた『源氏物語』は、その巧みな心理描写、緻密な筋立てから「世界最古の長篇小説」といわれます。
「源氏物語」を題材とした市民講座が全国各地で盛況で、いつの時代でも多くの人から評価を受けているのは、源氏物語の登場する登場人物の心情に共感する人が多いからでしょう。
今からさかのぼること約2600年前、釈尊は人間の普遍的な苦しみを「四苦八苦」と説かれましたが、その中に【愛別離苦】【怨憎会苦】【求不得苦】があります。
【愛別離苦】とは、愛する人と別れなければならない苦しみのことで、死別、生き別れ、失恋、などがこれにあたります。
【怨憎会苦】は、嫌いな人と会わなければならない苦しみです。嫁姑の争い、職場でのハラスメント、冷え切った夫婦間などです。
【求不得苦】は、求めても得られない苦しみで、片思いや不合格や希望の職種に就けないことなどの苦しみのことです。
こういった苦しみはそれぞれ皆さんも体験されていることと思います。
源氏物語の登場人物も苦しんでいるのはこれらのことです。
愛する人が突然の疫病で亡くなり、夜も眠れず嘆く人が現われますが、これは【愛別離苦】です。
夫婦ながら、相手が嫌いになり、悩む人も出てきます。これは【怨憎会苦】。
通い婚といって夜、女性の館に男性が通うのが通例だった時代、毎晩、香を炊いて待っていても、もう何ヶ月も来てくれないと嘆く女性も出てきます。これは【求不得苦】。
千年前ですから、今とは食べるものも住むところも着るものもまったく異なり、今日のように科学は発達しておらず、政治形態もまったく違っていたあの時代ですが、人間が苦しんでいる内容が少しも変わっていないことが知らされます。
千年も経って、政治、経済、医学、科学、あらゆるものが変化したのに、いまだに苦しみが軽減されておらず、愁嘆の声ばかりが聞こえてきます。
今後、22世紀、23世紀と時代が進み、あらゆる文化文明は試行錯誤を重ねながら進歩向上を重ねていくのでしょうが、【愛別離苦】【怨憎会苦】【求不得苦】といった人間の本質的な苦しみは無くなるでしょうか。
せめて軽くなるでしょうか。
源氏物語は、どれだけ時代が変わっても、国が変わっても、人間の本質は何も変わっていないことを私たちに語っています。
一時幸せになれたように思うが、いつの間にか元に戻っている流転輪廻の人生
『人は山の頂に上ることはできても、そこに長くとどまることはできない』という格言があります。
どんな幸せをつかんでも、その幸せは時の流れと共に2つの方向に進んでいきます。
1つは【裏切られる】、もう1つは【あきる】、この二つです。
シンデレラは継母のいじめに耐え、ついには白馬の王子様と結婚し、幸せを獲得しました。
「めでたしめでたし」で絵本は終わります。
テレビの恋愛ドラマでも定番のストーリーは、三角関係、嫉妬、誤解など、さまざまに二人を悩ませ、最終回では2人がお互いの愛を確かめあって終わる、というものです。
そんなのを『シンデレラストーリー』といいますよね。
物語なら「あー、いいドラマだったね」「いいお話だった」で終わりでいいんですが、人生というものは、そこからまだ続きます。
「物語」と「人生」の違うところは、実にここでしょう。
その後のシンデレラという話があったらどうでしょう
その一【裏切られるパターン】
シンデレラと王子様の間にできた子供が不良になってしまいました。
荒れる家庭に、「こんなはずではなかった」とシンデレラは憂鬱な表情です。
その二【飽きる(冷める)パターン】
ステキだった王子様も最近は中年太りのメタボで、昔のようなときめきは、今はちっともおきません。
【山の頂に上ることはできても、そこに長くとどまることはできない】
幸せの絶頂に「このまま時間が止まってほしい」と願うのもうなずけます。
しかし人生の現実はそれを許しません。
あれほどのことをしても流転輪廻は変わらない
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」
徳川家康の遺訓の一節です。
あの群雄割拠の戦国の世、最終の覇者であった家康は「オレは人生の勝利者だ」とわが身の栄光を謳っているかといえば、そうではありません。
「オレの一生は苦しみ悩みの重荷を背負っていくものであった。死ぬまでその重荷は下ろせなかった」と述懐しているのです。
家康の人生は人質生活から始まってます。
愛情薄く育った家庭の不遇を嘆く人は多いですが、自分の国が裏切れば殺される立場で幼少期を過ごしたのですから、どんなにかさびしく孤独で不安な身であったことでしょう。
「一国一城の主になればこの重荷を下ろせる」と人一倍の努力と才覚で、ついには三河一国の城主になります。
ところが重荷は下ろせません。
隣国には織田家、武田家などの大国に囲まれ、気の休まるときはない。
事実、信長の圧力で実の息子を自害させられています。
どんなにか苦しく、悔しかったことでしょう。
「押しも押されぬ大国になれば重荷下ろせるんだ」と更なる努力を重ね、織田や武田が失脚する中、着々と領土を広げ、大国を治める身になりますが、天下を取った豊臣秀吉に領地換えをさせられ、ここでもまた、忍従を強いられます。
重荷は続きます。
この重荷、下ろしたいと家康は天下を目指し、ついに征夷大将軍となり、徳川三百年の礎を築きます
ところが天下を取ってなお、島津や伊達の江戸侵攻を恐れ、神経をすりへらす日々が続きます。
少しも重荷が下ろせない。
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」
家康の人生の目的は天下統一でもなければ、幕府を開くことでもなかった。
物心つくときから晩年まで唯一つ家康が望んだことは「重荷を下ろしたい」これ一つだったのです。
それを果たせなかった家康は、やはりゴールなき円周を走り続ける流転輪廻の悲劇人であったといえましょう。
この坂を越えたなら、とがんばっても流転輪廻が続く
「この坂を越えたなら、しあわせが待っている。そんな言葉を信じて越えた七坂、四十路(よそじ)坂」
都はるみが歌って大ヒットした『夫婦坂』の一節です。
歌の示すとおり、人生には越えなければならない山がいくつもあります。
受検戦争、就職難、リストラ、老いや病魔、家庭や職場での人間関係・・・・・・
今だって当面乗り越えなければならない山があると思います。
そのことを思うとあなたが「はぁ」とため息つく、胸が重くなる、そのことです。
それが目の前にある山です。
それを乗り越えないと人生が苦しい、それさえ乗り越えたらどんなにか人生は楽になるだろう、安心できるだろうと一生懸命乗り越えようとしている。
やっと乗り越え、一時的にヤレヤレと思いますが、そこにはまた次の山が待っているのです。
【この坂を越えたなら、幸せが待っている】
回りもそのように励まします。
【そんな言葉を信じて】
自分もそんな言葉を信じて「きっと幸せになれる」と懸命に越えてみた。
【越えた七坂】
そのように越えてきた坂が七つあった。
言い方変えれば七回信じてきたけれども、その度にだまされてきた、ということになりましょう。
それで【四十路(よそじ)坂~】
40歳になってしまった、でもまだ坂の途中、と歌っているのです。
まるで、私の今までの人生を歌われているみたいだな、と共感する方も多いことでしょう。
「四十路坂」ならまだしも「六十路(むそじ)坂」とか「八十(やそじ)坂」80歳になって車椅子に乗っていても、まだ坂を登っています、というのが人生なら、なぜ人間は坂を乗り越え、乗り越え、生き続けなければならないのでしょう。
やがて坂の途中、山腹で倒れなければならないときがどんな人にでもやってきます。
なぜそれまで相次ぐ山を乗り越え続けて人は生きなければならないのでしょうか。
この人類永遠の問いに答えを明示し、流転輪廻から脱する道を明らかにされたのが仏教であり、親鸞聖人です。
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