どんな人にも生きる意味があると説かれた親鸞の教えとは

権限には責任がついて回る

 
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菊谷隆太
こんにちは、菊谷隆太です。 東京、大阪、名古屋を中心に仏教講座を主催する仏教講師です。 専門は浄土真宗で、「教行信証」「歎異抄」を学び、皆さんにもお伝えしています。 このサイトは「どんな人にでも生きる意味がある」と宣言された親鸞という方の教えを知っていただきたいと思い、開設いたしました。

上に立つ者は責任を負うので苦労が絶えない

 

権限には責任がついて回ります
権限を持っている人は、責任を持っています。
強い権限を持つ人は、重い責任も担います。
「権限は持ちたいが、責任は持ちたくない」といったばかなことは通用しません。
「権限はなかったが、責任だけは負わされる」ということも当然あってはなりません。

 

徳川家康は将軍職を委譲した後も「大御所」として絶大な権限を持ち、采配を振るいましたが、それだけ彼の一言には、重い責任がありました。
有名な遺訓に

「人の一生は重荷を背負って遠き道を行くがごとし」
“オレの一生は重い荷物を背負って、果てしない道を歩き続けるような一生だった”

と述懐していますが、彼の「重荷」とは、彼が背負っていた責任、ともいえましょう。
日本全国の舵取りをする重い責任です。

 

「あの人のようになりたいなあ」と権限ばかり夢見ている人には、権限あるポストはめぐってこないものです。
世の中は上手くできていて、責任を持つ覚悟のできた人に、権限が与えられるのです。
責任を持たない者が、「長」と付くような権限のある役職についた場合、やがて馬脚を現し、糾弾される結果が待っているだけです。

 

私の住んでいる富山県では、3年前、政務活動費の不正取得問題で議員の辞職が相次ぎました。
政務活動のための経費として、議員は交通費や宿泊費など請求できる立場ですが、それは重い責任を果たすための権限であって、その責任を担う自覚のない者は深く懺悔し、速やかにその立場から降りるのは当然のことです。

 

 

重い責任に押しつぶされそうになる

 

2018年W杯では「何事も“決定する”とは難しいものだな」と、考えさせられました。
何か決定すると、そこに必ず批判する者が出てきます。
重大な決定であればあるほど、批判は大きくなります。
「なぜ今の時期ハリルを代えた?」
「おっさんジャパンでないか。本田を外して若手を使え!」
「キーパーの川島を代えろ!」
「なぜ最後の10分、攻めなかった?」
いずれも力説する本人は、自分の主張が正しいと信じており、なぜかと問われれば、熱く語れる根拠もある。
そして何より彼らの主張は「勝ちたい」と思っているからこその切実な訴えなのです。

 

しかしだからといって、それらの訴えに、いちいち頷いていたら監督は務まらない。
意見として耳を傾けるのは大事ですが、結局、最後は自分がただ一つの道を決めなければなりません。
その決断は、多くの人の切実な訴えを切り捨てることになり、場合によっては恨みを買うでしょう。
あんな奴が監督でいいのか、とごうごうたる批判も覚悟しなければなりません。
それでも監督となれば、決めなければならないときがあります。

 

特に大勢の意見が「東に行け」という時に、ただ一人「西に行く」と決断するのは、並大抵ではありません。
断固たる勇気が要ります。

 

サッカーを例に出しましたが、サッカーならまだいい。
負けても人が死ぬわけではないし、国が滅びるわけではない。
しかしこれが一国の大統領、首相ともなれば、サッカーとは重さが違います。
リーダーの舵取りに一国の浮沈がかかっているのですから。

 

 

こちらのケネディの写真は有名です。
米ソの核戦争が勃発するかと世界中が固唾をのんだキューバ危機の最中、アメリカの飛行機がキューバで撃墜された、との一報を聞いた時のケネディの様子を映した一枚です。
まさにこの一報は、世界が核戦争に最も接近した瞬間でした。
一枚の写真から「リーダーの苦悩」がありありと伝わってくるようです。

 

大統領の周りではさまざまなブレーンが軍事や経済の分析をしますが、最終的に決断するのは大統領です。
全責任が自分の両肩にのしかかるプレッシャーは、いかほどでしょうか。
「楽は下にあり」
重い責任に押しつぶされない強靱な精神力がなければ、とても一国のリーダーなど務まるものではないな、と痛感する一枚です。

 

W杯後に西野監督が日本代表の監督を辞任したのも分かる気がします。
とにかく休みたかったのではないでしょうか。
あの2ヶ月間の精神的疲労は、余人の想像のできないものがあったでしょうから。

 

上に立つ人ほど、大変です。
責任も重いので、悩みも大きい。
誰にでも務まるものではないことは明らかです。

 

 

 

上に立つ者の責任。楽は下にあり

 

復興相が「東北でよかった」との発言の責任を取り、辞職したことがありました。
前後の文脈からすると「首都圏で震災が起きたら、より甚大な被害だった」と表現したかったのでしょうが、一部分だけ切り取られて問題にされ、世間中から「恥ずかしい」「情けない」「開いた口がふさがらない」「絶対に許せない」と批判の大合唱でした。

 

確かに軽率な失言でしたが、別に「死んでよかった」「震災が起きてよかった」という意味での発言ではないですし、まるで彼が「人でなし」かのように寄ってたかって辛辣に責めなくていいではないか、と思えてきます。
もっと人の心を踏みにじるひどい犯罪は毎日ありますし、犯罪とまでいかなくても、最近のネットなどで目にする、芸能人や外国人への露骨なヘイト発言の方が「悪意」という点からいうと、ずっと問題ですし、さらに言えば周りだけでなく、自分の心の中をのぞけば、とても人に言えないようなことを思うこともあるのですから。

 

とはいえ同情はしますが、擁護する気持ちにもなれません。
現職閣僚の発言ですから、こう言われても仕方ないと思います。
批判にさらされなければならない立場だと覚悟して、本人も立候補したのだろうし。

 

このたびの一連の不祥事も大臣ではなく、近所のおじさんなら「口が悪い、すぐ怒鳴るおやじ」くらいで済んだでしょうし、その評価の後に「でも人の良いところあるよ」とつけてもらえるくらいの分別のある人かもしれません。
ただ現職の大臣のいうことではなかったということです。
発言の重みが違うということでしょう。

 

よって、この一連の報道で私が思ったことは、一言で言うと「楽は下にあり」ということです。
上に立つ人ほど責任が重くなり、苦境に立たされることが多い、ということです。

 

それでもなお、人は上の立場を目指すのはなぜでしょう。
ちょうど夏の夜の殺虫灯のようなものです。
虫がバチッと音を立てて死んでいく殺虫灯。
バチッと音を立て自分の仲間が死んでいるのを見ているのに、次の虫もまた殺虫灯に飛び込んでいくようなものです。
国会議員になりたい、今度は大臣になりたい、今度は首相になりたい、とより重い荷物を背負いたがる人が世の中には多く、その重い荷物のために悲鳴を上げ、挫折する人もまた多いです。

 

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