どんな人にも生きる意味があると説かれた親鸞の教えとは

色欲とはどんな意味か。仏教では否定されるのか。

 
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菊谷隆太
こんにちは、菊谷隆太です。 東京、大阪、名古屋を中心に仏教講座を主催する仏教講師です。 専門は浄土真宗で、「教行信証」「歎異抄」を学び、皆さんにもお伝えしています。 このサイトは「どんな人にでも生きる意味がある」と宣言された親鸞という方の教えを知っていただきたいと思い、開設いたしました。

今回は仏教で説かれる『五欲』の一つ、『色欲』についてお話しします。
『色欲』とは、男性は女性を求める、女性は男性を求める心です。

 

色欲は常に物語の主役だった

 

『思い出すよじゃ 思いがうすい 思い出さずに 忘れずに』

これは京都のある遊女が、江戸に戻ることになった恋仲の男に贈った粋な歌です。
別れの際に「これを私だと思って」と、遊女が男にかんざしをプレゼントしました。
その時に男が「このかんざしを見るたびに、お前のことを思い出すよ」と言ったところ、遊女が悲しそうな顔をして詠んだのがこの歌です。
「思い出すようでは、思いがうすいのではないですか」とは、こういうことです。
「このかんざしを見るまでは、私のことを忘れているということですか。私はあなたのことを、思い出すということがありません。なぜなら、忘れるということがないからです。朝起きるときも、ゴハンを食べる時も、お風呂の時も、いつもいつもあなたのことばかり思っています。だから、あなたのことを“ああ、思い出した”と、はっとすることはありません。忘れることがないからです」
遊女は涙をポロポロこぼしながら、まっすぐに言いました。

 

あなたは、こんな燃えるような一途な恋を経験したことはありますか。
「寝ては夢、覚めてはうつつ」ともいわれます。その人のことを想うと、夜もなかなか寝付けず、何回も寝返りを打つ。やっと寝れば今度は好きな人が、夢に現れる。起きていても常にその人のことばかり考えて、ぼーっとしている、こんな状態を「恋煩い」と言います。
ここまで人を一途にさせる「恋愛の情」は、多くの人を迷わせ、多くの人を喜ばせ、泣かせてもきました。間違いなくこのテーマは古今東西、小説でも歌でも映画でも、常に主役でした。
仏教でも『色欲』といって、5つの大きな煩悩の一つとして数えられています。
恋愛の情を仏教の視点からお話いたします。

 

 

色欲は人を幸福にさせ、苦しませもする

 

【恋愛は人間にとって最大の幸福である】と言えます。
なぜそう言えるのか。
遺伝子学を持ち出して、種の存続上、肉体にそのようにインプットされているから、とか、脳科学では恋愛中の人間の脳には(なんやら)という麻薬に似た成分が分泌され、(どうなる)とか、いろいろ言われていますが、そういうことを学ばなくても経験上からも、愛する人との心のふれあいが如何に大きな喜びをもたらすか、みなさん、経験済みかと思います。

 

【恋をするときれいになる】とはよくいわれることです。
確かに人は恋をすると、別人のように精力的に仕事に打ち込んだり、笑顔一杯、快活に、目の輝きも変わります。
それはやはり、愛する人を支えたいと思うからでしょうし、愛する人に応えられる人間になりたいと思うからでしょう。

 

先日、勉強会に奥さんに誘われて一緒に来られた、まだ20代の若いお父さんが言われていたことが心に残りました。
中学時代は札付きの問題児で、親と学校を恨んで、荒れに荒れていたそうです。
中学卒業して社会に出て働き始めた印刷会社で、共に働く工員だった女性で、彼にとって始めて心底から好きになった人ができたそうです。(今の奥さんです)
「この人を幸せにしたい」「この人の笑顔を守りたい」と強烈に思うようになり、同時に「オレみたいな者にこんな温かい心があったんだ」と気付いて、なんとも言えないうれしさがこみあげてきた、と言っていました。

 

特にわたしが聞いていて、心が温まったのは、彼の以下のエピソードです

中学のときに恐喝で少年院に入ったが、入所してから3日後が誕生日だった。
夕食にケーキ、ちょこっと小さくのっていたのに感動した。
誕生日を祝ってもらったことがうれしかった。
誕生日の時に家族は自分残してハワイ旅行だった。
今は奥さんと子供もいてオレも丸くなった。
どんなに貧乏でも子供の誕生日には、子供にはケーキは買うんだ。

 

今は一時のパパで、頑張っておられます。
「自分を変えてくれた恩人は彼女なんです」という照れ笑顔は、かっこよかったです。

 

自分を劇的に変えてくれるそんな運命の人と出会いは、人生における深い喜びです。
ほかの何物にも代えられないでしょう。
しかし同時に今まで経験したことのない、深い悩み、あせり、動揺、嫉妬、絶望なども、一気に押し寄せることとなります。
恋愛も気軽な気分で楽しんでいるときはそうでもないのでしょうが、それが真剣になればなるほど、笑ってばかりおれない、むしろ苦しみの多いものになるのではないでしょうか。

別れては恋しく、会えば敵同士となって傷つけあう。満たされなければ渇き、満たせば二倍の度を増して渇く

お釈迦様のお言葉です。

 

 

色欲に苦しまれる親鸞聖人

 

悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し
(なんと親鸞は情けないことか。愛欲が広い海のようにあって沈没しているではないか)

親鸞聖人は「愛欲の広海に沈没している親鸞だ」と自己の姿を告白されています。
異性を求める心を“広い海”と表現されているのも激しいですし、そこに浮き沈みつつ溺れ苦しんでいる、というのではなく、沈没している、と言われているのも強烈です。
溺れてアップアップしているというなら、水面に顔を出したり、出さなかったりというように、色欲に悩まされることもあれば、悩まない時もある、と言えましょうが、沈没している、というと、もう浮かぶ瀬がない、四六時中、色欲の心に振り回されて、絶えることがないということです。
己の悲しい実態をはっきりと知らされなければ、出てこない譬喩表現でしょう。

 

このような親鸞聖人の赤裸々な表現に、多くの文学者や思想家は魅かれ、自己をごまかさず見つめられ続けた方だった、と賞賛し、人間くさい方だった、だから好きだ、と感嘆します。
親鸞聖人をあまりよく思っていない人の中には、あまりに生々しく露出しすぎだ、と評する人もあります。

 

『色欲』というのは、元来私たちの欲の中でも一番隠しておきたい心であり、節操のない、不潔でみっともない心のように感じます。
小説『青春の門』の主人公、伊吹信介も、中学、高校時代、クラスメートや幼馴染に抱く獣のような色欲の情に悩み、自分の心の中に醜いどす黒い犬がいる、と自分の心を表現しています。
「わたし、お腹すいちゃった~。」という食欲や「あ~、眠てぇ~」という睡眠欲は、自分の本能を直接的な言葉にすることができますが、色欲はそういうわけにもいきません。
みな隠しています。
色欲なんて、そんな心、まったく持ち合わせていない、というような態度や表情を演じてます。
下心と言えばこの色欲を指すケースが多いことからもわかります。

 

精力的な人権運動家も、熱血教師も、清廉な聖職者も己の正義を語り、真理を口にし、一途にその道一つ貫いているように思いますが、その腹底には畜生のようにウロウロとうごめいている色欲があります。
お釈迦様はそれを見抜かれてでしょう。
美しい女性を見た時に、邪淫を行う畜生の心が燃え上がるさまを、このように説かれています。

あらゆる人は常に淫猥なことばかり考え、婦人の姿ばかりに眼を輝かせ、卑猥な行為を思いのままにしている。我が妻を厭い憎んで、他の女をひそかに窺うて、煩悶の絶えたことなく、愛欲の波は高くよせかけよせかけ、起つも坐るも安らかでない

親鸞聖人は女人禁制の比叡山で一心不乱に仏道修行一つに心を集中させ、明鏡止水の境地を目指した方でしたが、鎮めようとすればするほど逆巻く己の色欲に絶望され、29歳で下山されたのです。

 

比叡山での色欲との葛藤

 

親鸞聖人は9歳から29歳まで、比叡山でご修行に励まれました。
比叡山は京都と滋賀県の間にある山です。
今でこそ観光の名所ですが、当時は女人禁制の地でした。
どうしても女性が周りにいると、執着が生じ、嫉妬も芽生え、争いもおきます。
木や石しか周りにない環境なら、心かき乱されることなく、一途に仏道修行に打ち込めるようになるだろうということで、女性の立ち入りが禁じられていたのです。

 

親鸞聖人はこの比叡山で一心不乱に修行に励まれ、『叡山の麒麟児』とうたわれた方でした。
「学問でも修行でも親鸞の右に出るものはないだろう」と評価されます。
ところがそんな親鸞聖人に心密かに想いを募らせる女性が現れ、痛々しいほどに煩悶されることとなります。
心を静めて修行に打ち込もうとすればするほど、女の面影が浮かんでくる。
経文の底から妖艶な笑みがわき上がり、仏像の顔が女性に変じる。
邪念を振り払おうと山々を全力疾走されても、闇の木立から、「親鸞さま、親鸞さま」とささやきがもれてくる。
どうにも女性のことが頭から離れず、親鸞聖人はどうにもならない自分の心に泣かれるのでした。

 

時代はちょうど源平合戦の折、「平家の血を根絶やしにせよ」の頼朝の命で、壇ノ浦で滅亡した平家の落ち武者は源氏の目を逃れて、人里離れた山奥深くに隠れ住んでいました。
今も平家の落人が住んだのが始まりとされる村も、全国各地に点在します。
その平家の落武者の中には、比叡山へ逃げ込む者もありました。
当時の比叡山は、血なまぐさいものは入山を禁制されており、殺生を生業とする武士は入ることは許されず、源氏の者も手を出せない、一種の治外法権だったからです。
平家の落ち武者は「にわか坊主」となって山に逃げ込んだのでした。

 

僧侶の格好はしてはいますが、それは形だけで、魂の解決を目指して仏道を求める心はありませんから【偽装坊主】です。
彼らは昼間こそ修行の真似事をしていますが、夜になると、昔の酒池肉林の楽しみが忘れられず、「オイ、息抜きに行こうや」と、夜陰にまぎれて徒党を組んで山を抜け出し、祇園や島原の遊女と戯れていました。
夜中まで遊んでは、朝帰りで帰る日々です。
そんな生活ですから、昼間は居眠りばかりして、たまに起きていれば「昨日の女はこうだった。あそこの酒はうまかった」と、そんな話しばかりに興じている。
色と欲のうずまく京都を離れて、静かな幽山渓谷の地で、ひたすら仏道修行に励もうと志して比叡山に入られた聖人でしたが、聞きたくなくてもそんな話しが耳に入ってきます。
親鸞聖人の心もかき乱されるのでした。

 

親鸞聖人の比叡山での20年間は、逆巻く煩悩との格闘でした。
『歎徳文』という古書は、その生々しい苦闘の様子を今に伝えています。

「定水(じょうすい)を凝(こら)すと雖も 識浪(しきろう)頻(しきり)に動き、心月(しんげつ)を観(かん)ずと雖も 妄雲(もううん)猶(なお)覆う」

比叡山から東を眺めれば眼下には、琵琶湖が広がっています。
親鸞聖人もご修行中、幾たびもこの琵琶の湖水を眺められたことでしょう。
「定水を凝すと雖も」
琵琶湖の水面は風がないときには波一つなく、鏡のように映えている。
何にも動じない、澄み切った心境をさして「明鏡止水」の境地といわれたりもします。
「あの湖水のように親鸞の心はなぜ静まらないのか」と悩まれた様子が伝わってまいります。

 

「識浪頻に動き」
【識】とは、煩悩です。
「思ってはならぬことが思えてくる。考えてはならぬことが浮かんでくる。恐ろしい心が噴き上がる。どうしてこんなに、欲や怒りが逆巻くのか。この心、なんとかせねば」

 

平静な湖水に比べて、渦巻く煩悩に泣く聖人が、涙に曇る眼を天上に移されると、満月がこうこうと冴えている。
【心月を観ずと雖も 妄雲猶覆う】
「あの月を見るように、なぜ、さとりの月が見れぬのか。みだらな雲がわき上がり、心の天を覆い隠す。いったいどうすれば」

 

「この山に私の助かる道があるのだろうか・・」
「どこかに私を導きたもう高僧ましまさぬか・・」
こうして親鸞聖人は天台・法華の教えに絶望なされ、ついに、下山を決意されたのです。
9歳で出家されてから20年目のことでした。

 

 

色欲に苦しむのは人類の実態

 

もう20年前になりますが、私がロサンズルスに滞在していた際、日系2世の方と知り合い、仏教を聞きたいといわれるので、ご自宅まで行ってお話しをしたことがあります。
その方に上記の歎徳文の一文「定水を凝すと雖も~」をお話した際に、目頭が熱くなられ、ご自分の悩みの心中を打ち明けてこられたことがありました。
その方はずっと、温かい家庭を持つことこそ、人生で最も大切なことだと思って生きてこられたそうです。
これは今日、多くのアメリカ人の持っている価値観のようです。
家族を守ることに一人の男が巨大な敵に立ち向かう、というテーマがアメリカ映画に多いのもそういうことなんでしょうね。
ところがここ二年近く、会社で部下の女性と不倫関係になってしまったとのことで、
奥さんと娘さんを裏切っている自分が情けなく、悩んでおられました。
もし発覚したら、それこそすべてを失うことになるかもしれないと、何度も関係をやめようとしたり、距離を置こうとしたそうなのですが、どうにもその人を失うことが辛すぎて、ずるずると関係を続けているそうです。
抑えようとしても、どうにも抑えきれないご自分の心に悩んでおられました。

 

逆の場合もありましょう。
ニュースでも時々、愛人と共謀して夫(妻)を計画的に殺害したとの事件が報道されます。
だいたい事件の顛末はこのようなものです。
・愛人の男と一緒になりたいが、夫がいるからできない
・さればといって、離婚は経済的な安定を失うこととなり、世間体を考えてもできない
・そこで「うちの夫、何かで死んでくれないだろうか」と、考えてはならぬことまで浮かんでくる。
・愛人との会話は、共通の邪魔である夫の悪口から、やがて「夫さえいなければ」と、夫殺しの計画にまで発展していく。
「愛する男と一緒に過ごしたい」という欲の前には、どんな恐ろしいことも考えます。
「鬼妻」「毒婦」と評される夫殺しの殺人犯と私たちの差は、縁(きっかけ)があったかどうかの違いだけで、驚くほどその違いはないのではないでしょうか。

 

グーグルなどの検索サイトには「サジェスト」機能というものがあり、なにか言葉を入力しスペースを押すと、よく検索されるような関連ワードを調べてくれます。
「夫」と検索してみるとどうでしょう。
「夫 嫌い」「夫 死んでほしい」「夫 死ね」「夫 死亡 手続き」
絶句しますが、これが妻の夫への思いの、偽らざる現実ということでしょうか。

 

清らかでいたい、誠実でいたい、おだやかでいたい、と誰しもが願いますが【わかっちゃいるけどやめられぬ】どうにもならない悪性に、ただ悲泣せずにおれない人間の実態がここにあります。

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