どんな人にも生きる意味があると説かれた親鸞の教えとは

仏教の「四苦八苦」とはどんな意味か、わかりやすく解説する

2020/11/19
 
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菊谷隆太
こんにちは、菊谷隆太です。 東京、大阪、名古屋を中心に仏教講座を主催する仏教講師です。 専門は浄土真宗で、「教行信証」「歎異抄」を学び、皆さんにもお伝えしています。 このサイトは「どんな人にでも生きる意味がある」と宣言された親鸞という方の教えを知っていただきたいと思い、開設いたしました。

「四苦八苦」という言葉があります。
今日の意味では「いや、こないだは部下のミスで四苦八苦したよ」というように、困ったり、大変だったりしたときに使われます。
しかし実は「四苦八苦」の語源は仏教であり、今使わている意味と本来の意味はちがっています。
いつ、どこに住まいしようとも、人間である限り避けられ8つの苦しみをお釈迦様が教えられたのが「四苦八苦」です。

生苦(しょうく)-生きる苦しみ
老苦(ろうく)-老いる苦しみ
病苦(びょうく)-病の苦しみ
死苦(しく)-死ぬ苦しみ
愛別離苦(あいべつりく)-好きな人や物と離れる苦しみ
怨憎会苦(おんぞうえく)-嫌いな人と会わねばならない苦しみ
求不得苦(ぐふとっく)-求めるものが得られない苦しみ
五陰盛苦(ごおんじょうく)-肉体あるゆえの苦しみ

 

生苦から死苦までの4つの苦しみを「四苦」、
それにあとの4つの苦しみを加えて「八苦」と教えられています。
一つ一つお話ししていきましょう

 

四苦八苦の一つ「生苦」とは

 

お釈迦様が説かれた四苦八苦の一つに「生苦」があります。
生きることは苦しいことである、とお釈迦様は仰です。
「生きているのは楽しいよ」という人も見かけますが、これはどうなんでしょう。
本気で言っているのではなく、苦しいと言うとみじめになりますし、だめな人間、弱い人間と思われたくない気持ちがそう言わせている人も少なからずあるように思います。

 

ビジネス書や自己啓発本を読んでいるとためになることもある一方で、時々ふとテレビで通販の番組でも見せられているような感覚を受けてしまい、うんざりした気持ちになることもあります。
書いている人が「幸せだ」と言っている、その言葉がどこか嘘くさいからです。
本当に幸せな人はこういう言い方はしないだろうと、感付いてしまうことがあるからです。

 

ビジネス書を書いた人なら自分がいかに苦境にあったか、それをこのビジネスメソッドにより今はこんなに成功して幸せです、とストーリーを描けなければ、本が売れない、名声が高まらないから言っているのが透けて見えてきて、本当にその人の心のうちに「それで今お前は幸せになったか。満足したか、安心できたか」と自問自答したらなんと返ってくるか、その本音はその本には書かれていないのだろうと感じます。

 

自己啓発本を書いている人でも「ついてる、ついてる、ありがとう」と心を変えたら人生が激変したと語っていますが、それも自分を使ってのセールストークです。
本当にその人の心の中に「生まれてきてよかった」「生きるとはなんてすばらしいのか」とあふれ出るものがあるでしょうか。
「生きていることに感謝」「人生は楽しい」そう思わなかったら苦しすぎるので、自らの言葉でなぐさめているかのように感じます。

 

「強がりで言っている人ばかりではない。本気で言う人もあるのではないか」
そんな人も中にはいるかもしれませんが、その場合はしばらくの間だけです。
決して続くものではありません。

 

四苦八苦の一つ「老苦」とは

 

人類史において長らく「長寿」は貴重なことであり、幸福の大きな要素でした。
祝いの意を表す「寿(ことぶき)」という字が使われますし、88歳の米寿のお祝い、99歳の白寿のお祝いなど、長生きした区切りにお祝いの行事もありました。
つい150年ほど前まで人類は、はしかや胃かいようなどの病でも命を落としましたし、疫病で村の半分が死んだ、とか、飢饉が襲い村が全滅した、といった事態がそこかしこで起きました。
そんな時代にそれらの不幸や災難に遭わずに長生きできることは、貴重なことであり、人々にとってこよなく幸せなことでした。

 

その長らく人類が幸せの要素と固く信じてきた「長生き」が、比較的容易に手に入れることができるようになった現代、果たして長生きは幸福といえるのだろうか、と人類は疑問を持つようになってきています。
しかもそれは皮肉にも、幸せになりたいと人類が全身全霊、長寿の研究工夫を重ね、長生き社会が実現できてしまったからこそ、起きてきてしまった疑問なのです。

 

その現代でも、もっとも「長寿」を体現した国が、この日本です。
日本の有する高度の医療技術、食生活、清潔な住環境、しっかりした社会保障制度は、この国を世界一の長寿国にのし上げ、今や60歳以上の人口割合の世界平均は14%に対し、日本は40.9%、超高齢化国家です。
ところがそのことで世界のどこよりも切実に「長生きは良いことか」という課題を突きつけられています。

 

寝たきりの親の介護で仕事を離れ、その状態が何年も続く「介護離職」
80代の老いた妻が80代の老いた夫を介護する「老老介護」
軽い認知症の夫が重い認知症の妻を介護する「認認介護」
増加し続ける社会保障費、現役世代の負担増、それに伴う少子化、
高齢者の暴走事故、振り込み詐欺、孤独死etc…..

 

「子供に迷惑かけてでも長生きしようとは思わない」
「ぽっくり死にたい」
「長生きすると、貯金が不安だ」
と世間中がまるで長生きが不幸をもたらす元かのように語っています。

 

2600年昔、お釈迦様は

「人身受け難し 今すでに受く」
“生まれがたい人間に生まれ、生き続けていることはなんとありがたいことだったのか”

と心底から長生きできたことを感謝せずにおれない幸福があることを教えられました。
「長生きしなければ、こんな幸せがこの世にあることを知らなかった」
「老いても、病になっても生きねばならない理由は、この身になるためだったのか」
と老いと病と死を超える幸せがあることを、釈迦は生涯かけて説かれました。
またその幸せにどんな人でもなれることを鮮明にされたのが、800年前、鎌倉時代に現われた親鸞という方でした。
仏教は、長生きの意義を感じられなくなった現代人の心の闇を晴らす教えなのです。

 

四苦八苦の一つ、「病苦」とは

 

人食いバクテリアの感染が急増しているとのニュースが流れました。
正式には「A群溶血性連鎖球菌による急性の感染症」というのですが、「人食いバクテリア」とはずいぶん恐ろしい通称がつけられたものです。
しかし名前だけでなく、実際にもかかると3~4割が死亡するという恐ろしい病気だそうです。
高熱や筋肉痛、血圧低下が起こり、急激に病状が進行してショックや手足の壊死(えし)、多臓器不全で死ににいたります。

 

ある45歳の男性のケースが紹介されていました。
足(下肢)の痛みはあり、自分で自動車を運転し病院へきた男性が、待合室で待っているうちに下肢の腫(は)れが増悪(ぞうあく)し、気分が悪くなり、ただちに入院することになり、まもなく急性心停止で死亡、というのですからぞっとします。

 

感染する人の3~4割は働き盛りの30代~50代であり、菌自体はエボラ出血熱などと違ってどこにでもあるものなので、対策としては風邪と同じく、うがいや手洗い、マスクの着用くらいしかありません。

 

日本で初めて発症が確認されたのが平成4年、徐々に増えています。
医学が進歩し、数々の治療法、免疫の薬などでき、多くの病を克服した現代ですが、同時にウィルスの方も薬に負けないスーパーウィルスが出現したり、新たに昔はなかった現代病ともいうべき、原因不明の様々な心身の病が私たちを襲ってきています。
お釈迦様は人間の四つの普遍的な苦しみの一つに『病苦』を挙げておられますが、あれから2600年経っても今なお病のために苦しんでいる人が絶えません。

 

病気になるとお金もかかる、仕事にもつけなくなる、家族との人間関係にもひずみが出てくる、本人もいつ治るかわからない未来への不安、得体のしれない死の恐怖も呼び起こす『病苦』の恐ろしさが思い知らされます。

 

嫌なことですが、人間は必ずいつかは『病苦』と向き合わなければなりません。
老いと病と死を超えた、本当の幸福を獲得することこそ、私たちの人生の目的だと説かれた釈迦の教説が胸に迫ります。

 

四苦八苦の一つ「死苦」とは

 

東京都の病院で人工透析を中止し、死亡した患者が6年間で24人あったと報道され、物議を醸しました。
院長は「医師が積極的に透析見合わせの選択肢を示したことはない」「透析の再開を望む患者の意思に反して再開を行わなかった事実も一切ない」と強調しました。
いわゆる「本人の強い希望により、人工透析を中止したのだ」との主張です。

 

「回復が望めない終末期に透析を続けるかどうか」という人工透析の見合わせ問題は、どの病院でも大小の差はあれ、直面している問題であり、今後、まずます高齢化に向かっていく今日の日本の直近の課題であり、しかもこのテーマは医学だけでは解決しない難しさを含んでいます。

 

大きく分ければ二つの意見があります。
一つは「医師が患者に透析中止の意思を尋ねるのは“死にますか”と聞くのと同じだ、患者に判断させるべきではない」という意見。
もう一つは「医師が治療に関する説明を尽くした上で、それでも患者が望むならば、その意思は尊重されるべきだ」という主張です。

 

ただここで問題になるのは、そもそも患者の意思といっても、「死にたい」となったり、「死にたくない」となったり、患者自身の精神状況が揺れ動くので、そこをどう判断するかということです。
人間の心はころころ変わりますし、自分の本心が自分でも分からない、ということはよくあるのではないでしょうか。
特に「死」においては、それが顕著に出てくると思います。

 

こんな笑い話があります。
寺参りを欠かさないお婆さんが、寺に安置されている阿弥陀如来の前に座って口癖のように言う。
「阿弥陀様、わしはつくづくこの世がいやになりました。今日も嫁が私をいじめるのです。早く今晩でもお迎えに来てください」
寺の小坊主は「あの婆さん、また、同じことを言っておる。よくもまあ飽きずに同じことが言えるものだ」といたずらをかんがえた。
いつものようにお婆さんが寺にまいってぼやくのを見計らって寺の本尊の真後ろに隠れる。
お婆さんが「早く迎えに来てください」と懇願するのを聞いて小坊主、声色を変えて「わかった!婆さん、今晩迎えに行くからな!!」と叫んだ。
すると婆さん血相を変えて「ひえー、ここの阿弥陀様は冗談も通じんわい」とあわてて逃げたと言います。

 

このお婆さんのように、口先では、早くこの世とおさらばしたいと言っても、本音は、死にたくないというのがよくあると思います。
「死んだ方がましだ」「死にたい」という声は多いですが、それは本心かどうか分かりません。
「本心だ」と本人が思っていても、それが本心かどうかわかりません。
本人が「死」をまじめに見つめていないからこそ言えているだけの言葉かもしれないのです。

 

生きている人間にとって「死」ほどの大問題はありません。
「これができたら死んでもいい」「いっそ死んじゃいたい」「さっさと死にたい」とふだん何気なく使っている「死ぬ」という言葉ですが、本来「死」は決して軽々しく取り扱えることではなく、人間にとってこれ以上苦しいことはないので、「死苦」は万人の苦しみであり、四苦八苦の一つに数えられます。

 

四苦八苦の一つ「愛別離苦」とは

 

「愛別離苦」とは、“愛する人と別れなければならない苦しみ”のことです。
肉身との死別、失恋などの苦しみです。

『会者定離 ありとはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思わざりけり』

親鸞聖人のお歌です。
「会者定離」とは仏教の言葉で「出会った人は必ず別れなければならない」ということ。
誰しも大切な人とはいつまでも一緒にいたいものですが、この世は無常ですから、必ず別れねばならないときがあります。
嫌いな人なら、別れて清々するでしょうが、愛する人との別れは、強い苦しみを伴います。
仏教ではその苦しみを「愛別離苦」といいます。

 

海外居住、卒業式などで、好きな人と別れる時は辛いですが、生きているなら、また再会できます。
別れの中でも、特に辛いのは、死別でしょう。
散った桜は来年には咲きますが、消えゆく命は二度と戻りません。
もう一度会いたいと、どれだけ遺体にすがって泣き叫んでも、かなわない、その厳然たる事実が、さらに人を涙の谷底に突き落とします。

 

もう10年くらい前の話ですが、30代で最愛の夫を突然の交通事故で亡くし、女手一つで二人の子供を育て、ようやく下の子が大学に入り、「時間ができたので」と仏教講座に来られた女性が言われていたことが、今も心に残っています。
「夫を亡くしたとき、あの人一人だけがいなくなったのではなく、家族みんなを包んでいる空気ごと、あの人はあの世に持って行ってしまった」と言われていました。

 

考えたくないですが、死は万人の将来ですから、大切な人ともやがて必ず別れる時があるのを、誰しも覚悟しておかねばなりません。
しかしどんなに覚悟していても、大切な人との別れは「昨日今日とは思わざりけり」
まさかこんなに早くその時がやってこようとはと、今起きている現実が受け止められず、「早すぎる、嫌だ、嫌だ」と悲泣せずにいられないものなのでしょう。

 

四苦八苦の一つ「怨憎会苦」とは

 

仏教に説かれている八つの苦しみの一つに『怨憎会苦』があります。
怨み、憎む人と会わなければならない苦しみ、のことです。
この苦しみは多かれ、少なかれ、みなよく分かられることと思います。

 

どうしても生きていると、嫌な人が出てきます。
苦手な人、イライラする人、その人といると、必ず嫌なことを言われたり、されたりする、そんな人のことです。
できればそんな人とは会話したくないですし、顔を合わせたくないですし、視界に入るのも嫌なのですが、生きていく以上、そういう人とも会っていかねばなりません。
そこには多大な苦しみが生じるので、お釈迦さまは『怨憎会苦』と説かれているのです。

 

誰だって好きな人とだけ会って、嫌いな人は会いたくない、一緒にいて気持ちのいい人だけそばに来てほしいし、近くにいると緊張したり、苦痛を感じる人は遠ざけたい、これはすべての人の本音です。
しかしそんなわがままが通るはずもなく、嫌な人とも顔を合わせ、一緒にやっていかねばなりません。
どうしようもないことです。
それが嫌だというのなら、引きこもるしかない。
引きこもっていたら生活できませんので、生きていく以上、「怨憎会苦」と戦っていくしかありません。

 

部署に嫌な人がいるからと部署替えしてもらえば、今度は新しい部署で嫌な人が出てくる。
パワハラ上司が嫌だからと会社を変えると、新しい職場にもまたパワハラ上司がいる。
いっそのことと思い切って起業すると、今度は顧客に嫌な人が出てくる。

 

中には、怨憎会苦の対象が家庭内にいる、ということもあります。
姑だったり、夫だったり、妻だったり、親だったり…..
その場合、寝食共に顔を合わせ、しかも一生付き合う仲になるかもしれず、その苦しみは終わりがなく、深刻です。

 

この「怨憎会苦」をどう乗り越えていけばいいのでしょうか。
これは古今東西の人類共通の課題と言えましょう。

 

四苦八苦の一つ「求不得苦」とは

 

仏教では苦しみを八つに分けて教えられていますが、その一つが「求不得苦(ぐふとっく)」です。
文字通り“求めても得られない苦しみ”です。
釈迦は、全ての人が逃れられない普遍的な苦しみの一つとしてこの苦しみを説かれています。

 

こう聞かれて、全ての人の受ける苦しみとはいえないのではないか、と疑問を呈する人があります。
中には求めてきた目標や夢を達成して満足している人もいるではないか、たとえば金メダルを獲得した人、ノーベル賞を受賞した人、自分の作った曲がヒットした人、など。
そんな人は“求めても得られない苦しみ”はないだろうから、万人の普遍的な苦しみとはいえないのではとの疑問です。

 

ですが釈迦は、そんな人も「求不得苦」で苦しんでいる姿に変わりはないと、説かれています。
なぜなら一つのものを手に入れても、今度は何か違う次のことを求めてしまい、なかなか得られずに苦しむことになりますからです。

 

文豪、夏目漱石の「吾輩は猫である」に評されている西洋文明論は「求不得苦」が万人の普遍的な苦しみであることを示唆しています。

西洋人のやり方は積極的積極的と云って近頃大分流行るが、あれは大なる欠点を持っているよ。
第一積極的と云ったって際限がない話しだ。
いつまで積極的にやり通したって、満足と云う域とか完全と云う境にいけるものじゃない。
向に檜があるだろう。あれが目障りになるから取り払う。
とその向うの下宿屋が又邪魔になる。
下宿屋を退去させると、その次の家が癪に触る。
どこまでいっても再現のない話しさ。
西洋人の遣り口はみんなこれさ。
ナポレオンでも、アレキサンダーでも、勝って満足したものは一人もないんだよ」

無限の欲を持つ私たちには「求まった」という満足や完成がないことを「求不得苦」と釈迦は喝破されました。
その上で人生には

「人身受け難し、今すでに受く」
(よくぞ人間に生れたものぞ)

という大満足する境地があることを、釈迦が教えられたのは驚嘆すべきことです。

 

四苦八苦の一つ「五陰盛苦」とは

 

「五陰盛苦」の「五陰」は肉体(心身)のことで、「五陰盛苦」とは、「肉体が盛んなるゆえの苦しみ」です。
これまでの7つを総括されたもので、この肉体によって苦しみみながら、老いて病気になって死んで行くのです。

 

仏教では、人間は5つのもの(五蘊〔ごうん〕や五陰といわれる)で成り立っていると教えられます。
その肉体があるゆえにさまざまな苦しみがやってきます。
五陰盛苦は、四苦八苦をまとめたものといわれます。

 

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