仏教・浄土真宗の説く相対の幸福と絶対の幸福の違いを徹底解説

仏教には、幸福に二つあると説かれます。
「相対の幸福」と「絶対の幸福」です。
この二つの違いがわからないと、仏教はわかりませんし、本当の幸せにはなれませんので、よく知っていただきたいと思います。
相対の幸福とはどんな幸福か
幸福や不幸は、比較して始めて感じるものです。
それは私たちが相対の智恵しか持っていないからです。
こぶし大の大きさの玉を指して「これは大きいか、小さいか」と尋ねても、誰も答えようがありません。
ボーリングの玉と比べたら「小さい」。
ビー玉と比べたら「大きい」。
大小は何と比較するかによって変わります。
私たちの幸福もまた然り。
今の状態が幸福なのか、不幸なのか、誰かと比較して感じるものです。
だから私たちの幸福を、「相対の幸福」といいます。
3年前に購入した中古車のエンジンの調子が悪く、時々がたがたと車体が揺れます。
安い中古車なので、いたしかたないことですが、友人の高級車に乗ると、広々としてかつ静かで、居心地が良く、「いいなあ」と羨ましくなります。
ところが私が子供の頃は(昭和50年代です)うちの車も窓も手動でクルクル回して開けていましたし、雪の日はその都度チェーンをつけ、がたがた揺れながらの運転だったのを覚えています。
その時と比べたら今のうちの車は自動で窓の開閉ができ、冷暖房完備、雪が降っても降らなくても対応できるタイヤで運転できますから、この中古車も捨てたものではありません。
これが江戸時代ではどうかといえば、最高級の乗り物は、大名行列で出てくる「駕籠」でした。
ところが「駕籠」にのるお殿様、お姫様も、相当辛かったようです。
振動が激しく、舌をかむ可能性が高いので、飲食はできません。
「さるぐつわ」で口を固定して、舌や歯を守ったようです。
夏は風通しが悪く暑苦しく、熱中症になり、冬はすきま風で寒く、風邪を引きます。
速度は時速4キロですから、参勤交代で何百キロ移動ともなれば、何週間ときつい中を我慢しなければなりません。
そんな時代の大名が私の中古車に乗ったら、こんな幸せな乗り物があったのか、と感激することでしょう。
「なんてあなたは幸せなんだ」とうらやましがられるでしょう。
乗り物を例に話しをしましたが、すべてにおいてこれは言えます。
比較してはひがんだり、不満を持ったり、逆に自分より不幸な人を見ては安心したりと、変化する幸福、それが「相対の幸福」です。
相対の幸福は乱高下する
幸せは心の問題だから指標では表せません。
「おれの幸せ何グラムくらいかな」「おまえの幸せ、何センチ伸びたね」とか数値ではもう決められません。
モノなら数値化できますが、幸福は心のことだから客観的に測れません。
幸福は自分の心が、誰と比較するか、何と比較するかによって、変動します。
そういう幸福の特徴から、仏教では「相対の幸福」といいます。
一例を挙げましょう。
職場で10人のチームの一員に選ばれ、一つのプロジェクトに取り組み、利益をもたらした。
その後、部長に一人だけこっそり呼ばれ「君はこのたびのプロジェクトで頑張ってくれた。ありがとう。ささやかだけど、これで美味しいものでも食べてくれ」と封筒を渡された。
中を空けてみると、1万円入っていた。
部長が自分のことを認めてくれたことがうれしく、自分へのご褒美で、美味しいものを食べた幸せな一日だった。
ところが数日後、実はチーム全員、部長から、感謝の言葉と封筒をもらっていた。
ただ封筒の中身が違った。
なんと自分以外の9人は、5万円貰っていたのだ。
それを知った瞬間、今までの幸福感はどこへやら、「なんでオレだけがこんなに冷遇されなければならないのか」と不満になり、「何かオレだけ失敗でもしたかな」と不安にもなり、ブルーな気持ちに支配されてしまった。
この話で登場する「一万円」そのものは、幸福でも不幸でもありません。
「誰も貰っていないのに、自分だけ渡された一万円」は幸福ですが、「皆が5万円貰ったのに、自分だけ一万円」だったら、不幸です。
自分の心が、誰と比較するか、何と比較するか、によって、一気に幸福になったり、不幸になったりします。
これはお金や評価だけでなく、何においても当てはまる幸福の特徴です。
過去と比較する相対の幸福
誰と比較するか、何を比較するか、によって感謝したり、うれしくなったり、不満を覚えたり、さびしくなったりする、そんな私たちの幸福の実態を話しましたが、比較する対象は、決して他人とは限りません。
過去の自分と比較して、幸福、不幸を感じることもあります。
ドストエフスキーの『罪と罰』に登場するカテリーナ・イワーノヴナは、貴族の家柄でしたが、結婚に失敗し、今は貧困にあえぐ長屋暮らしで、娘を売春までさせて生計を立てている女性です。
「今じゃ想像もできないけどねえ、おじい様の暮らしてたころは、それはそれは楽しく、華やかだったもんだよ」
誰彼となく、昔の高貴な暮らしを語っては「なんで今はこんな目に」と、今のわが身の不幸を呪って、さめざめと泣くのです。
カテリーナのように昔の贅沢な生活が忘れられずに苦しむ人に、自己啓発やコーチングなんかでは「過去をひきずるから不幸になるんだ、今を生きるのが大事だ」とアドバイスするのでしょうが、それも口で言うほど簡単ではなく、本人も忘れようとしても、どうにも昔と比較してしまい、今が惨めに感じられてしまうのでしょう。
相対の智恵しか持たない私たちに、果たして純粋に「今」だけを見つめることができましょうか。
好きで好きで仕方なかった人、その人が近くにいるだけで「ああ、幸せだな」と思えた人。
そんな人と死に別れすると、その後の人生がずっと辛くなります。
何をしていても、その人とのことを思い出し、「あの人はもういないんだ」と胸が締め付けられる。
過去に心を置いてはいけない、今を歩こうと決意し、新たな人と付き合ってみるのですが、何かと「あの人とは違う」と比較してしまい、寂しくなってしまうのです。
よく言われる「亡くなった人には勝てない」とは、このことでしょう。
「不幸な境遇にあって、かつての幸せをおもうほど悲惨なことはない」
ダンテの『神曲』地獄篇の言葉です。
あまりに貴重な過去は、現在の地獄を余計惨めにさせます。
では、人と比較したり、過去と比較しては、幸福感が乱高下する、相対の幸福しか知らない私たちの人生に、絶対の幸福、と言えるものはあるのでしょうか。
なれるのでしょうか。
仏教はそのことについて詳しく教えられています。
相対の幸福と絶対の幸福の違いとは
仏教に説かれる「絶対の幸福」をお話しすると「絶対の幸福って、心の持ちようですか?」と時々訊かれます。
確かに絶対の幸福は心の幸福ですが、いわゆる多くの人がイメージし、言葉としても用いている「心の持ちよう」で得られる幸福とは、全く違います。
だいたい「心の持ちよう」ほど、あてにならないものはないのです。
『諸行無常』“一切は変わる”と説かれる仏教ですが、中でもとりわけ変わりやすいのは「心」だと教えられています。
盆の上の玉子のように、ころころ変わり続けるから「こころ」。
心ほど変わりやすいものはない。
ということは「心の持ちよう」ほど、あてにならないものはない、ということです。
「心の持ちようで幸、不幸が決まる」と主張する人の用いる例えで、よく知られるのは、「コップ半分の水」の話です。
コップに半分の水が入っている事実を見て、「もう半分しかない」と嘆く人もいれば、「まだ半分もある」と喜ぶ人もいる、という話ですね。
事実は一つでも、心の持ちようによって、人間の幸福はどのようにでも変わるのですよ、と主張する際に用いられる例えです。
「幸せはいつも自分の心が決める」というフレーズも、この思想から出てきます。
心の持ちようを礼賛する人は「“幸せになりたい”と思ったり、言ったりするのがよくないのだ」ともいいます。
「まだコップに水が足りないから、もっと水が欲しいという不満であり、その、現状を不幸だと思っているマインドこそが、今あなたを不幸にさせているのだ、と。
逆に「今、自分は幸せだなあ」と感謝するのは、コップに半分の水があることを喜び、幸せを感じているのだから、その人は幸せなのだ、との説です。
その主張はそれはそれで正しいともいえます。
「もう半分しかない」と不安におびえたり、「なんで自分は半分しかないのか」と不満になるよりも、今を感謝して「まだ半分もある」「こんなに自分は恵まれている」と思った方が、明るく楽しく生きられることはよくわかります。
しかしここで問題になるのは、その「心の持ちよう」が簡単ではない、ということです。
幸せは心の持ちようだよ、と誰かから聞かされ、まだコップに半分もあることを感謝しようとしていても、誰かから「半分じゃ何かあったら不安だよ、もう少し水が入っていないと」と忠告されると、やっぱり大丈夫だろうか、とまた心が憂鬱になってくる。
誰かの些細な一言でも、心がコロコロ変わっていきます。
また周りを見ると、みんな自分よりコップに水が多く入っている。
すると「なんで私だけがこんな目に」と、感謝しようにも、劣等感や焦燥感が先に立ってしまいます。
逆に周りの人がみんな、コップに水がほとんど入っていなかったら、「自分は半分もあって幸せだな」と感謝できます。
つまりどうしても周りと比較してしまうのです。
また今までの人生で、コップにいっぱい水が入っていた人なら、コップ半分に減ってしまったら、「半分しかない」と、どうしても思ってしまうのではないでしょうか。
ずっとコップに水が一杯だったのが当たり前で生きてきた人は、コップ半分の水に感謝しよう、と促されても、なかなか心が切り替えられません。
逆に、今までコップに水がほとんど入っていない辛い中、生きてきた人なら、コップ半分の水に心から感謝できるでしょう。
このように私たちはどうしても周りの人や自分の過去にとらわれ、比較して幸、不幸を感じてしまう存在なのです。
比較する幸福を「相対の幸福」といいますが、私たちは相対の幸福しか知りません。
絶対の幸福はわかりません。
「過去に固執しているからそうなるんだ」「人は人、周りの人にとらわれるな」と言われそうですが、そんな人に逆に訊きたいのですが、じゃあ誰が過去にとらわれず、今を生きることができる人があるでしょうか。
そんな聖人君子がいたら、お目にかかりたいものです。
心の持ちようだから、と頭ではわかっても、実際は借金で頭悩ませたり、人間関係でクヨクヨする日々を送っているのが、私たちの現実です。
素直に手を当てて自分の心を見つめれば、過去や周りに固執してしまう、そんな自分しかありません。
これを親鸞聖人は「煩悩具足の凡夫 」(煩悩の固まりの人間)といわれています。
そんな周りや過去に固執し、一喜一憂する私たちが、その固執する心そのままで大安心、大満足する境地が「絶対の幸福」です。
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