娑婆(シャバ)とは「堪忍土」(耐え忍ばなければならない世界)という意味

『娑婆』とは「この世」のことで、インドの言葉「サハー」に漢字を当てたものです。
意味は「堪忍土」。
堪え忍ばなければ生きていけない世界、ということです。
今回、『娑婆』について学びます。
なぜ刑務所の外を『娑婆』と言われるようになったか
この世で生きていくときには、腹が立っても、それを口や態度に出せないことがほとんどです。
腹が立ったからと、言いたいこと言ってたら、生きてはいけません。
我慢しなければなりません。
これは誰か一人のことではなく、みな同じです。
言いたいことをなかなかいえず、やりたいこともいろいろ抑えて、みな生きています。
人と接すればどうしても、あの人は好き、あの人は嫌い、という好き嫌いが生じます。
好きな人とは一緒におれず、嫌いな人とはなぜか接点が多い。
世の中は上手くいかないものです。
接点どころか、嫌いな人と笑顔で握手しなければならないこともあります。
顔見るのも嫌だという人とも、仲良くやっていかねばなりません。
自分の思ったとおりにできることなど、ほとんどありません。
言いたいことでも、我慢しなければならない。言いたくないことでも、言わなければならない。
まさにこの世は『娑婆(堪忍土)』です。
では、刑務所から出てきた人が「娑婆の空気はうまいぜ」と口にするように、刑務所の外を「娑婆」と呼ぶようになったのは、なぜなのでしょうか。
それは全く自由がない刑務所生活を「地獄」にたとえ、刑務所の外は、思い通りにならない娑婆とはいえ、地獄の刑務所暮らしと比べれば、まだずーっとましで、喜ばねばならないところだという意味から、そう言われるようになったそうです。
平安時代の高僧、源信僧都は「心に思うことかなわずとも地獄の苦に比ぶべからず」と書かれています。
心に思うことかなわないことばかりの娑婆(この世)だけれども、もっと苦しい境涯の地獄の苦と比べれば、恵まれた今を感謝しなさいよ、と説かれているのです。
なぜこの世は『娑婆(耐え忍ばなければならない世界)』になってしまうのか
私たちの住む世界はあっちぶつかり、こっちぶつかり、思うままにはならない「堪忍していかねば生きていけない世界」だから『娑婆』(堪忍土)といわれます。
思うままに生きている人は誰もいません。
それは一党支配の独裁者も、超大国の大統領も同じです。
夏目漱石は『草枕』の冒頭に、娑婆世界の実態を書きました。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい
「智に働けば角が立つ」
あいつは冷たい。人情味が薄い。杓子定規だ、理屈っぽい。ドライだ。
「情に棹させば流される」
優柔不断だ、頼りない、日和見主義だ、一貫性がない、
「意地を通せば窮屈だ」
意固地だ、頑固だ、融通が利かない、偏屈だ、
「とかくに人の世は住みにくい」
どんな生き方をしても、堪え忍ぶ世界です。
ではなぜこの世は、そんな住みにくく、生き辛い世界(娑婆)になってしまうのでしょうか
それは娑婆に住まいしている私たちが、煩悩の塊だからです。
自分さえよければいいと欲に動かされ、思い通りにならないと腹を立て、しかも慢心一杯だから、もう自分が悪いとは思えない、そんな煩悩の固まりの人間が住まいしているのが、「穢土」(煩悩に穢れた世界)ですから、すぐぶつかってしまい、おのずと堪え忍ばなければやっていけない世界となるのです。
夏目漱石は、草枕の上記の文のあと、こう続けています。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画ができる。人の世をつくったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向こう三軒両隣りに、ちらちらするただの人である
どの会社に勤めようが、どの人と結婚しようが、どの国に住もうが、どの時代であっても、そこにいるのは煩悩いっぱいの人間ですから、やはり「穢土」。
だから、常に堪え忍んでいかねばならない「娑婆」になるのです。
娑婆のことを煩悩林とも言われる
仏教では「大衆」を『煩悩林(ぼんのうりん)』と言われます。
『煩悩林』とは、煩悩の林、数々の煩悩が林立している、ということです。
煩悩とは、私たちを煩わせ、悩ませるもの。
ひとりの人間に108の煩悩があることから、「百八の煩悩」といわれます。
そのいくつかを言うと、
・思い通りにならないとすぐ腹を立てる心、
・幸福な人をねたみ、不幸な人をクスクス笑う心、
・そんな自分なのに人からは尊敬されたい一杯の心、
そういう心が煩悩です。
10人のグループが集まると、そこには1080の煩悩がある。100人のグループでは、10800の煩悩。1000人では、108000の煩悩。では東京ドーム5万5千人では?・・・・・・計算、大変ですネ。
何しろ「大衆」とは、ところ狭しと煩悩がウジャウジャと密生している密林、ジャングルのようなものだ、ということで「煩悩林」と説かれているのです。
「煩悩林」の中で生きるのは大変です。
芥川龍之介は「周囲は醜い。自己も醜い。そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい」と書き遺しました。
仏教では煩悩林(大衆)の住まいするこの世のことを『穢土(えど)』といいます。
「煩悩に穢れた世界」ということです。
この人間世界を、穢れた世界、とまでは思わない人は、ちょうど公園の臭いトイレでも、長くいると鼻がバカになって「臭い」と感じなくなってしまうようなものだと仏教では言われます。
その点、芥川は鼻が敏感な人だったので、とても穢土で生きていくのが、耐えられなかったのでしょう。
「穢土」に住まいし、傷つけ、傷つけられ苦しむ私たち大衆に、真の幸福があることを教えられたのが、親鸞聖人でした。
有漏の穢身は変わらねど こころは浄土に遊ぶなり
“穢土に生きるままで、煩悩林の真っ只中で、心は浄土へ往って遊んでいるように楽しく愉快だ”と、絶対の幸福があることを明言されています。
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