他人の目を意識しすぎる人への仏教【他人鏡】

私たちがふだん自己を知る手がかりとしているのは、多くの場合『他人鏡』
です。
『他人鏡』とは、他人様の目に映れた自分の姿を見ていくということです。
人は自分のことをあれこれと評価します。
「あの人はああいうところあるよね」「あいつってこういう人だよ」といろいろ言われることがありましょう。
それを虚心坦懐に、掌を加えずに「ああ、俺ってそういう人間なんだなぁ」と受け止めていくのが『他人鏡』です。
ではこの鏡、自分の姿を正しく映し出すでしょうか。
他人鏡は私の姿を正しく映すか
他人鏡は私たちの姿を正しく映し出すか、の問いに、お釈迦さまは「否」と答えられています。
それは他人は自分を評価するときに、どうしても「都合」という色眼鏡をかけて見るからです。
その人の存在が、自分にとって都合いい存在ならば、良い人だと思えてきますし、自分にとって都合の悪い存在だった場合は、悪い人に思えてきてしまうのです。
極端な例と思われるかもしれませんが、わかりやすい一例を紹介します。
ある一軒家で、主人がテレビを見ていたところ、居間に強盗が入ってきて、包丁で主人を縛り付け「おい、金を出せ。」と恐喝した。
ちょうどそこに、たまたまパトロール中の警察官が玄関に入ってきて、主人と強盗の、その現場にばったり出くわした。
主人と強盗は同時に警察官のほうを振り向き、両者そろって「あっ!」と驚きの声を上げた。
その時、警察官の姿は、主人と強盗にとって、それぞれどのように見えるでしょうか。
主人からすれば、スーパーマンのように見えるでしょう。
「地獄に仏とはこのことか」と、警察官を仏のように拝みたくなることでしょう。
強盗からすれば、鬼か悪魔か、何よりも怖い存在でしょう。
紺色の服に身をまとった、同一人物の警察官の顔が、都合が違うと仏にも鬼にも見えるのです。
さらに後日談ですが、この主人、この事件の一週間後、スピード違反で捕まった。
そのとき覆面パトカーから出てきた警察官が、一週間前、我が家で強盗を逮捕した、同じ警察官だった。
その警察官の顔を見たときに、今度はスーパーマンのように頼もしく見えるでしょうか。
仏のように慈悲深く見えてくるでしょうか。
これも都合によって、くるくる変わる他人鏡の一例といえましょう。
アン・ジュングン(安重根)と他人鏡
アン・ジュングン(安重根)という人がいます。
歴史の教科書に出てくるので、ご存知の方も多いと思います。
満州のハルビンで伊藤博文を暗殺した犯人ですね。
ところがお隣の韓国では、アン・ジュングンは独立運動の父として尊敬され、ソウルには記念館もあり、国民からも『アン・ジュングン先生』と敬愛されています。
日本では要人を暗殺したテロリストなのに、韓国では『アン・ジュングン先生』です。
一方、安重根に殺害された伊藤博文はどうでしょう。
韓国における彼の評価は、韓国を植民地化した張本人として極悪人扱いです。
日本では、1000円札紙幣の顔は、夏目漱石の前はこの伊藤博文だったのです。
明治維新の立役者であり、日本の初代首相であり、日本に貢献すること大だったということで、お札の顔になったのでしょう。
もしあなたが将来、1000円札紙幣の顔になったとしたら、それはよほど日本の国に著しい貢献した場合でしょう。
簡単にはお札の顔にはなれません。
その伊藤博文を暗殺した人が、韓国では英雄です。
韓国はお隣で、顔も日本人とよく似ていて、映画なんか見ていても日本人の情感に通じる、親しみの持てる国だと思うのですが、背負っている歴史が違えば、国民感情も変わってきて、都合が変わりますから、人物の見方もガラッと変わってしまいます。
歴史は「史実」といわれるように、本来、ノンフィクションでなければならないのですが、歴史書を綴る歴史家の都合、その歴史家に書かせている権力者の都合を抜きにして書き示すことはかないません。
歴史にはたびたび、酒色におぼれて国を傾けた皇帝や、冷血無比で横暴の限りを尽くした独裁者など登場しますが、本当にそういう人であったのか、誰がどういう立場として書き残した文献なのか、注意深く調べる必要があります。
他人鏡は当てにならないと説く一休
「今日ほめて 明日悪く言う 人の口 泣くも笑うも ウソの世の中」
禅僧一休の歌です。今日は「いい人だ」「運命の人だ」「立派な人だ」とほめていても、明日になると「あんなひどい奴だったとは」「人として最低」「あいつだけはやめとけ」と悪く言っている、人とはそういうものだ、ということです。
その人自身は昨日と今日で何が変わったわけではないのですが、人の口は、ころころころころ変わります。あてになりません。
そんな、あてにならない人の評価に、いつも一喜一憂し、ときに命を懸け、時間、体力、気力を使い果たしている、その姿は、21世紀の今も室町時代の一休さんの頃も変わらないようです。
【泣くも笑うもうその世の中】
悪口言われた、侮辱されたといって、自殺しようとしている人がいるが、おろかなことだぞ。
逆にほめられたからといって、有頂天になり、舞い上がっているのも馬鹿なことですよ」と一休は言っているのです。
あてにならない他人鏡を喝破した一休の言葉です。
そんなころころ変わる他人鏡を見て、泣いたり笑ったり、一喜一憂しているのが私たちの実態です。どうしたらこの鏡に美しくうつれるか、心はそこに占領されています。
「他人鏡の奴隷」と言ってもいいでしょう。
他人鏡に自分の姿がきれいに映るときは、うっとり見つめて、鏡を大事にして、表面を磨きますし、他人鏡に悪く映れるときは、落ち込んだり、怒り狂って鏡を割ろうとします。
他人鏡に振り回されている私たちへのブッダのメッセージ
「便所飯」という言葉があるそうです。
読んで字のごとく“便所で飯を食べる”ことですが、最近かなり多くの若者がトイレの個室の中でひとり食事をしているらしいのです。
なんでわざわざトイレで。。。?
精神科医の和田秀樹氏曰く、
「彼らも好きで“便所飯”をしているわけではありません。学生食堂など人目につく場所でひとりで食事をしているところを他人に見られると“一緒にランチをする友達がいないんだ”と思われてしまう…。そういった強迫観念から、ひとりで食事をする姿を絶対に誰にも見られないトイレに逃げ込んでいるんです」
さらに、
「彼らは“友達がいない=最低な人間”と思い込んでいます。“最低”と思われるくらいなら、いっそ便所でこっそり食事をした方がマシと思っているんです」とのことでした。
『できる男に見える秘訣30』『家庭的な女と思わせるポイント25』などの雑誌の表紙を見ると、『できる男』にならなくてもいいから、『できる男に見える』のが重要なのか。実際は家庭的でなくても、付け焼刃で『家庭的な女と思わせる』のが大事なのか、と苦笑します。
【豚はほめられても豚 ライオンはそしられてもライオン】という言葉があります。
ブタは「まあ、落ち着いた、立派なブタ」とほめられても、やはりブタ。
ライオンを「やせてるし、毛並みも悪いし」とけなしても、やはりライオン、百獣の王の威厳は失わない。
同様に、『私』はほめられても『私』
そしられても『私』
ほめられたからといって、急にいい人間になるのでもない。
けなされたからといって、これ以上悪くなるものでもない。
周りがどう騒ごうが、私は私。
上がりも下がりもするものではない。
本当の自己を知っていれば、泰然自若としておれるもの。他人鏡に振り回されている私たちに「本当の自己を知りなさい」「本当の自己と対面しなさい」と教えられているのが仏教です。
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ではブッダは、真実の私の姿をどう教えられたか、こちらに書きました。