歎異抄の名言をわかりやすく解説する

仏教書の中で最も多くの人に読まれてきたのが『歎異抄』です。
その流れるような文章の美しさから『徒然草』『方丈記』と並び、「日本三大古典」に数えられます。
のみならず美しい文章であるそれ以上に、その衝撃的な内容、哲学的な深遠さは、読む人を魅了してやみません。
ここでは歎異鈔の以下の6つの文章を取り上げ、その内容に迫ります。
『善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや』
『善悪の二つ、総じてもって存知せざるなり』
『この慈悲始終なし』
『慈悲に聖道・浄土のかわりめあり』
『親鸞は弟子一人も持たず』
『さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし』
目次
歎異抄第三章「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」
「歎異抄に魅了された」というアメリカに住む作家は、歎異抄のどこに感動したのか、問われてこう答えました。
“善人より悪人が助かる”なぜそんな衝撃的なことを親鸞聖人は断言できたのか、西洋文化の中で育ってきた者には、全く青天の霹靂なのです。
悪人より善人が助かる、に決まってるはず。
ところが親鸞聖人はそんな常識をまるでひっくり返されている。
こうした謎めいたところに西洋の我々は惹きつけられるのです。
西洋の人だけではありません。
私も歴史の教科書の資料集で、この親鸞聖人のお言葉を初めて目にしたとき、「善人よりも悪人が救われる、って何だろう?」と心に残りました。
どの書物にもないこの強烈な言葉は、「人間とは何か」を知りたい人々の心を掴んで離しません。
日本思想史上最も有名な言葉、と評した人もあります。
これがどこぞの酔っ払いの言葉なら、「善人より悪人が助かる?何を馬鹿げたことを」と一蹴されましょうが、今日でも多くの人から尊敬されている親鸞聖人の言われた言葉となると、これは何か自分にはわからないだけで、何か底知れない深い意味があるのでは、と惹きつけられます。
自己の罪に落ち込む時には、底なしの慈悲のお言葉にも思えてきます。
しかしやはりどう理解したらいいかがわかりません。
人智を尽くした解説を聞き「納得した」と思った瞬間、すでに謬見に陥っている、そんな言葉です。
善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや
この言葉の本当の意味がわかった時が『摂取不捨の利益』(絶対の幸福)がはっきりした時です。
歎異抄後序「善悪の二つ、総じてもって存知せざるなり」
「何が善で、何が悪か、善悪の分別くらいついているよ」と私たちは思っていますが、本当でしょうか。
たとえば「ウソ」はどうでしょう。
「ウソをつくのは悪いこと」
「正直に生きなさい」
「ウソが嫌いな人間になりなさい」
と私たちは親や教師に教えられて育ちますが、これだって単純ではありません。
ちゃんと実行していくとどうなるか。
「正直にいいますが、貴方はヒョットコみたいなお顔をしていらっしゃいますね」
「貴方は間違いなく末期ガンです。葬式の用意でもなさって下さい。私はウソが大嫌いですから申します」
たちまち「空気の読めない人」「嫌いな人」「悪い人」と、レッテルを貼られてしまうでしょう。
プレゼンを終えた同僚が「なんでもいい、気がついたことをずばずば言ってくれ」と言うので、「それなら」と感じたことを率直に言っていると、次第に不機嫌になり、黙って行ってしまったという話を聞いたことがあります。
どうも素直で正直な善人になろうとすると、悪人になるようです。
親鸞聖人は『歎異抄』で、こう仰っています。
「善悪の二つ、総じてもって存知せざるなり」(『歎異抄』後序)
“親鸞は、何が善やら悪やら、二つとも分からない”
ウソが善か悪かくらい、聞かなくても分かると思いがちですが、本当に全て分かった人は「自分は全く分からない」と知らされるのです。
歎異抄第四章「この慈悲始終なし」
アフリカの発展途上国には、天然資源に恵まれてはいても、採掘技術がないために、世界の最貧困国の一つになっている国が少なくありません。
そこに欧米や中国の企業が利権を求めて群がってきます。
それら外国企業の参入を資源の略奪と捉え、断固拒否する人は、「この国は貧しい。この国がきちんと教育を受け、福祉も整い、国際社会でも誇りを持って対等に他の国と接するには、天然資源を自分たちで採掘し、経営していかねばならない。今のままでは外国に食い尽くされるだけで、形を変えた植民地と等しい」と主張します。
しかし一方で反対意見もあります。
「この国には十分な採掘技術がない。外国企業の力を借りるしかないではないか。こうしている間にも、子供たちが疫病や飢餓で死んでいる、彼らを救う薬も食料もこの国にはない。外国企業の資金援助や補償金を受け、国民を助けなければならない」といいます。
いずれの主張も国の発展を願い、国民のことを思っての意見なので、お互いが「正義は我にあり」と譲らず、両者は紛争にまで発展しています。
親鸞聖人は人間の慈悲を「この慈悲始終なし」と歎異抄にいわれています。
どんなに相手のことを思って、何とか助けたいと努めても、完成がない、卒業がない、これで完璧ということはない、必ず様々な問題が出てきて、いびつな面が表出する、それが人間の慈悲の実態だと教えられています。
歎異抄第四章「慈悲に聖道・浄土のかわりめあり」
先日、大学4年生の女性が私にメールを送ってこられました。
内容が内容だっただけに会って話をしたのですが、お互い時間がなく、30分だけしか会えませんでした。
改めて今度ゆっくりと、ということになったのですが、その最初にもらったメールの内容が考えさせられるものだったので、本人に了承を得て、その内容の一部、まとめたものを紹介させて頂きます。
そしてみなさんと『慈悲』とは何か、考えてみたいと思います。
以下、彼女からのメールです。
年末年始にかけて2週間インドに滞在して、いろいろ思うところがありました
帰国した翌日、たまっていたFacebookの返信してたら、このFacebookページにたどり着きましてすっごく感銘受けまして、今、このメッセ書いてます。今まで、南インドの小さな町の養護施設にボランティアの学生8名と一緒に、滞在していました。
貧困のため、家族と暮らせない子供たちが集まる養護施設でした
それまでもボランティアでフィリピン、タイ、ブラジルなどへ行ったことがあります
行く先々で、恵まれない子供たちに手を差し伸べてきました
そんな時、自分が必要とされている幸せを強く感じたものです
大学で看護の道を選んだのも、現地で活躍できるようになりたかったからですでも具体的に、将来何をするか?
決めねばならない時期が迫っていたので、今回のインドへの旅は、その大事な意味を持っていました
施設の子供たちとはすぐ仲良くなれました
日本製の品物はどれも彼らの宝物で、すぐ取り合いになります
皆、手をつなごうとして自分に群がってきました
「愛情に飢えているのだ」
一人一人がいとしかったですでもその一方、街角の路上に行けば、すさんだ目をした、たくさんの子供たちがたむろし、手を出して寄ってきました
恐ろしくて思わず逃げ出しました
支援といっても、どこかで割り切らないといけないんです
帰国すれば自分の生活もあり、遠い国のことまではとても……となってしまいますし
期日がきて、施設の子供たちとは涙ながらに別れ、帰りは知り合った仲間同士、互いの夢を語って盛り上がりました
えがたい経験で、一生かけてもいい仕事だと思えましただが同時に、誰にもいえなかったのですが、心にくすぶってきた疑問は「ボランティアといっても、自己満足でやっているんじゃないか?」ということです
次の奉仕活動を決める際、内容を自分で選びます
老人よりも子供が・・
海外のほうが・・
でもあそこはいやだ・・・
そんな現場の中で、結局は自分が満足できる形のボランティアだけしているようで。そんな時、このFacebookページが目にとまり、共感する内容が多くて、つい読みふけってしまいました
それまでは仏教ってぜんぜん知らなかったんですけど、今の自分の疑問にどんな答えがもらえるんだろう、っておもって。
またお忙しかったら、いつでもいいので、なんかアドバイス、教えてください。
さて、この質問に仏教、親鸞聖人はどう説かれているか、その答えが「慈悲に聖道・浄土のかわりめあり」の歎異抄4章なのです。
歎異抄第六章「親鸞は弟子一人も持たず」
『親鸞は弟子一人も持たず』とは、歎異抄の中の有名な一節です。
親鸞聖人は、指導者意識、派閥根性を徹底して嫌われた方で、常々「私には弟子は一人もいない」と仰っていました。
組織のリーダーや会社の経営者なら「どうしたら皆をまとめていくことができるのか?」というテーマには関心が高いと思いますし、チームのキャプテンも、家族の中のお父さんも、どうやったらみなの心をこちらに向けていけるか、考えることでしょう。
しかし、よく考えてみると、そもそもその思いが、自惚れでないでしょうか?
みんなをまとめる。
そんな力、誰があるのでしょう?
そんな事できる自分ではないではないか。
そもそも、自分の心さえ自分で統御できずに「わかっちゃいるけどやめられぬ」と失敗している者なのに、どうして人の心をまとめていける、というのだろう。。。
親鸞聖人は、自分で自分の心さえどうにもならない己の悲しい実態を知らされ、「こんな親鸞が人を導けると思うのは笑止千万だ」と自戒され、【親鸞は弟子一人も持たず】と宣言されたのです。
歎異抄十三章「さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし」
秋葉原連続通り魔事件の犯人、加藤智大被告の死刑が確定した、とのニュースが流れました。
2015年は年始早々から、命の重さを考えさせられる事件が多発しています。
フランスのテロに始まり、イスラム国の日本人人質、19歳の名大生の殺人。そしてこのたびの死刑確定。
何百億円で人命が取引されるかという一方で、好奇心から殺されていく命もある。
今回の加藤被告なら、国家の法で命を絶たれることになりました。
以下に紹介するのは加藤智大被告の弟さんの遺した言葉です。
あれから6年近くの月日が経ち、自分はやっぱり犯人の弟なんだと思い知りました。
加害者の家族というのは、幸せになっちゃいけないんです。
それが現実。
僕は生きることを諦めようと決めました。
死ぬ理由に勝る、生きる理由がないんです。
どう考えても浮かばない。
何かありますか。
あるなら教えてください。
この1週間後、彼は自ら命を断ちました。
兄が犯した事件によって職を失い、家を転々とし、就いた職場にもマスコミが来るため、次々と職も変わらなければなりませんでした。
一時は受け入れてくれた恋人も家族や友人の反対で別れることになり、絶望を深めていった中での決断でした。
「あるなら教えてください」という彼に、親鸞聖人のことを伝えたかったと悔しく思います。
親鸞聖人は、幸せになっちゃいけない人なんか誰もいない、たとえ死刑囚でも、世界中の人から「お前は死んだ方がいい」と言われても、生きなければならない理由があるんだよ、そんな人が本当の幸せになれるんだよ、と生涯教えられた方だからです。
親鸞聖人はご自分のことをこう告白されています。
『さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし』(歎異抄第四章)
(縁さえくれば、どんな恐ろしいことでもする親鸞だ)
これは親鸞聖人個人だけではなく、人類共通の実態といえましょう。
相次ぐ人命軽視の事件に、テレビのワイドショーもネットのコメントも「考えられないこと」「酷いね、人間じゃないね」と大合唱の非難となりますが、それらの声を聞いていると「そんな可能性ゼロの無謬人間が存在するのだろうか」と危うく思われてきます。
心理学者ユングは「疑いもなく、つねに人間の中に棲んでいる悪は、量りしれない巨魁なのだ」と言っています。
『さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし』(歎異鈔)
「あのようなことだけは絶対しないと、言い切れない親鸞である」
聖人の告白どおり、いかなる振る舞いもする、巨悪をひそませる潜在的残虐者が私、といえるのではないでしょうか。
ましてや犯人の家族だからというだけで、白い目で見たり、気持ち悪がったりするのは、じゅうぶん傷ついている家族をさらに追い詰めることになってしまうので、慎まなければならないと思います。
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