歎異抄に魅せられた司馬遼太郎とハイデガー

仏教書の中で最も多くの人に読まれてきたのが『歎異抄』です。
その流れるような文章の美しさから『徒然草』『方丈記』と並び、「日本三大古典」に数えられます。
美しい文章である以上に、その衝撃的な内容、哲学的な深遠さは、読む人を魅了してやみません。
ここで歎異抄に魅了されている知識人の声を二、三、紹介しましょう。
歎異抄に魅了された人々
その一人が国民的歴史作家、司馬遼太郎氏です。
歎異抄について、かって氏が講演で述べている箇所がありました。
私は兵隊に行くときにショックを受けました。
まず何のために死ぬのかと思ったら、腹が立ちました。
いくら考えても、自分がいま急に引きずり出され、死ぬことがよくわからなかった。
自分は死にたくないのです。
ところが国家は「死ね」という。
死んだらどうなる かが、分かりませんでした。
人に聞いてもよく分かりません。
仕方がないので本屋に行きまして、親鸞聖人の話を弟子がまとめた『歎異抄』を買いました。
非常にわかりやすい文章で、読んでみると真実のにおいがするのですね。
人の話でも本を読んでも、空気が漏れているような感じがして、何かうそだなと思うことがあります。
『歎異抄』にはそれがありませんでした
時代考証、現地の歴史を調べ上げて、徹底したリアリズムを追求する司馬遼太郎なればこそ、多くの書に「空気が漏れているような感じがして、何かうそだなと思う」と敏感に察知するのでしょう。
毎年流行っては廃っていく「○○心理学」や「○○の思想」などを読んで、「空気が漏れているような感じがして、何かうそだなと思う」と感じられる人は案外多いと思うのですが、そんな思いを持っている方が歎異抄を読まれると、司馬遼太郎のように「『歎異抄』にはそれがない」「真実のにおいがする」と感じられるのではないかと思います。
歎異抄には親鸞聖人の言行が生き生きと活写されています。
歎異抄を読む人は、常識を覆す親鸞聖人の言葉の数々に惹きつけられ、時に身震いさえ感じます。
きっと司馬遼太郎氏はそうだったのでしょう、こうも書き残してます。
「鎌倉時代というのは、 一人の親鸞を生んだだけでも偉大だった」
鎌倉時代に起こったあらゆる事件、そこにまつわる様々な人物に精通し、日本史上における鎌倉時代の位置づけなど多角的に論じられる氏が一言で「鎌倉時代は偉大な時代だった」と断じている。
しかもその理由が「だって親鸞を生んだ時代じゃないか」と言っているのです。
さらに氏は言います。
「無人島に一冊の本を持っていくとしたら『歎異抄』だ」
司馬氏と同じようなことを日本三大哲学者の一人、西田幾多郎も言っています。
第二次世界大戦末期、空襲の火災を前に言った言葉です。
「いっさいの書物を焼失しても、『歎異抄』が残れば我慢できる」
また20世紀を代表する哲学者の一人であるハイデガーが、晩年の日記にこう記しています。
今日、英訳を通じてはじめて東洋の聖者親鸞の歎異抄を読んだ。
「弥陀の五劫思惟の願を案ずるにひとえに親鸞一人がためなりけり」とは、何んと透徹した態度だろう。
もし十年前にこんな素晴らしい聖者が東洋にあったことを知ったら、自分はギリシャ・ラテン語の勉強もしなかった。
日本語を学び聖者の話を聞いて、世界中にひろめることを生きがいにしたであろう。
遅かった。
自分の側には日本の哲学者、思想家だという人が三十名近くも留学して弟子になった。
ほかのことではない。思想・哲学の問題を随分話し合ってきたが、それらの接触を通じて、日本にこんな素晴らしい思想があろうなどという匂いすらなかった。
日本の人達は何をしているのだろう。
日本は戦いに敗けて、今後は文化国家として、世界文化に貢献するといっているが、私をして云わしむれば、立派な建物も美術品もいらない。
なんにも要らないから、聖人のみ教えの匂いのある人間になって欲しい。
商売、観光、政治家であっても日本人に触れたら、何かそこに深い教えがあるという匂いのある人間になって欲しい。
そしたら世界中の人々が、この教えの存在を知り、フランス人はフランス語を、デンマーク人はデンマーク語を通じてそれぞれこの聖者のみ教えをわがものとするであろう。
そのとき世界の平和の問題に対する見通しがはじめてつく。
二十一世紀文明の基礎が置かれる。
ハイデガーがいかに『歎異抄』の内容に心を揺さぶられたか、伝わってくる述懐ですが、特に私は「自分はギリシャ・ラテン語の勉強もしなかった」と書いていることに、彼の受けた衝撃の大きさを感じます。
ハイデガーといえば、まぎれもない世界の哲学界の巨人です。
その彼が「ギリシャ語やラテン語の勉強もしなかった」と言い切っているのはどういうことか、わかられますでしょうか。
西洋哲学を勉強する学者にとってギリシャ語やラテン語は必須であり、ギリシャ語とラテン語の文章が読めない者は、西洋哲学の学者としては「お話にならない」のがその世界の常識です。
ということはハイデガーが「自分はギリシャ・ラテン語の勉強もしなかった」と言っているのは「自分は西洋哲学を学ばなくてよかった」と言っているのと同じであり、取りも直さずそれは、今日も燦然と輝く彼の世界的業績を「無かったものにしてもいい」と、彼自身が言っていることと同じなのです。
これはちょうどイチローが「もしこんなスポーツがあることを子供の時に知っていたら、自分は野球をやらなかった、これをやっていた」と言ったようなものです。
今までハイデガーが生涯かけて築き上げ、揺るぎなき世界的評価を受けた哲学を、全部無しにしてもいいから、自分は日本語を学んで歎異抄を学びたいと言っているのですから、いかに『歎異抄』の内容に衝撃を受けたか、この本に書かれている内容をもっと知りたい、と彼が渇望したか、伝わってきます。
『歎異抄』は700年前に書かれた鎌倉時代の古典で、親鸞聖人の言行が、弟子の唯円により、生き生きと活写されています。
『歎異抄』を読む人は、常識を覆す親鸞聖人の言葉の数々に惹きつけられ、時に身震いさえ感じます。
きっとハイデガーもそうだったのでしょう、「何だろう、この心の世界は。。。。」と。
しかし『歎異抄』は、母国語である日本人が読んでも、よほど深い仏教の理解がなければ誤解して大けがをしてしまうところから「カミソリ聖教」として、長らく浄土真宗では秘本と封印されていた書です。
英訳の『歎異抄』を読んだハイデガーが、どれだけその内容を理解したか、とは思いますが、あれほどの人ですから、親鸞聖人の鮮烈な言葉の数々に「ここには自分が求め続けて果たし得なかった答えがあるのでは」と、何か真実の香りのようなものを直感したのではないか、と思います。
歎異抄に示された人生の目的
では『歎異抄』には、何が教えられているのでしょうか。
一言で言えば「摂取不捨の利益」が明らかにされています。
『歎異抄』全十八章を総括する第一章に、親鸞聖人は万人の生きる目的を「“摂取不捨の利益”にあづかることだ」と喝破されています。
「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」とは、文字どおり“摂め取って捨てぬ”ことであり、「利益」は“幸福”をいいます。
”ガチッと摂め取られて、捨てられない幸福”を「摂取不捨の利益」と言われるのです。
考えてみれば私たちは、学校から、会社から、親から、子供から、健康から、恋人から、友人から、健康から、家庭から、金や財から、名誉や地位から捨てられはしないかと、四六時中、ビクビクしてはいないでしょうか。
「今さえ幸せならあとはどうなってもいい」というドラマのセリフはありますが、現実は、明日が不幸なら、今日の幸福に暗い影をおとします。
今さえ幸せなら、とは口だけで、あとの人生が暗かったら、今の幸せさえも、幸せにならないのです。
時の経つのが悲しくなり、幸せに悲しみが混じるからです。
いつか捨てられる時がやってくる・・
別れなければならない時がくる・・
薄氷を踏むような不安の中に人間は生きています。
そんな私たちが心の底で求めているのは、ガチッと摂め取られて絶対に捨てられない幸せ、たとえ何が起きても変わらない安心、満足です。
歎異抄第一章では、その幸福の厳存を親鸞聖人は『摂取不捨の利益』と宣言されています。
歎異抄についてもっとくわしく知りたい方はこちら