貪欲(とんよく)で造る恐ろしい悪業を解説する

お釈迦さまが、私たちの心で造る罪悪の筆頭にあげられているのが『貪欲(とんよく)』です。
欲の心がどう悪を造るのか、今回学びます。
事件の裏に貪欲あり
私たちの持つ欲の中でも代表的なものをお釈迦様は五つ挙げて『五欲』と教えられます。
そして人間は常に五欲で動いている、と説かれています。
五欲とは【食欲】【財欲】【色欲】【名誉欲 】【睡眠欲】の五つです。
【食欲】とは、食べたい、飲みたいという欲。
【財欲】とは、お金が欲しい、お金だけでなく、車が欲しい、服が欲しいといった物欲もこの財欲に入ります。
【色欲】とは、男性なら女性が欲しい、女性なら男性が欲しい、と異性を求める欲。
【名誉欲】とは、人からほめられたい、認められたい、嫌われたくない、という欲。
【睡眠欲】とは、寝ていたい、楽したい、という欲
これは皆さん、自分の心に日々現れている心でしょうから、よくわかられると思います。
さて、この欲の心を仏教では「青」にたとえられます。
青鬼の獄卒が罪人を痛めつけている様子が描かれた地獄絵図を見られたことはありませんでしょうか。
あれはどこかに地獄の鬼がいて、その第三者たる鬼によって苦しめられるのではなく、自らの深い欲のために罪を造り、報いで苦しんでいるのですよ、と教えられている絵なのです。
ではなぜ欲の心を青に例えられるのかと申しますと、海は、深ければ深いほど青みを増すように、底の知れない欲の心を「青」で表わされています。
無ければ無いで欲しい、有れば有るでもっと欲しい、どこどこまでも際限のない欲に振り回され、罪を重ね、結果としてその報いで苦しんでいるのが私たちです。
ひとつの実例を通してお話ししましょう。
ある夫婦。
すでに二人の仲は冷え切っており、寂しさから奥さんがパート先で出会った男性と不倫の仲になりました。
もし発覚したら夫婦は崩壊の憂き目を見るのですから、こんなことは終わりにしなければと思うものの、欲の心で密会を重ねてしまいます。
そして青に例えられるように、欲は際限ないものですから、最初は一か月に一回くらいの逢瀬がいつしか頻繁に会うようになり、やがては「生活を共にしたい」とまで思いつめるようになります。
この奥さんの欲は五欲の中でいえば『色欲』にあたります。
では奥さんがこの『色欲』を満たす方法としては、離婚という選択肢がまず考えられますが、それは奥さんにためらいがある。
離婚したら経済的に大変になるからです。
欲しいものも買えなくなる、生活に追われる、いわゆる『財欲』が満たせなくなるという理由から、一歩踏み切れないでいる。
さらに離婚は『名誉欲』からいっても、バツイチとなり、離婚の理由が理由なだけに親兄弟親戚からあきれられるかもしれないと思うと憂鬱です。
それら財欲や名誉欲を満たそうという時には離婚は避けたい。
しかし離婚をあきらめれば不倫相手と生活を共にできない、今度は色欲を満たすことができない。
『財欲』と『名誉欲』を満たそうとすると『色欲』が満たされず、『色欲』を満たそうとすれば『財欲』と『名誉欲』が満たされなくなる。
どちらかの欲を取るとどちらかの欲は満たせない、どこまでいっても堂々巡りのジレンマに迷い悩むのが我々の実態です。
さてこの奥さん、この財欲、色欲、名誉欲、すべて損なうことなく、万事うまくいく道があるのがふっと浮かびました。
なんだと思われますか。
それは今の主人が事故や災難で死亡するという事態です。
そうなれば晴れて不倫相手と結婚できるし、そのことで周囲から白い目で見られるような展開にはならないし、生命保険も降りるし、万事うまくいく・・
何を自分は考えているんだろう、といったんは打ち消すものの「夫が死んでくれたら」といつしか思いつめるようになる。
まさに青鬼。
欲の心が恐ろしいことを思わせるのです。
不倫相手との共通の会話では「夫がいなくなってくれれば」と互いの願望を口にするようになり、やがてその不倫相手の男が「事故に見せかけ、ばれずに夫を殺すことができる」とそそのかし、ついに二人結託して夫を殺害、発覚して捕まる、というこの類の事件は毎年何件かニュースになるように思います。
どこにでもある話、ということなのですが、欲の心が引き起こす惨劇です。
決行まではしなくても、このように思いつめている人は少なくないのかもしれません。
お釈迦様が人間が心で作る罪悪の筆頭にこの欲の心を挙げておられるのも首肯させられます。
貪欲(欲の心)の本性は『我利我利亡者』
貪欲(欲の心)の本性は『我利我利亡者』である、と釈尊は説かれました。
我利我利亡者とは、自分さえよければ人はどうなってもいい、という心です。
その貪欲の一つに『財欲』があります。
お金が欲しいという欲であり、物が欲しいという欲です。
今日、物欲と言われるのも、この『財欲』にあたります。
この財欲によって私たちは、どれだけの人を苦しめ、傷つけ、殺していることか知れません。
一例を見てみましょう。
カラシニコフ自動小銃。
悪魔の銃です。
この銃は、その軽量から10歳の子供も使うことができるのです。
もちろん子供用だから、といっておもちゃではありません。
この機関銃の開発により、年端も行かぬ少年が兵士となりました。
アフリカの紛争地域で、この銃で殺傷された人は数え切れません。
実はこれら紛争地域の多くが、石油やダイヤモンドの産地です。
産地となる国々では、石油やダイヤモンドの利潤をめぐって、これら政府軍、反政府軍の終わることなき紛争が続いてます。
原因はダイヤをめぐる財欲です。
一方、石油やダイヤモンドを消費するのは、先進国の我々です。
ダイヤの宝石が欲しいという先進国民の財欲が戦争の原因と知れば、私たちは地球の裏側の国々の紛争に無関心ではいれません。
「戦争の原因を知りたければ『誰が得をしたか』考えてみればその答えがわかる」とよく語られます。
民族間の紛争で、家族を殺されたり、家を失って難民になったりして誰も得をした人はいない。
得をしたのは、その国のごく一部の権力者と武器や戦闘機を売って儲けた軍需産業、そして戦争の後、ビジネスにやってくる欧米の企業です。
どれだけ市民団体が運動を起こしても、国連が介入しようとしても、戦火は拡大するばかりで、人間の財欲はとどまるところを知らず、アフリカに次々と悲劇をもたらしています。
石川五右衛門の辞世の句に見る財欲という貪欲
「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」
石川五右衛門の辞世と伝えられる歌です。
“川浜の砂がたとえ尽きることがあろうとも、この世の中に盗人がいなくなることはない、なぜなら盗人の種が尽きることがないからだ”という意味です。
ここでいう「盗人の種」とは、人のものを盗みたいという心のことです。
奪ってでも、盗ってでも自分の物にしてしまいたいという欲の心が人を泥棒という犯罪に走らせるのですから、まさにその心は「盗人の種」です。
天下の大泥棒と知られる石川五右衛門は、武将の城に忍び込むその大胆で勇敢な盗みの手口から泥棒界の英雄となり、五右衛門にあこがれ、泥棒稼業を目指す若者も現われる始末で、ときの為政者は、このまま五右衛門を野放しにしていては都の治安はよくならないと、威信をかけた大捕物を断行した末、ついに五右衛門は逮捕されます。
第2,第3の五右衛門を生まないよう、この男だけは泥棒にあこがれる若者がこりるような処刑をしなければ、と考えた政府は、五右衛門をあの有名な「釜ゆでの刑」に処します。
大きな釜で茹で殺したと伝えられ、今に五右衛門風呂として知られます。
さてその釜ゆでの刑に処せられる際、五右衛門が詠んだとされる歌が「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」です。
“オレをみせしめにしてこの世から泥棒をなくそうとしたって、この世から泥棒はなくならないぞ、なぜなら人間の心の中に、誰にも知られなければ盗んでしまえ、捕まらなければ人の物も盗ってしまえという欲の心があるからだ”と詠んだ歌です。
石川五右衛門の予言通り、五右衛門処刑後も泥棒が絶えることはなく、あれから400年以上経った今日もそれは変わりません。
当時の日本よりずっと法整備もされ、警察機構もしっかりし、防犯対策も向上していますが、やはり窃盗、強盗、詐欺、などの犯罪はなくなっておらず、石川五右衛門の予測は当たっていると言わざるをえません。
法律を整備すると、その法の抜け道を見つけてまた人をだまそうとする者が現われる。
それで法を改訂して抑止しようとすると、そのまた法の盲点を突く犯罪が出てくる。
いたちごっこです。
科学が発達し、その技術が防犯に生かされても、盗む方も先端科学を利用し、新たな盗みのやり口を生み出します。
お金やカードを持ち歩くと盗まれるのが心配だからとネットバンキングを利用すれば、ハッキングされ、口座のお金が盗み取られる犯罪もあり、住所が特定されないよう、個人情報保護法を設定しても、瞳に映った景色からその人がどこに住んでいるか特定するストーカーも出てきています。
カードナンバー、パスワードは盗まれる心配があるからと、最近では指認証システムが導入されますが、ピースサインの写真からその人の指紋も復元し、指認証をパスする犯罪も出てきてます。
政治、経済、科学、医学と、どれだけ世の中が変化しても、人間の心が変わっていないので、犯罪がこの世からなくなることはないのです。
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