その人の欠点より長所を見ることのできる人になろう

今回は「他人の長所を発見し、認めることの大切さ」をお話ししてまいります。
他人の長所を発見し、認めることが大切であることは、管理職のマネジメントでも、子供の教育でもよく言われることですが、なかなかできる人がありません。
なぜできないのでしょうか。
それは「人の欠点、短所を気付くよりも、人の長所を発見する方が難しい」からです。
その難しいことができるようになると、慕われ、愛され、尊敬される人になります。
少しでも前進するために、今回は3つの事例を通して、このことを学びます。
なぜ人の長所を発見するのは難しいのか
人の欠点に気付くよりも、人の長所を発見する方がずっと難しいのは、自分の日常からもよく知らされます。
私は必要に迫られ、文章を勉強しており、人の書いた文章を注意深く読み「この切り口と表現は上手いな」とか「自分だったらこうは書かないな」と、こっそり評価することがあります。
そういう訓練をするようになって感じることは「短所を批判するのは簡単だ」ということです。もちろん人のやり方や作品の欠点、短所に気付くのも、幾分かの知識、感性がなければできないことなので、気付ける、というのは、その人の一つの力量ともいえます。
しかしちょっと学べば、けっこう気付くことはできます。
気付いたときに、気をつけねばならないことがあります。
それは気付いただけでは終わらず、気付いた欠点、短所を、誰かに言いたくて仕方なくなることです。
人のやり方や作品をけなすことが自己主張の場となり、「自分はこんなに見る目があるんですよ」と自慢になり、相手を見下すことで優越感にも浸れることができ、いろいろと気持ちがいいから、言いたくなるのだと思います。
人の短所を批判し、けなす人は、どこにでもいるのはこの心理が働くからでしょう。
対して「長所をほめるのが難しい」のです。
長所を発見できる人は、力のある人です。
長所が分かる人は、相当その分野で「できる」人、または相当その道で「やってきた」人です。そんな人は少ないので、人の長所を発見できる人は少ないのです。
「すごい」と言われる人の、どんな点がすごいか、ということも、自分がある程度までいかないと、わかりません。
ある程度まで自分のレベルがいくと、みんなが言う「すごい」とはこのことか、とわかってきます。
ましてや誰もすごいと言わない人のすごい点を発見できる人は、よほど「すごい」人です。
砂利の中からダイヤの原石を見つけられる眼力の人ですから。
批判し、けなす人は、「じゃあお前やってみろ」とやらせると、できないことも往々にありますが、長所を見抜ける人は、間違いなく「やってきた」人です。
仏教で「他人の長所を発見し、認めることの大切さ」が教えられるのは、つい人の短所ばかり気付き、言いたくなるのが人間の本性なので、その心を抑えなさい、人の長所を発見し、引き出せるような人間を目指しなさい、との勧めなのです。
人の欠点ばかり見ていると不幸になる
人の長所を見ず、欠点ばかりが目につくのが人間の本性ですが、それを自制せず、そのままに放置すると、自分も周りも苦しむことになります。
武断派と呼ばれる加藤清正と、文治派の石田三成との仲違いが、豊臣政権を弱体化させ、家康の政権奪取を許したのは、歴史上よく知られる話です。
加藤清正らからすれば、秀吉がまだ信長の一武将として戦に明け暮れていたときから、共に戦い、武勲を挙げ、天下統一を秀吉と共に成し遂げてきた自負がありますから、すべて整ったあとに側近で大きな顔して指示を下す石田三成が鼻持ちならなかったのでしょう。
石田三成としても、天下統一後の政権運営が、その緻密さ、計画性、調整など、どれほど骨の折れる仕事か、その重責がいかばかりか、お前たちには分かるまい、文句ばかり言いやがって、と思っています。
唐入りの際も加藤清正らは、異国で飢えと寒さをしのぎながら闘っている俺たちの苦労がお前に分かるか、と不満のはけ口が石田三成に向きます。
三成は三成で、かつてなかった大がかりの兵站など、オレにしかできない仕事だ、と寝食忘れて任務に取り組み、槍を持って戦う猪武者とは違う、と強烈な自負があります。
天下に稀なる長所を持った二人でしたが、お互いがお互いの長所を敬わず、相手の短所、欠点をあげつらい、その軋轢が家康の工作に利用されました。
たいてい私たちは、自分が苦労してやっていることを、やらない人、できない人がいると、気がつき、干渉したくなります。
そして自分がやっていないことを、やっている人、できる人がいても、気がつきません。
気がついても、たいしたことだとは思いません。
加藤清正は石田三成のできることはできず、石田三成は加藤清正のできることはできず、その両者が相手のできることを尊重するのではなく、相手のできないことを批判し合ったところに悲劇が起きました。
三国志の諸葛孔明と関羽・張飛の関係も最初こそ両者の間はぎくしゃくしますが、孔明は関羽・張飛のたぐいまれな長所を敬い、生かそうとし、関羽・張飛も孔明のたぐいまれな長所を敬い、信頼していき、それが蜀の建国へとつながっていきました。
「他人の長所を発見して、ほめるようにしよう」と仏教で説かれるのは、それが良い種まきだからです。
良い種をまけば、良い結果が生じます。
逆に、他人の短所をあげつらい、悪口ばかり言っていると、これは悪い種まきですから、不幸、災難の悪い結果が生じます。
「言うは易く、行うは難し」ですが、少しでも良い種まきができるよう、前進していきたいものです。
難しいのは私たちが煩悩の塊だから
世の中には三通りの上司のタイプがいます。
1.部下の短所にも長所にも気付けぬタイプ、
2.部下の短所には気付くが、長所が見つけられないタイプ、
3.部下の長所と短所が分かるタイプ
もちろん優秀な上司は、3番です。
言うまでもなく、人には凸凹があって、それがある分野においては強みとなり、またある分野においては弱みとなります。
上司は部下の強みと弱みを的確に把握し、強みを十二分に発揮してもらい、部下が弱みによって苦しまないようにするにはどうしたらいいか、考えるのが仕事です。
マネジメントの研究で知られるドラッカーの「組織とは、強みを成果に結びつけつつ、弱みを中和し無害化するための道具である」と言っているのは、このことです。
「この人のこういうところ、まずいな」と、部下の弱み、欠点の面を見つけるのは比較的簡単です。
難しいのは、部下の強み、長所を発見することです。
ところが優秀な人でも、なかなかこれができない人が多く、中には部下を叱りつけるのが仕事だと勘違いしている人もあります。
いわゆる2番のタイプです。
もちろん2番も、誰でもできるものではありません。
人の欠点が分かるのは、少なくともそのことを自分ができている人だからです。
平社員の時に優秀な営業成績をあげ、抜擢人事で役職についたものの、上司としては成果を上げられないという人が2番タイプには多くあります。
ほとんどの人が1番か2番で、3番のタイプの人はほとんどありません。
それは人の長所を発見することが大変難しいからです。
人間の本性から言えば、人間は相手の欠点ばかりが目につき、鼻についてしまうものです。
仏教では私たちのことを「煩悩の固まり」と説かれています。
108ある煩悩の中には、自分は人より勝っているんだとうぬぼれる「慢」がありますし、自分が優秀であることを周りに分からせたいという「名誉欲」もあります。
さらに、できていない欠点を指摘して相手が苦しむのをおもしろがる「愚痴の心」もあるので、どうしても人間は、周りの人の欠点が気になり、それを指摘してしまいたくなるのです。
人を見下す「慢」いっぱいの上司は、部下の長所に気付けませんし、ほめられたい、一番でいたい「名誉欲」で占められている上司は、自分の長所をアピールすることに心を奪われて、部下の強みを見つけられません。
部下の長所の分かる人、そしてそれを伸ばせる上司は、自分の中に巣くう「人を見下す慢」や「ほめられたい欲」、「困っている人を見て喜ぶ愚痴」を律し、自制できる人です。
そんな人はなかなかありませんから、3番タイプの上司はなかなかいないのです。
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