どんな人にも生きる意味があると説かれた親鸞の教えとは

幸せはどこへ行った?ブッダの説く幸福の行方とは

2020/11/19
 
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菊谷隆太
こんにちは、菊谷隆太です。 東京、大阪、名古屋を中心に仏教講座を主催する仏教講師です。 専門は浄土真宗で、「教行信証」「歎異抄」を学び、皆さんにもお伝えしています。 このサイトは「どんな人にでも生きる意味がある」と宣言された親鸞という方の教えを知っていただきたいと思い、開設いたしました。

お釈迦さまはいつの世でも、どこへ行っても苦しみ悩む人間の姿を「有無同然」と説かれています。
有っても苦、無くても苦、無い人は鉄の鎖で縛られ、有る人は金の鎖で縛られているようなもの、どちらも縛られて苦しんでいることには変わりがない、と言われています。
その「有無同然」の仏説を今回は4つの事例を通して話をしてまいります。
1つは、子供がいない人もいる人も苦しんでいる実態。
2つは周りからうらやましがられている人もやはり苦しんでいること
3つはサラリーマンが起業にあこがれ、起業した人がサラリーマンにあこがれる実態。
4つはコロナ自粛で生じた有無同然。
4つの事例を読まれると有無同然の世の実態が浮き彫りになり、本当の幸福とは何か、考える機縁となられると思います。

 

子供がいないといないことで悩み、いたら子供のことで悩む

 

『壁一重 子が有って泣き 無くて泣き』
江戸の長屋の風景を詠んだ川柳です。
長屋に壁一枚へだてて二組の夫婦が住んでいる。
一方は子供が無い夫婦二人だけの所帯、もう一方は子だくさんの所帯。
子供のない夫婦は今日もため息をつく「なんで子供ができないのか」。
薄い壁からは絶えず隣の部屋の子供たちのにぎやかな様子が伝わってきて、よけい寂しさが募る。
隣の夫婦がうらやましくてしかたない。

 

ところが一方、こちらの子だくさんの夫婦は、次から次へと子供がトラブルを起こして、気の休まることがない。
子供のことでいつも悩んでいる。
子供のいない隣の夫婦は穏やかでいいなと、つい羨ましくなってくる。

 

子供がないから苦しいんだ、子供さえいれば幸せになれるのに、という夫婦と、子供がいるから苦しいんだ、子供がいなければこんな思いをしなくてよかったのに、と悩む夫婦とが壁一枚隔てて隣り合わせに住まいしているのを『壁一重 子が有って泣き 無くて泣き』と詠んだのです。

 

現代も同じです。
以前ブログで「80・50問題」という日本の社会問題を取り上げましたが(まだの方はこちらからどうぞ http://kikuutan.hatenablog.com/entry/0106058050monndai)こんな境遇の親が「子供なんて産まなければよかった」「こんな思いをするくらいなら育てるんではなかった」との思いにかられるのも無理からぬことです。

 

では子供がなければ幸せでしょうか。
最近「老老介護」という言葉をよく耳にするようになりました。
子供がない夫婦がお互い高齢になり、一方が介護が必要になると、老人が老人を介護しなければならなくなり、これが「老老介護」です。
腰の曲がった妻が、足腰の立たない夫を介護している姿は傍目にも痛々しいばかりです。
さらには「認認介護」という言葉もあります。
軽い認知症の一方が、重い認知症のもう一方を介護する、というのです。
このような目を背けたくなるような悲惨の実態が今も日本のそこかしこで見かけられ、今後ますます直面すべき問題です。
そんな夫婦は「子供さえいればこんな辛い思いもしなくていいのに、子供がいてくれたら支えてもらえるのに」「子供ができなかったためにこんなみじめな思いをするなんて」と苦しんでいます。

 

子供のない夫婦は、このまま二人共に高齢になり、介護が必要になったらどうしたらいいのか、と悩み、子供がいる夫婦は、こんな思いをするなら子供なんかつくらなければよかった、と悩む。
有っても苦、無くても苦、無い人は鉄の鎖で縛られているようなものであり、有る人は金の鎖で縛られているようなもの、どちらも縛られて苦しんでいることには変わりがない、これを「有無同然」と釈迦は説かれています。

 

羨望の的だった夏目漱石のひそかな苦しみ

 

「のんきと見える人々も、心の底を叩いてみれば、どこか悲しい音がする」
夏目漱石の言葉です。
傍から見ると「あの人は幸せそうだなぁ」「あんな立場の人には苦しみはないんだろうな」とうらやましく思う人でも、よくよくその人と腹を割って話をしてみると、「こんなに苦しんでたのか」「こんなに辛い思いを抱えていたのか」と知らされてきます。
表面的な会話、付き合いではわからなかったことが、深い付き合い、本音の部分を言い合う仲になると「そんな不安を抱いていたのか」「そんなにまで焦燥感を持って生きていたのか」と驚くのです。
それを漱石は「どこか悲しい音がする」と書いています。

 

私たちは自分の苦しみには敏感ですが、他人の苦しみには鈍感です。
人の苦しみを分かってあげられないのです。
世界が違いすぎるからです。
だから常に、自分に比べて他の人は「のんきに見える」のです。

 

部下は上司がのんきに見えてくる。
上司は部下はのんきでいいよなと思う。
夫は妻はのんきだなと思い、妻も夫はのんきだとイライラしている。
本当は、のんきな人などどこにもおらず、ただその人の苦しみが、自分の目には見えないだけなのです。
よくよくその人の心の底を叩いてみれば、みなどこか悲しい音がします。

 

夏目漱石も当時の一般庶民から見れば、のんきに見えた人といえるかもしれません。
才能に恵まれ、容姿端麗で、大学講師の時に執筆した「吾輩は猫である」でブレークし、作家として文壇で不動の地位を築き、妻や子供と大きな邸宅に住み、たくさんの弟子も持ち…
その姿は糊口を凌いでやっと生きる一般庶民には、何も悩みがない人のように思えたでしょうが、繊細で鋭敏な神経に人の世は相当つらかったらしく、生涯、神経衰弱、ノイローゼで苦悶し、持病のリュウマチ、胃病は年々悪化し、50歳で亡くなっています。
奥さんに宛てた手紙の中で「人間は生きて苦しむだけの動物なのかもしれない」と書いていますが、漱石の生涯の実感だったのでしょう。

 

サラリーマンと個人事業主、どちらがつらいか

 

インターネットの普及で個人が在宅ワークで収益を得ることが容易になり、サラリーマンを辞め、起業を考える人が増えてきました。
「サラリーマンは嫌だな、目覚まし時計で無理矢理起こされ、満員電車に揺られて会社に行き、上司からはノルマの達成状況をあれこれ言われ、同僚や部下との人間関係にも気を遣い、がんばっても報われることもなく、また次の仕事を押しつけられる。もううんざりだ・・・」

 

こんな気持ちになっているところに、ネット上、SNSから「こっちの水は甘いぞ」とばかりにこんな声が聞こえてくる。
「起業して経済的自由を手に入れて、今の私はこんなにストレスのない生活を送っています。あなたも同じように稼ぎませんか」

 

「いいなあ、この人の生活。起業すれば人間関係で悩むことなく、仕事の時間も自分で自由に決めることができ、好きなことをして稼げるのだから、こうなった方がずっと幸せだな」と羨望し、起業しようと決意するのです。

 

ところが起業したら幸せかというと、そうでもない。
やってみて初めて知るその道の険しさに驚き、いつしかサラリーマン生活がうらやましくなってくる。
何がうらやましいかと言えば、何といっても「サラリーマンの安定収入」です。
どれだけ上司が嫌だ、ノルマが嫌だ、と言ったところで、ちゃんと決められた日にきちんと決められた額が振り込まれる、あの安定収入は何にも代え難い幸せなことだった….
これは起業してみて初めて知るサラリーマンの幸せです。

 

個人事業主は常に不安にさらされています。
今月は収益がよくても、来月は大丈夫か不安ですし、今年はなんとかなっても、来年はどうなるか、常に生活は背水の陣です。
安定した収入が見込めるというのはどれだけ幸せであったか、起業してみてつくづく骨身に染みるのです。

 

夏目漱石が「のんきに見える人々も心の底を叩いてみればどこか悲しい音がする」と言っているように、「あの人はのんきだなぁ」と思っている人でも、その人と本音で親身に語り合ってみると「こんなにこの人は苦しい思いをしてるのか」「そんなにも寂しくて辛い思いを抱えていたのか」と驚きます。
サラリーマンは、朝もゆっくり起きネクタイもせずにコーヒー飲みながら在宅で仕事する個人事業主がのんきに見えて仕方がない。
個人事業主は、安定した収入が入ってきて、仕事の時間が終われば酒飲んでナイター見ているサラリーマンにのんきなものだと言いたくなって仕方がない。
「となりの芝は青く見える」で、どちらも相手がのんきに見えてくるものなのですが、実はどちらも「心の底を叩いてみればどこか悲しい音がする」で、その人でなければ分からない苦しみがあるのです。

 

コロナが教えてくれた有無同然

 

「在宅困難者」なる言葉が広がりつつあります。
コロナによるテレワークで1日中家にいる夫が妻に相当のストレスを強いていて、それを察した夫が家に居づらい現象が起きているというのです。
国は「家にいろ」というし、うちの妻は「家にいてほしくない」と態度で訴えてくるし、どこにいても責められて居場所がない、と途方に暮れるかわいそうなお父さんが増えているみたいです。

 

それがエスカレートした事例が「コロナDV」「コロナ離婚」です。
家にこもる生活でお互いのストレスがたまり、経済的不安も追い打ちをかけて、ケンカが増え、夫が妻に暴力を振るう「コロナDV」。
国連も事態を重視し、各国に対策を求めています。
一緒にいる時間が増えたことで「お互いわかり合えた」なら結構なのですが、「やっぱりこの人と一緒にやっていくのは無理だわ」となるケースが多いらしく、弁護士相談などからも、今後裁判所が再開したら「コロナ離婚」が殺到する見込みだとのこと。

 

サラリーマンなら誰もが憧れる夢の在宅ワーク、どうせうちの会社は無理だ、と言っていたのが、このたびのコロナ自粛は実現させたはずです。
これで人間関係で煩わされることない!
出勤のストレスもなくなった!
家族と一緒にいてやれる!
とあんなに憧れていたのはいったい何だったのか、「こんなはずではなかった」と戸惑う人が多くあります。

 

人は環境が変わって何かの苦しみを解決すると、またその違った環境で今までと違った苦しみと対面する、と仏教で説かれています。
ちょうど右肩の荷物を左肩に移し替えると一時的にはラクになったように感じますが、やがて今度は左肩が痛くなってくるようなものです。
これが手に入れば幸せと思っていたのに、やっと手に入れると、今度は別のところで不満や不安が出てくる。
こんな人間の実態を「有無同然」と釈迦は説かれています。

 

では有っても無くても同じだというのなら、なぜ人間は手に入れようと努力するのでしょう。
無くそう、捨てようと躍起になっているのでしょうか。
人類は無駄な努力を続けていることになってしまいます。

お釈迦さまは有無同然の世にあって本当の幸福がある、と宣言されています。
それはいったいどんな幸福か、いかなる心の世界なのか、お話ししてまいります。
知りたい方はこちらからどうぞ。

 

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